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2008年7月 4日 (金)

安積親王が生きた時代

聖武天皇の皇子の基(某)皇子が満1歳になる直前で亡くなり、もう1人の皇子だった安積親王も、僅か17歳で早世してしまう。
この安積親王は、どのような生涯を過ごしたのであろうか?
『続日本紀』は、ほとんど沈黙したままであるし、急死するに至る事態には疑惑がつきまとうが、真相は今となっては藪の中である。
わずかに『万葉集』に示された大伴家持や市原王などの歌から、その生涯の一端を窺い知るのみである。
この時代の出来事を、年表風に整理し、安積親王の生きた時代をイメージしてみよう。

724(神亀元)年
 2月4日、聖武即位
727(神亀4)年
 閏9月29日、安宿媛某(基)皇子出産
 9月、渤海使者・高斉徳ら出羽国に上陸し、12月に入京
 11月2日、皇子を皇太子とする
728(神亀5)年
 9月23日、皇太子薨る
 安積親王誕生
729(神亀6/天平元)年
 2月12日、長屋王自尽
 8月5日、天平改元
 8月10日、光明立后
730(天平2)年
 渤海の進物を山陵に捧げる
731(天平3)年
 7月、大伴旅人没
734(天平6)年
 1月、藤原武智麻呂が右大臣に、仲麻呂が従五位下になる
735(天平7)年
 大宰府管内に天然痘流行
 9月、新田部親王没
 11月、舎人親王没
737(天平9)年
 藤原四子、次々と病死
738(天平10)年
 1月13日、阿倍内親王立太子
739(天平11)年
 渤海使者入京
740(天平12)年
 2月、聖武天皇、難波行幸の際に知識寺で廬舎那仏を拝し、廬舎那仏造顕を志す
 9月2日、藤原広嗣挙兵
 10月29日、聖武天皇、伊勢国へ行幸
 12月15日、聖武天皇、恭仁宮に行幸
741(天平13)年
 1月13日、恭仁京にて朝賀
742(天平14)年
 聖武天皇、8月と12月に紫香楽宮に行幸
743(天平15)年
 聖武天皇、4月と7月に紫香楽宮に行幸
 10月15日、廬舎那仏造顕の詔
 12月26日、恭仁京の造営中止
744(天平16)年
 閏1月1日、聖武天皇、恭仁京と難波京のいずれを取るか諮問
 閏1月11日、聖武天皇、難波宮へ行幸
 閏1月13日、安積親王薨去
745(天平17)年
 1月1日、未完成の紫香楽宮に遷都
 紫香楽宮周辺で火災頻発
 5月11日、平城還都

藤原氏の宿願の天皇として聖武天皇が即位してから、皇統をめぐってさまざまな争いが起きるが、その軸には常に藤原氏と血の繋がりのない安積親王がいた。
長屋王の自尽、光明立后や阿倍内親王の立太子などの動きには、安積親王の存在自体が影響しているだろう。
藤原四子の台頭とその体制の崩壊、藤原一族の1人広嗣の反旗、聖武天皇による度重なる遷都。
藤原氏と他の有力氏族とが対立し争う中で、安積親王の生涯は、夢幻のように儚いものだったのではないかと思う。

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