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2008年7月31日 (木)

「百人一首」と宇都宮頼綱

関東の武家の棟梁から、都の隠棲生活へ劇的な転身を図った頼綱の判断が、下野宇都宮氏の地位を守り、「百人一首」を生む契機となった。
蓮生入道・宇都宮頼綱も先祖を辿れば藤原氏の系譜であり、幼少時代から学問に励み、歌人としても一流であった。
定家と蓮生の交流は深まり、蓮生の娘を定家の息子為家の妻に、という縁談が成立し、定家と蓮生は姻戚関係となる。
2_5蓮生の娘は、北条時政の娘であり、政子・義時の姪である。

定家の『明月記』によれば、蓮生が熱心に障子の色紙形の染筆を依頼した。
つまり、定家は、息子の嫁の父から懇切な依頼を受けたわけであり、和歌の基本的なテキストを選定するということではなかったことに留意すべきである。
定家の貯えてきた薀蓄を傾けた撰歌の結果が「百人一首」であるが、それはあくまでも蓮生入道の依頼に応えたものであった。

定家は、『新古今集』の編纂において、後鳥羽上皇の口出しによって、自分の思いを反映させることができなかった。
その後の『新勅撰集』においても、後鳥羽・順徳両院の歌を削除せざるを、関白・藤原道家の命により削除せざるを得なかった。
『新勅撰集』は、幕府政権の側に属する歌人の歌が優遇されたことは、源実朝の歌が25首も選入されていることからも分かる。
宇都宮頼綱・蓮生法師の歌も3首選入されている。

535  いにしへの我とは知らじあさかやま 見えしやまゐのかげにしあらねば (蓮生法師)
611  ながむればこころのそらにくもきえて むなしきあとにのこる月かげ (信生法師)
617  のちの世をてらすかがみのかげを見よ しらぬおきなはあふかひもなし (蓮生法師)
1260 やまのはにかくれしひとは見えもせで いりにし月はめぐりきにけり (平泰時)
1261 かくれにし人のかたみはつきを見よ こころのほかにすめるかげかは (蓮生法師)

信生法師は、頼綱の弟・宇都宮朝業の出家名であり、平泰時は北条泰時で義時の息子である。
宇都宮頼綱・蓮生法師の歌は、信生法師、平泰時の歌と関連付けられ、これらは「月(かがみ)」と「かげ」をキーワードとして、リンクしている。
わずか5首の中に、宇都宮一族の歴史を語り、頼綱が北条政権にとって重要な役割を果たしていることを示している。
定家にとって、頼綱・蓮生入道は、単に息子の嫁の父というに留まらず、幕府との仲介役として重要な人物だった。

『新勅撰集』の完成が、文暦2(1235)年3月12日のことであり、『明月記』によれば、4月23日、定家は頼綱の中院山荘を訪ね、5月1日には中院山荘で催された連歌会に、定家・為家親子が参加している。
こうした中で、蓮生が定家に、襖を飾る色紙を依頼したのであろう。撰歌と揮毫である。
中院山荘の連歌会には、当代一の絵師と評されていた藤原信実も参加していたので、定家の選出した歌人の肖像画が依頼されたのであろう。
定家は、『新勅撰集』の編纂を終えたところであったから、歴代の名歌は頭の中に刻み込まれていた。
5月27日、100枚の色紙が、息子・為家によって、頼綱の山荘に届けられた。

頼綱(蓮生)・朝業(信生)としての歌人としての活躍は、下野宇都宮氏に影響を与え、和歌のメッカとして「宇都宮歌壇」が形成された。
宇都宮頼綱は、動乱の時代に数奇な運命を辿るが、たくましく生き抜いて、「百人一首」という文化財を後世に残した。

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