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2008年7月24日 (木)

「百人一首」と藤原定家

私は特に遊びの世界に通暁しているというわけでは全くないが、「百人一首」のような高雅な遊びというものは、世界的に見ても珍しいのではないだろうか。
文芸上の名作を材料に、その札を取るのを競い合う。
意味がよく分からないまま、札を取るために記憶しようとする。結果として、材料として使われている文芸作品を暗記してしまう。

私も、高校時代に国語の古典の授業において、係り結びの概念などに出会うよりも、先行してゲームとしての百人一首の方に馴染んでおり、百人一首の作品を通じて、古典文法を理解した記憶がある。
つまり、口を衝いて出てくることの効果は非常に大きなものだと思う。
小学校でも、百人一首を覚えさせているという話を聞いたことがあるが、私は、「訳も分からない」段階で、知らないうちに覚えてしまうことには大賛成である。
意味など後でゆっくり考えればいいのではないか。

百人一首は、藤原定家によって、古来の歌人百人の作品から、それぞれ一首ずつ選んだアンソロジー(詞華集)である。
天智天皇の時代から、定家が撰歌した時点までの歌人が対象とされている。
定家は、歌道の最高峰に位置していたから、彼の撰に入るということは、大いなる名誉であった、ということになる。

しかし、百人一首の撰歌過程については、論議があった。
それは、定家の日記である『明月記』の記述の解釈についてである。
『明月記』の文暦2(1235)年5月27日の条に、次のような文章がある。

予モト自リ文字ヲ書ク事ヲ知ラズ、嵯峨中院障子ノ色紙形、コトサラ予ニ書クベキ由、カノ入道懇切ナリ。極メテ見苦シキ事ナリト雖モ、ナマジイニ筆ヲ染メテコレヲ送ル。古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自リ以来、家隆 雅経ニ及ブ。

ここでカノ入道とあるのは、宇都宮頼綱のことで、頼綱は出家して蓮生入道を名乗った。
定家の山荘が京都の小倉山にあり、頼綱もすぐ近くの嵯峨中院に山荘を持っていて、親しく往来していた。
『明月記』は、頼綱に懇切な依頼を受けて、嵯峨中院の障子(襖)に貼る色紙に揮毫した、と書いている。
ここで問題は、揮毫したのが定家であっても、その撰歌は誰がしたのか、ということが明快ではないことである。

このため、江戸時代には、撰歌したのは頼綱であって、定家はただ揮毫しただけだった、という説が登場し、それが多数派になった。
安藤年山(為章)という国文学者が、上記の『明月記』の文章をもとに、「定家が自分で撰歌した」と書いていないことを論拠に、「頼綱が撰んだ」としたと解釈した。
これが多数派として支持されたのは、そもそも百人一首の撰歌に古来から疑問が付されていたからである。

その疑問とは、「撰ばれるべき歌が入っていず、撰ばれるべきではない歌が入っている」ということである。
定家ほどの歌人が、果たしてこのような撰歌をするであろうか?
百人一首の撰び方からして、定家よりも鑑賞眼の低い人が撰んだのではないか?
そこで、頼綱が撰んだ作品を、定家に揮毫を依頼したのではないか、という安藤説が生まれたわけである。

安藤説を支持したのが、国学者・賀茂真淵だった。真淵は歌人としても有名で、『万葉集』の研究をはじめ、古典に造詣が深く、著作も多かった。
この真淵の影響力はまことに大きく、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』、香川景樹『百首異見』などが、安藤説を支持して、頼綱撰者説が定説化していった。

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