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2008年7月 3日 (木)

活道岡酒宴メンバーのプロファイリング

安積親王の加わった活道岡の酒宴のメンバーについて、小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)の記述を参考に、その横顔を見てみよう。

藤原八束
八束は、藤原四子の次男・房前(北家)の第三子である(系図は、上掲書)。
2後に、「真楯」を名乗るが、活道が岡酒宴の時点(天平16(744)年正月)で30歳だった。
廟堂で実権を握りつつあった橘諸兄のライバルの仲麻呂とは従兄弟の関係になる。
しかし、橘卿のグループにあって、家持らと歌宴を楽しむという柔軟性を持っていた。

橘奈良麻呂
諸兄の嫡男。この頃、23、4歳か。
直情径行型で、思ったことを口に出す。
後に、奈良麻呂の変として、多くの同士を巻き込んだ政争を招き、犠牲者を増やしてしまう(奈良麻呂系図については、08年6月25日の項)。

大伴家持
大伴一族の氏上。27歳。
従六位で、メンバーの中では叙位は一番低い(大伴氏系図については、08年6月8日の項)。

安積親王
聖武天皇の夫人・県犬養広刀自の生んだ第二皇子。夫人は、妃に次ぐ天皇配偶者の第二位である。
光明皇后の生んだ第一皇子が、立太子後薨じた直後に誕生。
5年ほど前、阿倍内親王が異例の立太子を済ませていたが、皇嗣候補として唯一の皇子である。
それが、仲麻呂・光明皇后体制にとって、呪詛される宿命となった。

市原王
生没年不詳。天智天皇の五世の孫。
父の安貴王は、志貴皇子の曾孫(川島皇子の曾孫説もある)。

それぞれに、微妙に立場と思考は異なるが、諸兄-仲麻呂と区分けすれば、諸兄の側であったということになる。
2恭仁京は、諸兄が推進した新都であったが、とりわけ安積親王が意識された宮処だったのだろう。
揺れ動く宮処は、人々に疑念を抱かせるものだったと思わせる。
天智が近江大津に遷都して以降の宮処の変遷の様子を整理すると、表のようになる(歴史雑学探究倶楽部編『天皇家の謎』学習研究社(0803)。
聖武天皇は平城京を出て、恭仁京→難波京→紫香楽宮と「彷徨」した後、平城京に還都した。
聖武の彷徨を、以下のような図式で考えることができる。
非平城京…天然痘等の災厄…聖武の主導性
恭仁京…橘諸兄の別荘/安積親王の宮
紫香楽宮…仲麻呂の大仏造顕の推進
難波宮…諸兄と元明太上天皇の聖武の仲麻呂・光明からの引き離し策
平城京…仲麻呂の工作の奏功
人間関係と権力争いが輻輳する中で揺れ動いた宮処だった。
その駆け引きの中で、若き皇子は死を迎えたのだった。

正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。知太政官事・従二位の鈴鹿王と民部卿・従四以上の藤原朝臣仲麻呂を留守官に任じた。
この日、安積親王は脚の病(脚気か)のため、桜井の頓宮(カリミヤ:河内郡桜井郷)から恭仁京に還った。
正月十三日 安積親王が薨じた。時に年は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。安積親王は聖武天皇の皇子であり、母は夫人・正三位の県犬養宿禰広刀自で、従五位下・県犬養宿禰唐の女である。

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