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2008年7月10日 (木)

異説・聖武天皇…小林惠子説

小林惠子氏は、日本古代史に斬新というか奇想天外というか、にわかには信じ難いような仮説を設定されることで多くのファンを持っている。
その一端については、大化改新の解釈で触れた(08年4月10日の項11日の項)。
この当時の状況についても、聖武天皇が入れ替えられたという大胆な説を提示している。
以下、『争乱と謀略の平城京―称徳女帝と怪僧・道鏡の時代』文藝春秋(0210)で概観してみよう。

基本的な視点は以下の2点である。
①奈良時代の日本は、中国を中心とした東アジアの政治的な動きと密接に連動していた。
②『続日本紀』は『日本書紀』におとらず、讖緯説的表現で重大な事実を暗示している場合が多い。

663年の“白村江の戦い”で、元百済王子の中大兄は高句麗の蓋蘇文こと大海人と連合して、百済復活を賭けて唐国と戦ったが敗北し、百済から撤退した。
668年、天智は近江で即位式を挙げた。
高句麗が滅んで大海人は雌伏せざるを得なかったが、天智が死んで大友皇子が即位すると、吉野を出て起兵した。
当時の新羅の文武王は、大海人が新羅の名将金庾信の妹に生ませた子どもだったので、新羅は大海人を救援した。

唐は新羅に侵攻し、窮地に陥った文武王は、681年に新羅に死んだことにして、日本に亡命した。
天武も682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。
唐は大津を認知せず、高市皇子らによって謀反者として殺された。
高市は即位して持統天皇となり、唐と講和した。天武の長子とされている高市は、実際は天智の子だった。
696年、突厥や契丹などの周辺諸民族が一斉に唐国に反乱を起こした。
高市の没後、文武王が反高市派(鸕野皇女、刑部皇子、藤原不比等ら)に擁立されて、文武天皇として即位した。文武王は天武の長子だったから、日本国王としての有資格者だった。

705年に唐の中宗が即位すると、元新羅王の文武天皇が日本国王であることを許さず、文武は大和朝廷を不比等と天智の娘元明天皇に託さざるを得なかった。
715年に、中国東北部に渡って唐と戦っていた文武が唐に降伏し、元明は娘の元正に譲位した。
元正即位を推進したのが長屋王だった。
長屋王は、高市の子どもだから、文武がいなければ正統な天智系の天皇のはずだったが、文武によって臣下の地位に下がっていたので、妻の姉の元正を擁立した。
長屋王は天智系だから、新羅と協調的ではなく、720年に新羅は九州に侵攻した。

724年に元正が聖武に譲位して、長屋王と新羅とが講和した。
当時の新羅聖徳王は、文武が来日直後に生まれた子で、日本で役の行者と呼ばれている人物である。
この頃、勃興しつつあった渤海は二代目大武芸の時代だった。
727年、大武芸は、使者を出羽国に送り込んだ。その首領が高斉徳で、小林氏は文武の子とする。だから大武芸は、高斉徳を日本国王にして、渤海の傀儡政権の樹立を計画した。
出羽国に上陸した渤海使者は、大野東人らの抵抗を受けながら、辛うじて入京した。
大和朝廷側では、藤原氏が大武芸の計画に荷担した。
『続日本紀』には、渤海使者が来日した727年9月の閏9月に皇太子誕生とあり、翌728年9月に皇太子没とある(08年6月20日の項)。

小林氏は、この名前のない皇太子は聖武自身で、暗殺され生まれて1年の皇太子として元明陵に陪葬された。つまり、皇太子は『続日本紀』が捏造した架空の幼児である。
皇太子は、高斉徳の来日と同時に生まれたことになっているから、高斉徳が文武の子として生まれ変わったという暗示をした、ということである。
聖武にとって異母弟の高斉徳が、聖武天皇になりすました。
この大胆な計画を援護したのが、藤原宇合・武智麻呂と光明子だったが、宇合らの狙いは、聖武の暗殺ではなく、長屋王の失脚だった。
この事態に、長屋王はなすすべもなく、729年2月に宇合らに滅ぼされる。

何とも気宇壮大な仮説であって、私の知識のレベルでは評価すべくもないが、葛城王については、小林氏は次のように説明する。
葛城王は聖武天皇の即位した神亀元(724)年に従四位に上に叙せられたが、5年後に新聖武(高斉徳)朝が成立した天平元(729)年3月に正四位上に叙せられるまで動きがない。
この空白の5年間に、渤海に渡って、高斉徳の来日工作をしていたのかも知れない。

紫香楽宮跡から出土した木簡に書かれていた万葉歌が、1つの手がかりを与える(08年5月26日の項)。 

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに  (16-3807)
  右の歌は、傳へ云へらく、葛城王の陸奥国に遣さえし時、國司の祇承(ツカ)ふること緩怠(オロソカ)にして異に甚し。時に、王の意悦(ココロヨロコ)びず、怒の色面に顕れ、飲饌(ミアヘ)を設けしかども、あへて宴楽せざりき。ここに前の采女あり、風流(ミヤ)びたる娘子なり。左の手に觴(サカヅキ)を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日(ヒネモス)なりきといへり。

つまり、葛城王が陸奥に遣わされた時、国司の態度が怠慢で悪くて、王は怒りの表情を表に出し、宴会を楽しもうとしなかった。
そこで、采女が左手に觴を持ち、右手に水を持って、葛城王の膝を撃って詠んだということである。
安積山の山影が見える山の井のような浅い心で、あなたを思っているのではない、という歌で、葛城王が何に感心したのかよく分からない。

小林氏は、葛城王が陸奥に遣わされたというのは、渤海使者が出羽国に到着したのを迎えに行ったのではないか、と推測する。
『万葉集』に葛城王とあるから、橘諸兄を名乗る前で、葛城王は陸奥の国司らの態度を警戒したのを、采女が葛城王に、葛城王側にあることを歌で教え、葛城王が安心したというのが、歌の背景ではないか。
いささか深読みかとも思うが、『万葉集』の史料的側面の一例ということができる。

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