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2008年7月 1日 (火)

安積親王の死の周辺

光明皇后に皇子が生まれず、安積親王が成長するに従い、安積親王を皇太子にというような雰囲気が醸成されてきたのであろう。
そのような中で、あくまで藤原氏に係わる皇統の維持を図ろうということであったのであろうか。

天平10(738)年
正月十三日 阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を立てて皇太子とした。

過去に女性が立太子した例はなく、強引な決断である。
当時は、皇族・貴族の娘は、10代半ばで結婚するのが普通だったが、阿倍内親王は嫁がずにいた。
皇位継承のための手段確保のために、独身でいたということらしい。
もちろん、時代は異なるが、阿倍内親王も皇統をめぐる争いの被害者というべきかも知れない。

藤原氏は、四子の次の世代に移っていた。
既に宇合の長男・広嗣は、九州で反乱を起こして故人となっていた。
武智麻呂の次男の仲麻呂は、阿倍内親王に取り入ることを試み、房前の子の八束は、安積親王を囲むメンバーの1人として宴の場を持っていた。
安積親王を囲むメンバーには、藤原八束以外に、大伴家持、市原王などがいた。
家持が藤原八束の家の宴で安積親王を詠んだ「ひさかたの雨……」の次の歌である。

  十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、安倍虫麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首 作者審かならず
わが屋戸の君松の樹にふる雪の行きにはゆかじ待ちにし待たむ  (6-1041)

  同じき月十一日、活道岡に登り、一株の松の下に集ひて飲せる歌二首
一つ松幾代か歴ぬる吹く風の聲の清きは年深みかも  (6-1042)
  右の一首は、市原王の作なり。
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶこころは長くとぞ思ふ  (6-1043)
  右の一首は大伴宿禰家持の作なり。

  寧楽京の荒れたる墟を傷みて作れる歌三首 作者審かならず
くれなゐに深く染みにし情(ココロ)かも寧楽(ナラ)の京師(ミヤコ)に年の歴(ヘ)ぬべき  (6-1044)
世間(ヨノナカ)を常無きものと今ぞ知る平城(ナラ)の京師の移ろふ見れば  (6-1045)
石綱のまた変若(ヲ)ちかへりあをによし奈良の都をまた見なむかも  (6-1046)

恭仁京か難波京かと諮問されているうちに、人々の去った平城のまちは次第に荒れていったということだろう。
そういう中で、安積親王が脚の病気ということで難波行幸から恭仁京へ戻り、2日後に亡くなった。
天平16(744)年の閏正月のことであるから、上記の正月に詠まれた歌の1か月後ということになる。

活道岡というのは、『万葉集』巻3に治められている家持の安積親王に対する挽歌に、「皇子の尊のありがよひ見しし活道の路」という表現があり、安積親王の住んでいた場所である。
市原王は生没年不詳であるが、天智天皇の五世の孫だと言われる。父の安貴王には、志貴皇子の曾孫説と川島皇子の曾孫説とがある。
市原王の歌からしても、家持の歌も安積親王の長寿を願ったものに違いないはずである。

しかし、「たまきはる命は知らず」という表現が、正月の歌というには不似合いだという印象も受ける。
この歌の解釈には諸説があるらしいが、「たまきはる命」が、松の寿命のことだと解すれば、暗いとか不吉という印象はない、という説に取りあえずは従いたい。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~machino/yakamochi/shirazu/ikujioka.htm

ところで、安積親王の死には、恭仁京に留守で残っていた仲麻呂が関与しているのではないか、という説が有力である。
大浜厳比古『万葉幻視考』集英社(7802)は、次のように記す。

ところでこの安積親王の死は、いまもって黒い霧に包まれている。
この黒い霧を、明らかに暗殺だとするのが横田健一氏の見解である。わたくしもそれに従う。

「たまきはる命は知らず」の歌は、1か月前の時点で、家持がそういう情勢を感じ取っていた(予感していた)ことを示しているとも解釈できるが、大浜氏は上掲書で、この時点では、次のように解すべきではないか、としている。

皇統から疎外された天智の裔のひとり子の市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子家持との、夢多い招福の賀歌であったと見るべきで、彼等のとっての招福は、彼等の夢をかける安積の即位であったのだから、ここでの二人のタマフリの賀歌は、それぞれ自らへのタマフリ歌であると共に、安積皇子へのタマフリ正月賀歌であったはずである。「一つ松」に一途に安積の即位を待つ意がこめられ、「松が枝」を結んで長寿を祈る心は、安積の無事長命と即位を待つ期待とをあわせてこめたものであったであろう。

ここでの歌の配列およびその意味理解は、家持が『万葉集』の編纂に関与していることからして、『万葉集』全体の性格理解にも係わるものと考えるべきであろう。

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コメント

 私共はかねてから「安積親王」に深い関心を持っておりました。第1にその名ですがなぜ「安積」と書いて「あさか」と呼ばれたか、通常ではアサカとは読めません。実は私共の故郷・福島県郡山市は昔「安積の国」と呼ばれ今も使われていますが、万葉集の発端となったとされる葛城王(橘諸兄)が、按察使として当地を訪れた際、前采女の接待の折詠まれた「安積山影さえ見ゆる山の井の浅きこころをわがおもわなくに」(この歌の木簡が2008年滋賀県で発見され大きなニュースになりました)に感銘、当歌は後に紀貫之らによって「和歌の母」とされますが、当時左大臣までなった諸兄の推奨による名ではなかったのかと推測されるからです。
なおこの論説をまとめた拙著『安積』(歴史春秋社2009年)がありますので、ご興味がありましたらご是非覧戴きたいと存じております。安積親王の悲哀の御霊にこの地より深く深くご冥福の祈りを捧げるものです。

投稿: 七海晧奘 | 2011年11月 2日 (水) 11時43分

 私共はかねてから「安積親王」に深い関心を持っておりました。第1にその名ですがなぜ「安積」と書いて「あさか」と呼ばれたか、通常ではアサカとは読めません。実は私共の故郷・福島県郡山市は昔「安積の国」と呼ばれ今も使われていますが、万葉集の発端となったとされる葛城王(橘諸兄)が、按察使として当地を訪れた際、前采女の接待の折詠まれた「安積山影さえ見ゆる山の井の浅きこころをわがおもわなくに」(この歌の木簡が2008年滋賀県で発見され大きなニュースになりました)に感銘、当歌は後に紀貫之らによって「和歌の母」とされますが、当時左大臣までなった諸兄の推奨による名ではなかったのかと推測されるからです。
なおこの論説をまとめた拙著『安積』(歴史春秋社2009年)がありますので、ご興味がありましたらご是非覧戴きたいと存じております。安積親王の悲哀の御霊にこの地より深く深くご冥福の祈りを捧げるものです。

投稿: 七海晧奘 | 2011年11月 2日 (水) 11時57分

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