「百人一首」の成立事情
1951(昭和26)年、「百人一首」と酷似している「百人秀歌」が存在することが確認された。
「百人秀歌」と「百人一首」を比較すると、以下のような小異がある。
①配列がかなり異なる
②「百人秀歌」は、「百人一首」における99・後鳥羽院、100・順徳院の歌がなく、下記の3首がある
・よもすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき (一条院皇后宮)
・春日野の下萌えわたる草の上に つれなく見ゆる春の淡雪 (権中納言国信)
・きのくにのゆらのみさきに拾ふてふ たまさかにだに逢ひみてしがな (権中納言長方)
つまり、「百人秀歌」は、全部で百一首となる。
また、「百人一首」の74・源俊頼の歌が、「憂かりける……」ではなく、次の歌が選ばれている。
・山桜咲きそめしより久方の雲ゐに見ゆる滝の白糸
「百人一首」98番は、「従二位家隆」であるが、「百人秀歌」では、「正三位家隆」である。
以下、宮柊二『小倉百人一首/現代語訳日本の古典』学習研究社(7911)所収の、井上宗雄『小倉百人一首』によりつつ、「百人秀歌」の成立時期を見てみよう。
家隆が正三位であったのは、承久2(1220)年3月22日から、文暦2(1235)年9月10日までである。
また、97・権中納言定家とある表記は、寛喜4(1232)年正月30日以降であるので、「百人秀歌」は、寛喜4年正月~文暦2年9月の間に成立したと考えられる。
一方、「百人一首」は、従二位家隆とあることから、文暦2年9月以後の表記であるから、「百人秀歌」は「百人一首」に先行したものと考えられる。
とすれば、「百人秀歌」は、「百人一首」原撰本(プロトタイプ)ではないか、と考えられる。
貞永元(1232)年6月、定家は、後堀河天皇から勅撰集の撰集を命ぜられ、10月に譲位直前の天皇に、仮名序・目録を奉って仮奏覧を行なったが、翌々文暦元(1934)年8月、上皇が崩御してしまう。
11月に、定家は、前関白道家、摂政教実父子に呼ばれ、新勅撰集の稿本から、後鳥羽院と順徳院の歌を外すよう命ぜられた。
承久の乱の首謀者の両院の歌を取り除くのが、幕府に対して穏当だろうという判断である。
定家は、後鳥羽院とは軋轢があったが、歌人としての力量は高く評価していた。
政治的な判断で、両院の歌を除外したことは、定家の良心を痛ませるものがあった。
新勅撰集完成後間もない文暦2(1235)年5月1日、定家は、息子の為家の妻の父である宇都宮蓮生(俗名頼綱)の嵯峨中院の山荘で開かれた連歌会に出席した。
この時に、『明月記』に記載のあるように、障子(襖)に貼る色紙の揮毫を頼まれたものと思われる(08年5月24日の項)。
この時の色紙は、「百人秀歌」だったのか、「百人一首」だったのか?
井上氏は、研究者の間の議論を、以下のように整理し、井上氏自身の見解は、A案に近いとしている。
A案
5月1日、蓮生から依頼を受けて、定家は「百人秀歌」を編んで、27日に染筆して送った。
つまり、『明月記』に書かれているのは、「百人秀歌」のことである。
豪族宇都宮氏の障子は、人目に多く触れるものであるから、幕府に忌避されていた後鳥羽・順徳両院の歌を入れた「百人一首」の形ではなかったと推測される。
新勅撰集から両院の歌を除外したことに痛みを感じていた定家は、両院の歌を入れた「百人一首」の形に改めて、自家用の色紙を書き、手許に残した。「従二位家隆」とあることから、9月10日以降のことである。
B案
上記の過程で、「百人一首」の形への変更は、定家の手ではなく、為家が行なった。
C案
定家は、蓮生から依頼を受けて準備を始めた。
5月14日、後鳥羽・順徳両院の還京問題を、幕府が厳しく拒否したことに衝撃を受けた定家は、両院を加えない「百人秀歌」を編んだ。
しかし、幕府への反発や歌人としての自覚から、「百人一首」の形に改めて、27日に蓮生に送った。
「従二位家隆」や、当時生存していておくり名のなかった後鳥羽院・順徳院の表記は、後人による改定である。
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