『万葉集』とは?…③大浜厳比古説
「『万葉集』とは何か?」という問いに対して、例えば、「現存するわが国最古の歌集である」(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))というのは、多くの人が共通的に納得する答えであろう(08年6月5日の項)。
しかし、「誰が、いつ、何の為に」編纂したのか、ということになると、学者の間でもさまざまな意見があるらしい。
大浜厳比古『万葉幻視考』集英社(7810)は、「誰が、いつ、何の為に」という問いかけに対する答の最初は、『万葉集』の性格の規定からはじめなければならないだろうとし、性格とは、『万葉集』の目的と、目的のために構築される世界と、その目的をもちその世界を構築する人々のことである、としている。
大浜氏は、それに対する仮説を以下のように提示する。
目的としては鎮魂、鎮魂のためにめざされる世界としては清明、その目的を持ちその世界を構築する人々としては、誇り高き敗者を考える。
大浜さんの著書は、この仮説を証明するための論証を試みたものである。
もちろん、国文学としての立場から、である。
しかし、その論証の方法が、一般の学者とはやや異なっている。
序文を寄せている梅原猛氏の文章を引用しよう。
大浜氏はここで学者の方法ではなく詩人の方法で『万葉集』について語っている。それは幻視という方法である。氏は『万葉集』という書物そのものがそのような幻視という方法によって編集されているという。つまり、ここに一人の悲劇的な死をとげた皇子の歌がある。そしてそれに続いて、同じような運命を持った皇子の歌がある。ふつう解釈者は、こういう皇子たちの運命を知らぬげに歌のみを読むが、大浜氏h、この一人の皇子と次の皇子との間にある無数の怨霊の幻を見るというのである。『万葉集』の編集者は、そういう怨みをのんで死んで行った無数の人びとの幻を見て、その霊を慰めるあめにこのような歌語りの書をつくった以上、われわれもまたその幻を見ることによってそういう歌語りに参加出来るというのである。
こういうことはふつう学者は言わないものである。国文学者にあってこのような理論をのべた人はなく、また『万葉集』をこのような見地で解釈した人はいない。わすかに折口信夫などが大浜氏の方法の先駆者であるが、折口信夫も大浜氏のような大胆なことは言わなかった。
もちろん、私は、梅原猛氏のような学識はないから、大浜氏の位置づけについて、梅原氏の言うことが妥当かどうかは分からない。
しかし、『万葉集』が詩歌集である以上、詩人の方法でアプローチすることは、自然であるし当然でもあると思う。
そもそも、学者の方法と詩人の方法とは、二者択一的なものなのか?
学者の方法とは、言い換えれば、クリティカル思考をベースとしたものだろう。
一定の論拠を出発点として、論理的な推論によって結論を導き出す。その推論の過程は、他の人によっても同じように辿ることが必要である。
推論の過程を、理路と表現すれば、その理路の明晰性が問われるわけである。
実験科学でいえば、追試可能性とか再現性いうことになるだろう。
一方、詩人の方法とは、クリエイティブ思考をベースとしたものだろう。
クリティカル思考が、思考の過程が論理という道筋(理路)によって規定されるのに対し、クリエイティブ思考の過程は、制約がない。
制約がないことによって、自由に想像力を働かせることができる。
創造力を発揮するためには、先入見を捨て去ることが重要だ、と言われる。
しかし、果たして、クリエイティブ思考の過程は、全く制約がないのだろうか?
あるいは、クリティカル思考に想像力の入り込む余地はないのだろうか?
どうも私にはそうは思えない。
クリティカル思考にしろ、クリエイティブ思考にしろ、思考の過程であるという共通性があるのであって、両者に通底する「思考の法則」とでもいうべきものが存在するのではないか?
それがどういうものであるのかは、現時点では不明である。
しかし、例えば、「文章」というものを考えた場合、論理的に分かりやすい文章(クリティカルな文章)と、想像力豊かな文章とが両立している事例は少なくないだろう。
というよりも、名文というのは、クリティカルとクリエイティブを両立させている文章だと思う。
大浜氏は、巻一の巻頭に、二人の天皇・雄略と舒明の歌が置かれていることの意味から出発する。
この両歌は、伝承と仮託のものであるとされているが、『万葉集』においては、両天皇の歌とされているのであり、そのことの意味を論究する。
なぜ、数多い天皇の中から、この二人の天皇に限定して、巻一巻頭に据えられたのか?
大浜氏は、この雄略と舒明の像の間に、さまざま群像を見る。
眉輪王であり、山背大兄王とその一族であり、崇峻天皇であり、蘇我蝦夷であり入鹿であり、斉明天皇であり、建王であり、孝徳天皇であり、有間皇子であり、大津皇子であり……
雄略と舒明の像をめぐって立ちさまよう亡霊のイメージであって、それは非命に斃れた亡霊の群像である、という。
それは、『万葉集』が、これらの亡霊たちにたむける鎮魂の歌集であることの暗示ではないか。
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