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2008年7月

2008年7月31日 (木)

「百人一首」と宇都宮頼綱

関東の武家の棟梁から、都の隠棲生活へ劇的な転身を図った頼綱の判断が、下野宇都宮氏の地位を守り、「百人一首」を生む契機となった。
蓮生入道・宇都宮頼綱も先祖を辿れば藤原氏の系譜であり、幼少時代から学問に励み、歌人としても一流であった。
定家と蓮生の交流は深まり、蓮生の娘を定家の息子為家の妻に、という縁談が成立し、定家と蓮生は姻戚関係となる。
2_5蓮生の娘は、北条時政の娘であり、政子・義時の姪である。

定家の『明月記』によれば、蓮生が熱心に障子の色紙形の染筆を依頼した。
つまり、定家は、息子の嫁の父から懇切な依頼を受けたわけであり、和歌の基本的なテキストを選定するということではなかったことに留意すべきである。
定家の貯えてきた薀蓄を傾けた撰歌の結果が「百人一首」であるが、それはあくまでも蓮生入道の依頼に応えたものであった。

定家は、『新古今集』の編纂において、後鳥羽上皇の口出しによって、自分の思いを反映させることができなかった。
その後の『新勅撰集』においても、後鳥羽・順徳両院の歌を削除せざるを、関白・藤原道家の命により削除せざるを得なかった。
『新勅撰集』は、幕府政権の側に属する歌人の歌が優遇されたことは、源実朝の歌が25首も選入されていることからも分かる。
宇都宮頼綱・蓮生法師の歌も3首選入されている。

535  いにしへの我とは知らじあさかやま 見えしやまゐのかげにしあらねば (蓮生法師)
611  ながむればこころのそらにくもきえて むなしきあとにのこる月かげ (信生法師)
617  のちの世をてらすかがみのかげを見よ しらぬおきなはあふかひもなし (蓮生法師)
1260 やまのはにかくれしひとは見えもせで いりにし月はめぐりきにけり (平泰時)
1261 かくれにし人のかたみはつきを見よ こころのほかにすめるかげかは (蓮生法師)

信生法師は、頼綱の弟・宇都宮朝業の出家名であり、平泰時は北条泰時で義時の息子である。
宇都宮頼綱・蓮生法師の歌は、信生法師、平泰時の歌と関連付けられ、これらは「月(かがみ)」と「かげ」をキーワードとして、リンクしている。
わずか5首の中に、宇都宮一族の歴史を語り、頼綱が北条政権にとって重要な役割を果たしていることを示している。
定家にとって、頼綱・蓮生入道は、単に息子の嫁の父というに留まらず、幕府との仲介役として重要な人物だった。

『新勅撰集』の完成が、文暦2(1235)年3月12日のことであり、『明月記』によれば、4月23日、定家は頼綱の中院山荘を訪ね、5月1日には中院山荘で催された連歌会に、定家・為家親子が参加している。
こうした中で、蓮生が定家に、襖を飾る色紙を依頼したのであろう。撰歌と揮毫である。
中院山荘の連歌会には、当代一の絵師と評されていた藤原信実も参加していたので、定家の選出した歌人の肖像画が依頼されたのであろう。
定家は、『新勅撰集』の編纂を終えたところであったから、歴代の名歌は頭の中に刻み込まれていた。
5月27日、100枚の色紙が、息子・為家によって、頼綱の山荘に届けられた。

頼綱(蓮生)・朝業(信生)としての歌人としての活躍は、下野宇都宮氏に影響を与え、和歌のメッカとして「宇都宮歌壇」が形成された。
宇都宮頼綱は、動乱の時代に数奇な運命を辿るが、たくましく生き抜いて、「百人一首」という文化財を後世に残した。

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2008年7月30日 (水)

藤原定家と宇都宮頼綱の関係

百人一首は、「カノ入道」こと宇都宮頼綱が藤原定家に頼んで、障子(現在の襖)を飾るために、選歌と揮毫をしたものとされる。
宇都宮頼綱とは如何なる人物か?

宇都宮氏は、藤原道長の兄であった道兼の曾孫の宗円が開祖の氏族である。
道兼は関白就任後10日にして急死し、道長がその後を継ぐが、都の政治を私物化して栄華を誇ったことは、次の歌からも理解できる。

この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることのなしと思へば

2傍系の宗円は、大津・石山寺の座主を務めていたが、時代は大きく動きつつあった。
「前九年の役」(1051~1062年)に際して、宗円は、神仏の力で勝利祈願するため、東山道の最前線だった下野国(栃木県)に派遣され、宇都宮座主に任じられた。(三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010))。
祈願の甲斐あって、安倍氏は制圧され、その功績で宗円は下野に土着し、二代目宗綱と共に神主として活躍すると同時に、下野国の国守となった源義家・源義朝に協力して、下野の武士を支配下に収めて行く。

三代目宇都宮朝綱は、宇都宮検校と日光山別当を務める一方で、伊豆で挙兵した源頼朝に協力して活躍し、鎌倉幕府の有力御家人となった。
四代目業綱は若くして亡くなり、朝綱の権勢は五代目の頼綱に引き継がれる。

頼朝の挙兵が1180年、平家打倒が1185年、鎌倉幕府の樹立が1192年である。
この間、「頼朝の乳母(養育者)の果たした役割が大きかったことが知られている。
その乳母の1人に、寒河尼がいた。宇都宮朝綱の妹である。
下野の有力武士・小山政光に嫁ぎ、小山朝政や宗朝を産む。
朝政は、下野国の守護となり以後代々小山氏が下野守護職を務める。
宗朝は下総国北西部を支配して、結城朝光を名乗り、結城氏は有力武士に成長していく。

宇都宮氏・小山氏・結城氏という北関東の有力武士団は、寒河尼を介する血縁関係で結ばれ、頼朝とも深く結びつくことになった。
頼綱は、これらの関係に加え、妻に以下のような有力武将の娘を迎えてその地位を強化していく。
①稲毛重成(武蔵国の有力武士)の娘 → 時綱(長男)
②梶原景時(頼朝の参謀格)の娘 → 頼業(二男)
③北条時政の娘(政子の異母妹) → 泰綱(三男)・宗綱(四男)・藤原為家の妻となる娘

2_4宇都宮氏の基盤は磐石なものとなっていったはずであるが、頼朝の死後、北条氏によって有力御家人が排除されていく。
梶原景時、比企能因、畠山重忠、稲毛重成らの頼朝の重臣が消されていき、頼綱の妻の父たちも粛清される。
1205年には「牧氏の変」が起きて、頼綱の妻の父・北条時政と母・牧の方が失脚させられた。
「牧氏の変」とは、『吾妻鏡』に記されているもので、牧の方が自分の産んだ娘の婿の平賀朝政と結託し、源実朝を暗殺して、朝政を将軍にしようと陰謀を計画した事件であり、陰謀は事前に発覚して、時政は息子の義時により、伊豆に幽閉された。

宇都宮頼綱にも陰謀関与の疑いが向けられるが、60人の家来と共に出家して鎌倉に向かう。
北条義時は対面を許さず、結城朝光が頼綱の髪を義時に見せて謝罪し、一件落着となる。
宇都宮氏は、北関東の雄として戦国大名となり、栃木県の県庁所在地宇都宮市の地名の故となる。
出家した頼綱は、仏門に帰依して蓮生入道を名乗り、京都の別荘で隠棲生活を送り、定家と出会い、それが「百人一首」を成立させることになった。

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2008年7月29日 (火)

猿丸大夫とは誰のことか?

謎の歌人・猿丸大夫とは誰のことか?
この問いは、平安時代から提出され、さまざまな解答案が提出されてきた(三好正文『猿丸大夫は実在した!!―百人一首と猿丸大夫の歴史学!!』創風社出版(0010)).。
三好氏は、代表的な説として以下を挙げている。

①「猿丸大夫=道鏡」説
猿丸大夫が生存したと思われる8世紀後半の実在の人物から、弓削道鏡に中てたものである。
弓削道鏡は弓の名人とされ、猿丸が主役を演じる「日光山縁起」の下野の地が道鏡左遷の地と繋がることも根拠の1つとされた。
藤原定家の流れを汲む二条流の歌人・飯尾宗祇によって提唱されたことから、かなりの影響力を持った。

②「猿丸大夫=弓削皇子」説
私家集『猿丸大夫集』に採録された『万葉集』所収の歌25首のうち、3首が弓削皇子の作であることが根拠である。
『万葉集』収載の弓削皇子の歌は8首であり、その中の3首ということは、高い確率であって無視できない。
弓削皇子は、天武天皇の皇子の1人であり、歌人としても高く評価されていて、かなりの支持者がいる。

③「猿丸大夫=高市連黒人の妻」説
『猿丸大夫集』の巻頭歌の作者が、高市黒人の妻とされることから、平安時代末期の歌人・藤原清輔が唱えたが、支持者は広がらなかった。

④「猿丸大夫=施基皇子」説
天智天皇の子ので、『万葉集』の歌人として名高い施基皇子を中てたものである。

⑤「猿丸大夫=柿本佐留(猨)」説
賀茂真淵は、『続日本紀』に登場する柿本佐留(猨)を猿丸大夫に比定し、滝沢馬琴も同調した。「佐留(猨)→猿」の連想による。

⑥「猿丸大夫=柿本人磨」説
梅原猛氏は、『水底の歌―柿本人麿論』新潮文庫(8302)において、柿本佐留(猨)を柿本人磨に比定し、さらに柿本人磨=猿丸大夫とし、石見の国で刑死したとして、多くのファンを得た。

⑦「猿丸大夫=土器売り商人」説
猿丸大夫は、京都の郊外の深草で土器作りをする職人だったが、都に作った土器を売りに来て、歌の才能を認められた、とする説で、江戸時代に流布した。

⑧「猿丸大夫=一般名詞」説
柳田国男が唱えたもので、近江の小野氏の神人が諸国を遍歴して、猿丸大夫と呼ばれた。
学者たちの多くが支持して定説化し、猿丸大夫実在説は「ほぼ完全に放棄される」といった状況になった。

上記の諸説を、三好氏は図のように示し、特に柳田国男の、「猿丸大夫=一般名詞」説の登場によって、学界2では、「猿丸大夫は架空の人物である」というのが、ほぼ定説となっている、と解説している。
そして、平安時代に、弓削道鏡説や弓削皇子説が提唱されたのは、猿丸大夫が弓の名人であるとの認識があったからで、そうすると「日光山縁起」に記されている「猿丸は弓の名人である」という記述が大きな鍵になるのではないか、とする。

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2008年7月28日 (月)

「百人一首」の作風

宮内庁書陵部蔵の『百人一首抄応永十三年写シ』の序文に、次のようにある(井上宗雄『小倉百人一首』)。

新古今の撰は定家の心に適わなかったが、それは新古今歌風が「ひとへに花をもととして実を忘れたる集」だからであり、その後の新勅撰集と百人一首が同じ歌風で、実を宗として花を少し兼ねたものなのだ。

『新古今集』は、言葉の華麗さによって妖艶な世界を構築しようという歌風であったが、それは、教養高く、詩人的才能のあるエリートが作るものであって、その基盤として、生き生きとしたサロンを必要とした。
承久の乱によって後鳥羽院政が崩壊すると、新古今的土壌も失われ、武士の力が表層に現れてくるようになった。
老境に入った定家も、華麗な言葉の華やかさよりも、味わいや情調の深い歌を好むようになった。
『新勅撰集』や「百人一首」は、定家のそのような好尚を反映したものであった。

「百人一首」には、『新古今集』の歌が14首入っているが、「春の夜の夢の浮橋とだえして……」のような、新古今的名歌は採られていない。
ちなみに、『新古今集』から採られているのは、次のような歌である。

87 村雨の露もまだひぬ槙の葉に 霧たちのぼる秋の夕暮

94 み吉野の山の秋風さよふけて ふるさと寒く衣うつなり

いずれも寂寥感を湛えた秋の歌である。
猿丸大夫の次の歌も、まさにこのような方向性にある歌といえよう。

5 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき

このような、一首の「哀れさ」の感覚は、日本的(あるいは東洋的)美意識の源流をなしているように思われる。「寂び」の美意識(08年7月17日の項)である。

「小倉百人一首」は、日本的美意識を流麗な調べで表現した歌集ということができるが、鎌倉時代においては、歌をたしなむ人は古典に通暁していて、ことさら「百人一首」が尊重されたというわけでもなかったという。
時代が下るに連れて、作歌人口が増大すると、古典の教養に通じている人だけでなくなり、指導のためのテキストとして、「百人一首」の利用価値が高まった。
歌の指導者たちによって、多くの注釈書が作られ、室町後期には、宗祇らの連歌師によって広められた。
カルタとして広く普及したのは江戸時代に入ってからである。

『枕草子』には、中宮定子が、女房たちを集めて、『古今集』の上の句を読み、下の句をつける場面が描かれている(白州正子『王朝びとの生活の歌』/宮柊二『小倉百人一首』学習研究社(7911)所収)。
王朝びとにとっては、歌を詠むことは生活の一部であって、古歌にも通じていることが必須の条件だった。
源氏物語「夕顔」の一節である。

光源氏がはじめて夕顔の宿をおとずれる場面で、青々とした蔦かずらが板塀に生い茂っている中に、白い花が明るく咲き乱れている。
源氏は、「遠方(オチカタ)人に物申す」と呟くが、それは『古今集』の中の次の歌の一節である。

うちわたすをちかた人に物申すわれそのそこに白く咲けるはなにの花ぞも

傍らにひかえていた随身が、「あの白い花は夕顔と申します」と教える。
つまり、随身まで、打てば響くような教養を身につけていたことが分かる。
美意識や感覚などは、先天的に存在するものではなく、学習することによって理解していくものであろう。
例えば、「寂び」という感覚を好ましいものとする意識が、太古の段階からあったわけではない。
古歌を覚えることは、知識の獲得であると共に、感性の形成という意味でも重要なことだったのだろう。

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2008年7月27日 (日)

「百人一首」と勅撰集との関係

「百人一首」に撰ばれた歌は、すべて勅撰集に収載されている。
井上宗雄『小倉百人一首』に拠れば、以下の通りであり、『万葉集』にある歌も勅撰集を典拠にしている。

『古今集』
醍醐天皇下命。905年ごろ成る。撰者/紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑
15/35/33/9/36/23/5/22/29/17/32/28/31/16/7/11/24/18/30/21/14/12/34/8
計24首

『後撰集』
村上天皇下命。960年ごろ成るか。撰者/清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城
1/37/39/25/13/20/10
計7首

『拾遺集』
花山院親撰か。1007年ごろ成る。
47/55/41/40/44/43/3/38/53/45/26
計11首

『後拾遺集』
白河天皇下命。1086年成る。撰者/藤原通俊
73/70/69/51/50/52/59/58/63/56/42/65/68/62
計14首

『金葉集』
白河法皇下命。1126年ごろ成る。撰者/源俊頼
71/78/72/66/60
計5首

『詞花集』
崇徳上皇下命。1151年ごろ成る。撰者/藤原顕輔
61/48/49/77/76
計5首

『千載集』
後白河法皇下命。1188年完成。撰者/藤原俊成
81/64/74/92/85/80/88/82/90/86/67/75/95/83
計14首

『新古今集』
後鳥羽上皇下命。1250年一応成る。撰者/源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経
2/79/94/87/91/6/4/27/89/19/46/54/57/84
計14首

『新勅撰集』
後堀河天皇下命。1235年完成。撰者/藤原定家
98/93/97/96
計4首

『続後撰集』
後嵯峨上皇下命。1251年成立。撰者/藤原為家
99/100
計2首
この集は、定家没後の成立であるが、上記2首は、定家が一度『新勅撰集』に入れたものを、政治的圧力によって除いたと推測する説が有力。

定家は、建保3、4年(1215、6)年ごろ、八代集(古今~新古今)から、秀歌約1800首を選出し、二四代(ニシダイ)集というアンソロジーを編んで、自分の作歌の参考とすると共に、模範とする歌として示した。
「百人一首」の100首のうち、92首は二四代集と一致する。
一致しないのは、「55/82/93/96/97/98/99/100」の8首であり、93以降の6首は、八代集の歌ではない。

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2008年7月26日 (土)

「百人一首」の成立事情

1951(昭和26)年、「百人一首」と酷似している「百人秀歌」が存在することが確認された。
「百人秀歌」と「百人一首」を比較すると、以下のような小異がある。
①配列がかなり異なる
②「百人秀歌」は、「百人一首」における99・後鳥羽院、100・順徳院の歌がなく、下記の3首がある
・よもすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき (一条院皇后宮)
・春日野の下萌えわたる草の上に つれなく見ゆる春の淡雪 (権中納言国信)
・きのくにのゆらのみさきに拾ふてふ たまさかにだに逢ひみてしがな (権中納言長方)

つまり、「百人秀歌」は、全部で百一首となる。
また、「百人一首」の74・源俊頼の歌が、「憂かりける……」ではなく、次の歌が選ばれている。
・山桜咲きそめしより久方の雲ゐに見ゆる滝の白糸
「百人一首」98番は、「従二位家隆」であるが、「百人秀歌」では、「正三位家隆」である。

以下、宮柊二『小倉百人一首/現代語訳日本の古典』学習研究社(7911)所収の、井上宗雄『小倉百人一首』によりつつ、「百人秀歌」の成立時期を見てみよう。
家隆が正三位であったのは、承久2(1220)年3月22日から、文暦2(1235)年9月10日までである。
また、97・権中納言定家とある表記は、寛喜4(1232)年正月30日以降であるので、「百人秀歌」は、寛喜4年正月~文暦2年9月の間に成立したと考えられる。
一方、「百人一首」は、従二位家隆とあることから、文暦2年9月以後の表記であるから、「百人秀歌」は「百人一首」に先行したものと考えられる。
とすれば、「百人秀歌」は、「百人一首」原撰本(プロトタイプ)ではないか、と考えられる。

貞永元(1232)年6月、定家は、後堀河天皇から勅撰集の撰集を命ぜられ、10月に譲位直前の天皇に、仮名序・目録を奉って仮奏覧を行なったが、翌々文暦元(1934)年8月、上皇が崩御してしまう。
11月に、定家は、前関白道家、摂政教実父子に呼ばれ、新勅撰集の稿本から、後鳥羽院と順徳院の歌を外すよう命ぜられた。
承久の乱の首謀者の両院の歌を取り除くのが、幕府に対して穏当だろうという判断である。

定家は、後鳥羽院とは軋轢があったが、歌人としての力量は高く評価していた。
政治的な判断で、両院の歌を除外したことは、定家の良心を痛ませるものがあった。
新勅撰集完成後間もない文暦2(1235)年5月1日、定家は、息子の為家の妻の父である宇都宮蓮生(俗名頼綱)の嵯峨中院の山荘で開かれた連歌会に出席した。
この時に、『明月記』に記載のあるように、障子(襖)に貼る色紙の揮毫を頼まれたものと思われる(08年5月24日の項)。

この時の色紙は、「百人秀歌」だったのか、「百人一首」だったのか?
井上氏は、研究者の間の議論を、以下のように整理し、井上氏自身の見解は、A案に近いとしている。

A案
5月1日、蓮生から依頼を受けて、定家は「百人秀歌」を編んで、27日に染筆して送った。
つまり、『明月記』に書かれているのは、「百人秀歌」のことである。
豪族宇都宮氏の障子は、人目に多く触れるものであるから、幕府に忌避されていた後鳥羽・順徳両院の歌を入れた「百人一首」の形ではなかったと推測される。
新勅撰集から両院の歌を除外したことに痛みを感じていた定家は、両院の歌を入れた「百人一首」の形に改めて、自家用の色紙を書き、手許に残した。「従二位家隆」とあることから、9月10日以降のことである。

B案
上記の過程で、「百人一首」の形への変更は、定家の手ではなく、為家が行なった。

C案
定家は、蓮生から依頼を受けて準備を始めた。
5月14日、後鳥羽・順徳両院の還京問題を、幕府が厳しく拒否したことに衝撃を受けた定家は、両院を加えない「百人秀歌」を編んだ。
しかし、幕府への反発や歌人としての自覚から、「百人一首」の形に改めて、27日に蓮生に送った。
「従二位家隆」や、当時生存していておくり名のなかった後鳥羽院・順徳院の表記は、後人による改定である。

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2008年7月25日 (金)

「百人一首」に猿丸大夫選出の意味

百人一首の選歌についてはさまざまな角度から論議されているが、猿丸大夫の歌は、「選ばれるべきではない歌」の筆頭とされてきた。

奥山に紅葉ふみわけなく鹿の 声きくときぞ秋はかなしき

猿丸大夫は、生没年共に不詳とされている。つまり、素性のはっきりしない歌人である。
猿丸大夫を選ぶくらいならば、山上憶良や大伴旅人・源順など、選ばれてしかるべき大歌人がまだいくらでもいる。
さらに、なぜ、「この歌」なのか?
『古今和歌集』に、よみ人知らずと明記され、作者が不明だとされている歌を選ぶ根拠はなにか?

世の中よ道こそなけれ思ひいる 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

同じく百人一首に選ばれている歌であり、かつ定家の父の俊成の歌である。類想・類歌ともいうべき作品ではないか。
父の歌と同工異曲ともいうべき猿丸の歌を、定家が選ぶ理由が分からない。猿丸の歌を選ぶとしたら、俊成は他の作品にすべきではないのか。

猿丸大夫は、三十六歌仙の1人に選ばれているが、勅撰集には、猿丸大夫の名前で選ばれている歌は一首もない。
百人一首の中で、勅撰集が、よみ人知らずとしている歌は、猿丸大夫の歌一首だけである。残りの九九首は、すべて勅撰集に実名入りで選ばれている。
そんな怪しげな猿丸大夫の歌が、柿本人磨、山部赤人の次、大伴家持の前という重要な位置に置かれているのか?

ところが、『古今和歌集』の「真名序」において、かの紀貫之が、大伴黒主を評して次のように記している。

古ノ猿丸大夫ノ次(ツギテ)ナリ
(昔の猿丸大夫の歌風を継承している)

この記述に従えば、猿丸大夫は、実在の、少なくとも紀貫之から相応の評価を得ている歌人である。
ところで、柿花仄『帋灯(しとう)猿丸と道鏡』東京経済(0309)は、『古今和歌集』に「よみ人しらず」と書いてあっても、当時編集に携わった人々は、名を伏せられた人物の本名を知っていたはずだ、とする。
周囲の社会状況が、名を出すことを許さず、上流貴族たちは、知っていながら「黙して語らず」を押し通した。つまり、公然の秘密であって、「よみ人しらず」は、苦肉の策として案出された表記なのだ、という。
つまり、「よみ人しらず」の本当の意味は、「よみ人しらすな」なのである。

定家は、その「よみ人しらすな」のタブーを破って、猿丸大夫の名前を出した。
定家は、『古今和歌集』を熟知していたから、この勅撰集の編者たちが、「奥山に……」の歌を「よみ人しらず」としていることを十分に承知していた。
にもかかわらず、藤原公任の三十六人撰に猿丸大夫とされている説を採ったわけである。

定家の父の俊成は、「歌の本体はただ古今集を仰ぎ信ずべきことなり」としているから、定家は、父・俊成の言をも無視したことになる。
百人一首が、宇都宮頼綱との私的な交流の中で選ばれたものだとしても、定家が猿丸大夫の名前を出したことは、重要な意味を持っていたということになる。

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2008年7月24日 (木)

「百人一首」と藤原定家

私は特に遊びの世界に通暁しているというわけでは全くないが、「百人一首」のような高雅な遊びというものは、世界的に見ても珍しいのではないだろうか。
文芸上の名作を材料に、その札を取るのを競い合う。
意味がよく分からないまま、札を取るために記憶しようとする。結果として、材料として使われている文芸作品を暗記してしまう。

私も、高校時代に国語の古典の授業において、係り結びの概念などに出会うよりも、先行してゲームとしての百人一首の方に馴染んでおり、百人一首の作品を通じて、古典文法を理解した記憶がある。
つまり、口を衝いて出てくることの効果は非常に大きなものだと思う。
小学校でも、百人一首を覚えさせているという話を聞いたことがあるが、私は、「訳も分からない」段階で、知らないうちに覚えてしまうことには大賛成である。
意味など後でゆっくり考えればいいのではないか。

百人一首は、藤原定家によって、古来の歌人百人の作品から、それぞれ一首ずつ選んだアンソロジー(詞華集)である。
天智天皇の時代から、定家が撰歌した時点までの歌人が対象とされている。
定家は、歌道の最高峰に位置していたから、彼の撰に入るということは、大いなる名誉であった、ということになる。

しかし、百人一首の撰歌過程については、論議があった。
それは、定家の日記である『明月記』の記述の解釈についてである。
『明月記』の文暦2(1235)年5月27日の条に、次のような文章がある。

予モト自リ文字ヲ書ク事ヲ知ラズ、嵯峨中院障子ノ色紙形、コトサラ予ニ書クベキ由、カノ入道懇切ナリ。極メテ見苦シキ事ナリト雖モ、ナマジイニ筆ヲ染メテコレヲ送ル。古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自リ以来、家隆 雅経ニ及ブ。

ここでカノ入道とあるのは、宇都宮頼綱のことで、頼綱は出家して蓮生入道を名乗った。
定家の山荘が京都の小倉山にあり、頼綱もすぐ近くの嵯峨中院に山荘を持っていて、親しく往来していた。
『明月記』は、頼綱に懇切な依頼を受けて、嵯峨中院の障子(襖)に貼る色紙に揮毫した、と書いている。
ここで問題は、揮毫したのが定家であっても、その撰歌は誰がしたのか、ということが明快ではないことである。

このため、江戸時代には、撰歌したのは頼綱であって、定家はただ揮毫しただけだった、という説が登場し、それが多数派になった。
安藤年山(為章)という国文学者が、上記の『明月記』の文章をもとに、「定家が自分で撰歌した」と書いていないことを論拠に、「頼綱が撰んだ」としたと解釈した。
これが多数派として支持されたのは、そもそも百人一首の撰歌に古来から疑問が付されていたからである。

その疑問とは、「撰ばれるべき歌が入っていず、撰ばれるべきではない歌が入っている」ということである。
定家ほどの歌人が、果たしてこのような撰歌をするであろうか?
百人一首の撰び方からして、定家よりも鑑賞眼の低い人が撰んだのではないか?
そこで、頼綱が撰んだ作品を、定家に揮毫を依頼したのではないか、という安藤説が生まれたわけである。

安藤説を支持したのが、国学者・賀茂真淵だった。真淵は歌人としても有名で、『万葉集』の研究をはじめ、古典に造詣が深く、著作も多かった。
この真淵の影響力はまことに大きく、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』、香川景樹『百首異見』などが、安藤説を支持して、頼綱撰者説が定説化していった。

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2008年7月23日 (水)

猿丸大夫

猿丸大夫の名前は、百人一首を通じて多くの人が馴染みがあるだろう。

おくやまにもみぢ踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき

百人一首はどういう順番で並べられているのだろうか?
冒頭に、天智天皇があり、次が持統天皇である。
そして柿本人磨、山部(辺)赤人が続く。
人磨と赤人は、『万葉集』の時代において、「山柿の門」と並び称された歌人である。
『万葉集』巻17-3969の題詞に、次のようにある。

姑洗(ヤヨヒ)二日、掾大伴宿禰池主更に贈れる歌一首並に短歌
含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の思、陋心を報慰す。戴ち末眷を荷ひて、喩ふる所に堪ふること無し。但、稚き時、遊芸の庭に渉らざりしを以ちて、横翰の藻おのづから彫虫に乏しく、幼年いまだ山柿の門に逕らずして、裁歌の趣、詞を叢林に失ふ。ここに、藤以ちて錦に続ぐ言を辱くし、更に石将ちて瓊に問ふる詠を題す。因よりこれ俗愚、癖を懐きて黙止をること能はず。よりて数行を捧げて式ちて嗤笑に酬ゆ。その詞に曰く

大君の 任のまにまに 級離る 越を治めに 出でて来し 丈夫吾すら 世の中の常し無ければ うちなびき……

この「山柿」とは、山部赤人と柿本人磨だというのが定説である。つまり、家持は、山柿=人磨と赤人を、歌の道において目指すべき目標として位置づけていたということになる。
その山柿に次いで、5番目が猿丸大夫であり、猿丸大夫の次が、大伴家持である。
猿丸大夫の位置は、百人の中でも最高級ということになる。

しかし、猿丸大夫については、宗左近『鑑賞百人一首』深夜叢書社(0012)は、以下のように説明している。

猿丸大夫は、伝まったく不詳。「古今集真名序」に、「大伴黒主之歌、古ノ猿丸大夫ノ次ナリ」とあるのは有名だが、そこにも、また、どの勅撰集にも猿丸大夫の歌は見えていない。

井沢元彦『猿丸幻視行』講談社文庫(8308)には、猿丸大夫について、次のような解説がある。

三十六歌仙(一条天皇の時、藤原公任が選んだという)のひとりで、元明天皇のころの人といい、元慶年間(877 ~885)のひとともいうが、生没年伝記ともに不詳。天智天皇の皇子施基皇子とか、聖徳太子の孫弓削王の別名とか諸説があるが、伝承上の人物とする説が強い。その作品も『猿丸大夫集』にあつめられている歌はほとんど読人知らずのものばかりであり、勅撰集にも一首もはいっていない。猿丸大夫の名は『古今和歌集』真名序にみえ、鴨長明『方丈記』には近江の田上川にその墓があると記されているがはっきりしない。長野や富山、神戸および京都の周辺には、猿丸の子孫とか屋敷跡とか称するものがある。

『猿丸幻視行』は、猿丸大夫の百人一首の歌を暗号と見立て、若き日(國学院大学生)の折口信夫がそれを解読するという趣向でる。
万葉仮名で書くと、以下のようになる。

奥山丹黄葉踏別鳴鹿之音聆時曾秋者金敷

この歌は何を意味しているのか?
推理小説における謎解きについては、伏せておくのがマナーというべきものであろう。

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2008年7月22日 (火)

偶然か? それとも…④幻視する人々

大浜厳比古氏は、『万葉集』の本質にアプローチするには、「幻視」という方法によるべきだとしている。
「幻視」とは何か?
「幻視」について、梅原猛氏は、『古代幻視 (梅原猛著作集)」小学館(0102)で、次のように述べている。

「幻視」という言葉は、折口信夫が好んでつかった言葉であるが、私も好きな言葉である。私は裸の目で日本古代を見たのであるが、見ているうちに思いもかけないような新しい古代像が幻のように浮かびあがってきたのである。たとえば、法隆寺をいろいろ調べているうちに、太子一族を滅ぼし、そして太子一族の霊を鎮魂するために法隆寺を建てた人の像が幻のように浮かんできたのである。その幻があるいは真実かも知れないと、私はあらゆる文献を調べて、できるかぎりの現地調査をして、この幻がまさに真実であったにちがいないと確信して、『隠された十字架』を書いた。同じように『万葉集』を読んでいるうちに、水底に沈んだ人磨の姿が幻のようにあらわれてきたのである。その幻は今までの常識とはまったく矛盾する。しかし、あるいはこの幻も真実ではないかと思って、人磨かんするあらゆる文献を読み、そして何度も現地へ行って、この幻が真実であることを確信して、『水底の歌』を書いた。
私は、あらゆる学問においては、そのような幻視が必要ではないかと思っている。日本の学問、とくに人文科学において不足しているのは独創性であるが、独創的な学問をするのはやはり放恣としか思われないような想像力が必要である。日本の学界とくに人文科学の学界においては、この想像力に十分な学問的地位が与えられていない。しかし、このような自由な想像力がなければ、日本の人文科学は十分に発展することはできないであろう。折口はおそらく、このような幻視の重要性をだれよりも知っていた人間であったろう。それで私も折口にならって、ここで私の古代学の総決算の書物の題名として「古代幻視」という題名を選んだ。

ここで梅原氏は、いくつかのことを言っている。

1.「幻視」とは、裸の目でみることである。つまり、先入観に囚われないで「王様は裸だ!」と見る子どもの目でみることである。

2.裸の目で見ているうちに、思いもかけない像が浮かんでくる。それは幻のように浮かんで来るのであるが、調べてみると、その幻が真実であると確信し得た。

3.「幻視」とは、放恣とも思われるような自由な想像力である。学問、特に人文科学には、このような想像力が必要である。

4.このような自由な想像力こそ独創性のカギで、学問の発展には不可欠である。

5.「幻視」の重要性を最も認識していたのが折口信夫である。

私が日本古代史の謎をめぐる道の逍遥に深入りするようになった1つのきっかけが、井沢元彦『猿丸幻視行』講談社文庫(8308)を読んだことだった(07年8月27日の項)。
「幻視行」というタイトルもさることながら、主人公を折口信夫に設定するという卓抜なアイデアで成功した作品である。いわば井沢氏のデビュー作であるが、井沢氏は「逆転の日本史シリーズ」などで、日本史に対する独特の史眼を提示し、多くの読者を獲得している。
この書を読んだときには、折口信夫が「幻視」という方法の先駆者であることは知らなかったのだが、井沢氏は何重にも仕掛けを施していたというわけだ。
考えてみれば、折口の『死者の書・身毒丸』中公文庫(9906)こそ、幻視の書というに相応しい(07年8月28日の項29日の項)。

そして、『猿丸幻視行』をきっかけに深入りした古代史と『万葉集』の世界で、大浜厳比古『万葉幻視考』集英社(7810)に出会う。
大浜氏は、わが青春の書、阿川弘之『雲の墓標 改版』新潮文庫(5807)のモデルの1人だった(08年5月27日の項)。
大浜氏の試みを引き継いだのが小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌 万葉集の〈虚〉と〈実〉』新人物往来社(0403)である(08年7月3日の項)。

そして、『方法としての吉本隆明−大和から疑え』響文社(0805)などの挑発的な書を発表している室伏志畔氏は、自ら「幻想史学」を標榜している。
室伏氏は、『万葉集の向こう側 もうひとつの伽耶』五月書房(0207)などの「向こう側」シリーズを刊行している異端の史家である。
それは、吉本隆明氏の国家論・共同幻想論を参照しつつ、新たな共同幻想の創出から日本国の成立を考察するものである。
しばらくの間、私はさまざまな「幻視」の独創の試みを享受させていただきたいと思う。

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2008年7月21日 (月)

『オカネとウソの論理学』

柳澤賢仁『オカネとウソの論理学』サンクチュアリ出版(0805)という本を積んでおいたら、長銀粉飾決算事件の最高裁判決が出たので、ちょうどいい機会と思い、一読した。
著者紹介欄によれば、祖父、父、叔父が公認会計士・税理士という一族だという。
税理士試験に合格後、アーサー・アンダーセン税務事務所等を経て独立。
論文『不確実性の税務』で、2007年度日税研究賞(税理士の部)を受賞した、ということである。

冒頭の扉で、柳澤氏は、次のように問いかける。

こどもからこう聞かれたとします。

「オカネって、なあに?」
「なんで、ウソついちゃいけないの?」

おとなのあなたはどう答えますか?

そして、偽装問題をテーマに、「あなたは、偽装をしたことがないですか?」と問う。
柳澤氏は、そう問いかけて、偽装の定義を国語辞書から引用して、「ある事象をおおい隠すために、他の物事・状況をよそおうこと」とし、「嘘をつくこと」と言い換えられるとしている。
その上で、「小さな嘘、大きな嘘、程度の差こそあれ、嘘なら誰でも一度はついたことがあるのではないでしょうか?」とする。

確かに、「ウソを一度もついたことがない」という人がいたら、その人の言葉を信用するだろうか?
誰でもウソはつく。しかし、なかなか正面から向き合うということがない問題でもある。
柳澤氏は、「ウソとかオカネ」については、「さじかげん」の領域があり、デジタルに割り切れないという。そして、だからこそ、「そもそも論」が必要なのではないか、と問う。

なぜ、嘘をついてはいけないのか?
なぜ、お金を儲けてもよいのか?

「そもそも論」というのは、日常生活では看過されがちであるが、一筋縄ではいかない問題に対しては、そこに立ち戻ることが重要だと思う。
そして、世の中の多くの問題が一筋縄ではいかないではないか。
だから、「そもそも論」は重要だと思う。

例えば、長銀粉飾決算事件というのは、長銀の決算処理が、ルールに適合していたのか、ルールを逸脱していたのかが問われた案件である。
柳澤氏は、司法試験の塾で有名な伊藤真氏の『伊藤真の憲法入門』日本評論社(0403)を参照しつつ、法律について、以下のようにまとめる。

・まず、世の中には「ルール」というものがある。
・スポーツであろうと、会社・学校であろうと、いつの時代でも人が2人以上集まって共同体ができれば、必ず何らかのルールがある
・ルールは大きく2種類に分けられ、ひとつは「法則」、もうひとつは「規則」である
・法則というのは、自然法則や社会法則のことで、たとえば、水素と酸素は結合して水になるとか、需要が供給を上回ると物価は上昇するとか、「~である」ということ
・一方で、規則とは「規範」のことで、法律や学校の規則、これが規範にあたり、「こうあるべきである」ということ
・規範の一例として、「社会規範」というその地域の人々の価値観があって、社会規範の一つとして、法律というものがある
・だから、法律は、一定の時代の一定の地域の価値観のあらわれであり、裏返せば、絶対のものではない
Photo・まとめると、法律とは国家による強制力を伴った社会規範である

これらの関係を図示すれば、左図のようになる。
世の中は常に動いている。
だから、価値観の変化は常態と考えられる。つまり、社会規範は、時々刻々に変化する。
つまり、規範に揺らぎが生じるのは避けられない。
しかしながら、法律は一定の手続きを踏んで定められるものであるから、常に規範と法律との間にはギャップが存在する可能性がある。
図に示すように、社会規範と不適合な法律もあり得るということである。

Photo_2規範が揺れているのであるから、法律を遵守していても社会規範から逸脱することもあり得るし、社会規範に適合していても、法律から逸脱しているということもあり得る。

粉飾をウソの一形態とすると、ウソはどのような位置づけで考えられるだろうか?
ウソを図のように位置づければ、「法律で罰せら れるウソ」と「法律で罰せられないウソ」とがあることになる。

ところで、長銀粉飾事件は、長銀の旧経営陣の会計処理が、「法律で罰せられるべきウソ」であったのか否Photo_3か、ということであった。
結果的には、「法律で罰せられるものではない」という判断が示されたわけである。
とはいえ、図を見ていると、果たして「社会規範の観点から見た場合、「長銀旧経営陣の処理はどうだったのか?」、あるいは、「社会的な規則に照らしでどう判断するのが妥当なのか?」、最高裁の判断ですべてが完結しているわけではないことが分かる。

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2008年7月20日 (日)

『粉飾の論理』

偽装の問題は、食品表示や耐震計算の問題に限らない。
偽装の定義にもよるだろうが、勝者がとりまとめた「正史」は、勝者にとって都合が悪いことは隠蔽し、あるいは虚偽の記述によって編纂されていると考えるべきだろう。
特に、情報がクローズドな状態で独占的に管理されていたであろう古代史の分野においては、そうだと思われる。永躰典男『日本の偽装の原点は古代史にあり 』ブイツーソリューション(0705)という書があるくらいである(07年9月6日の項)。

粉飾決算も、一種の偽装の問題である。
日本長期信用銀行やカネボウのように、そこに所属することが誇りとされた名門企業が、最後は「粉飾」という名前を冠せられて市場から退場するのを余儀なくされた。
一時は新興ベンチャーの希望の星でもあるかのように位置づけられた、堀江貴文氏率いるライブドアも、「粉飾」を理由に消え去っていった。
ライブドア事件など既に遠い過去のようにも思えるが、問われている事象が起きたのは、まだ3年前のことに過ぎない。
毎日、多くの偽装情報が流布される中で、個別の案件は急速に風化していく。
長銀粉飾事件として問われた問題も、旧経営陣への無罪判決によって、アッという間に歴史の波間に消えていくであろう。

ところで、企業は、なぜ「粉飾」に走るのだろうか?
長銀事件で問われているように、「粉飾か否か」は、明確にシロとクロとが分かれているというものではない。解釈のしようでどちらとも考えられるようなボーダーが存在する。
だからこそ、長期の裁判で争われることにもなる。
長銀の場合には、「不良債権とみるべきか否かの基準」が争点となった。
不良債権とは、要するに、回収が可能な貸し出しなのか、回収が不能な貸し出しなのか、という問題である。
回収可能性は将来に属する事象なので不確定である。
まして、事業資金の場合には、貸し出しを継続すれば事業が継続できて、いずれは好転するという可能性があるが、貸し出しを引き上げれば、それで事業が継続不能になり、回収可能性がまったくなくなってしまう、というような問題がある。
不良債権か否かの判断は、貸出先の命運を左右すると同時に、貸出元の命運も左右する。
いきおい、慎重な判断にならざるを得ないという面がある。

そういう慎重な判断が、不良債権を増やしていったのだから、結果的に判断のミスがあったとせざるを得ないだろう。
そして、不良債権が巨額のものになった段階で、それをオープンにすれば、市場の信頼を失うことになる。
具体的には、株価が下落し、市場からの資金調達もままならなくなってくる。
生き延びるためには、限りなくクロに近いグレーもシロと表現せざるを得ない。
ウソといえばウソであるが、「私はウソをついたことがない」という人を、われわれは信用するであろうか?
「すべてのクレタ人はウソつきである、とクレタ人が言った。このクレタ人は、果たしてウソつきなのだろうか」というパラドックスもある。
「ウソも方便」という格言すらあり、ウソと方便のボーダーラインもいささか曖昧である。

高橋篤史『粉飾の論理』東洋経済新報社(0610)は、ライブドア問題を入り口に、カネボウやナスダック・ジャパン(後にヘラクレス)に上場したメディア・リンクスなどの粉飾決算の経緯を整理している。
「論理」というよりも、ノンフィクションの読み物というに近いだろうが、粉飾の現場について知ることができる。
「あとがき」部分に、次のような記述がある。

決算は、外部に対してその経営実態を知らせるとともに、自らがその状態を正しく把握するためのものでもある。正しい数字が把握できて初めて正しい判断が可能になる。粉飾によってうまく騙したつもりが、いつの間にか自らも偽りの数字に囚われてしまう。結局は現実と粉飾の間に生じた歪みに苦悩し続けるか、それとも悪魔の囁きに誘惑されて身を破滅させるか、あるいは分不相応な行動に走ってみたものの何かの拍子に躓くか、である。己を正しく知ることは、やはり何事においても大切なのだ。

「粉飾」は、実体の数値を作り変えることによって行なわれる。まったくの架空の数字を作り出すこととは違う。
多くの場合、損益計算書の期間損益を水増しする形で行なわれるが、貸借対照表、キャッシュフロー計算書との整合性を図るのに、さまざまな苦労があるはずである。
しかし、明らかな虚偽は別として、ボーダーライン上の判断は、戦略と裏表ともいえる。
長銀の場合でも、例えば株価が3桁を維持できるか、2桁に転落するかは生死に係わる問題だっただろう。
もっとも、だからこそ決算に関しては厳格な判断が要求されるのではあるが。

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2008年7月19日 (土)

旧長銀粉飾決算事件

18日に、日本長期信用銀行(長銀/現・新生銀行)の粉飾決算事件に対する最高裁の判決が下された。
大野木克信元頭取ら旧経営陣3人は、いずれも無罪を言い渡され、無罪が確定したことになる。
長銀が破綻したのは、1998(平成10)年10月だから、およそ10年間大山鳴動して、結果的には一匹の鼠も居なかったわけだ。

破綻時の債務超過額は、約2兆6535億円といわれる。といっても、どのくらいの金額か見当もつきにくいが、1万円札100枚(=100万円)で1cmの厚みとすれば、2,653,500百万円/(百万円/1cm)=26,535m=26.5kmである。
つまり、1万円札の厚みが富士山の7倍程度に積み上がる金額である。
あるいは、1万円札1枚の重さは約1gというから、1000枚=1000万円で1kgであり、1億円は10kgということになる。
2兆6535億円は、265,350kg=265tの重さということになり、15tを積載する大型トラックに満載して約18台分である。
いずれにしろ、やはりピンと来ないのではあるが、とてつもない巨額であることは間違いない。

さて、この経営責任をどう考えるべきか?
この結果に対して、誰も責任がない、ということではないだろう。また、長銀という会社全体の責任なのだ、ということであれば、それこそ「全体責任は無責任」である。
とすれば、特定された誰かの責任を問う、ということになる。
大野木氏らは、破綻時の経営責任者であった。
だから、当面の責任者であることは免れ得ない。
しかし、破綻に至るまでにはプロセスがあるのであり、それを最終ランナーだけの責に負わせるべきかは疑問がある。

本案件を概観してみよう。
日本長期信用銀行は、1952(昭和27)年、時の大蔵大臣池田勇人(後に総理大臣)の肝いりで設立された一種の国策銀行である。
企業の設備投資資金などの需要をまかなうため、債券を売って長期の産業用資金を調達することを目的とする銀行だった(共同通信社社会部編『崩壊連鎖―長銀・日債銀粉飾決算事件』共同通信社(9912)。
長銀は名前の通り長期資金の供給源として機能し、短期資金は普通の銀行が行なう、という棲み分けが想定されていた。

長銀の設立は、1952(昭和27)年12月1日で、行員230人の7~8割が、日本勧業銀行からの移籍者だった。
その中に、後に「長銀のドン」と呼ばれることになる杉浦敏介氏もいた。
戦後復興が一段落し、自立的な経済発展を目指す日本において、産業発展のためには長期的な資金が必要であった。
その需要を満たすための金融機関が必要であり、その役割を担うのが長銀だった。

旧長銀には、優秀な人材が集まった。
日本のマクロな経済政策に関与し、しかも官僚であることを是としない人間。
私は、官僚制度全般を非とするような気はないし、例えば財務省の人たちなどは、本当に昼夜を分かたず仕事をしていると思う。
しかし、「居酒屋タクシー」などの現実に見られるように、「官」と「民」との間にある種のボーダーがあって、とても庶民感覚では理解し難いような意識があることも事実である。
その事実を感じた上で、「官」を選ばないで「官」に近い仕事をしたいと考える人間もいる。

そのような人の受け皿の1つが、長銀だったのではないだろうか。
私も、融資先担当者という立場で、長銀と係わったことがある。その頃、私が所属していた企業は、新興の将来性の期待されるベンチャー企業だった。
私自身がそういう演出を意識的に行なっていたということもあるが、時代としても、ベンチャーに対する期待が大きかった。
当時の長銀の担当者は、「是非借り入れて欲しい」というスタンスだった。

その時の雑談の中で印象的なことがある。
それは旧長銀の中の人間関係について、話をしていた時だった。私自身、直接あるいは間接に存じ上げている人が何人かおり、そういう人たちの近況等を話している時に、「あの人は○○年だから……」というような表現が、自然な形で出てきたのだった。
○○年というのは、卒業(=入行)年次のことであり、特段のコメントがない限り、○○年というのは東京大学の卒業年次を意味していた。

そのときは、「さすがに長銀!」と思う一方で、そんな官僚的な体質で、この銀行は大丈夫かな、というような余計な心配も心を過ぎったりした。
敗戦から立ち直り、戦勝先進国にキャッチアップする段階では、旧長銀は大きな役割を果たした。
しかし、経済が成熟化した段階を迎えると、長期の事業資金は、次第に証券市場からの直接調達にシフトしていく。そういう中で、長期信用銀行の存在意義はどこにあるのか?
「日本長期信用銀行という企業をどう性格づけるべきか?」長銀内部でも論争があったようである。
その1つの選択肢が、新興ベンチャー企業に対する融資の拡大である。

私が所属していた企業に対する融資は、金額的にもそれほど大きなものではなく(と言っても、現時点で中小企業に対する融資と考えれば、相当の巨額ではある)、さほどリスクを伴うものでもなかったと思う。
しかし、企業は外部に対して競争していると同時に、内部的にも常に競争をしている。
銀行の場合には、いかにして融資残高を拡大するか、ということが1つの指標となる。
時は、いわゆるバブル時である。

新興のリゾート開発等に対する融資が積極的に行なわれた。
その当時使われた言葉が「プロジェクト・ファイナンス」である。担保物件の査定の範囲内という基準ではなく、そのプロジェクトが生み出す将来的な果実を判断して融資する。
それはまさに、産業振興を使命とする銀行のあるべき姿のように思われた。
問題は、プロジェクトが生み出すであろう果実を、いかに適正に評価し得るか、である。
しかし、その当時の状況からして、それがいささか甘くなってしまったことは、咎められるべきことではないと思う。

問題は、その額が、結果として余りに巨大なものとなってしまったことである。
旧長銀の融資案件のかなりの部分を占めたのが、海外リゾートを展開する計画を持っていた企業への融資であった。
文字通り、ドリームプランだった。
「南太平洋でのんびりしたい」ということは、多くの人が共有する夢だっただろう。
私もその一端を垣間見たことがある。プロジェクト自体は、魅力的なものだった。
しかも、ドン=杉浦敏介氏がお墨付きを出していた。融資残高は、雪だるまが転がるように膨れ上がっていった。

それが、1万円札を富士山の7倍もの高さにまで達するような債務超過をもたらしたのであった。
いわゆる不良債権の山である。「プロジェクト・ファイナンス」という本来あるべき姿が、結果として大きなマイナスを招くことになった。
結果論ということもできるが、誰かが責任を負うべきではないのか?

最高裁の判決は、争われた論点に関して、旧経営陣の無罪を認めたものだった。
私自身も、経営の最終ランナーとしての破綻時の経営者の責任を問うことについては、大いなる違和感を覚えていた。
従って、大野木氏らが「無罪」と判断されたことについて、異議申し立てをする気はない。
むしろ、大野木氏らの巡り合せに同情したいくらいである。
大野木氏と、新生銀行の社長として招聘された八城政基氏とは、ほとんど同類の人であって、立場が入れ替わっていたとしても、結果は余り大きな差異はないのではないかと思う。

しかし、誰かの責任は問われるべきであろう。
時効という問題があるのだろうから、法律論は別としてもいい。
長銀破綻の真相や経緯、あるいは新生銀行への転生の経緯は、やはり明確にしておくべきではないだろうか。

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2008年7月18日 (金)

『万葉集』とは?…③大浜厳比古説

「『万葉集』とは何か?」という問いに対して、例えば、「現存するわが国最古の歌集である」(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))というのは、多くの人が共通的に納得する答えであろう(08年6月5日の項)。
しかし、「誰が、いつ、何の為に」編纂したのか、ということになると、学者の間でもさまざまな意見があるらしい。

大浜厳比古『万葉幻視考』集英社(7810)は、「誰が、いつ、何の為に」という問いかけに対する答の最初は、『万葉集』の性格の規定からはじめなければならないだろうとし、性格とは、『万葉集』の目的と、目的のために構築される世界と、その目的をもちその世界を構築する人々のことである、としている。
大浜氏は、それに対する仮説を以下のように提示する。
目的としては鎮魂、鎮魂のためにめざされる世界としては清明、その目的を持ちその世界を構築する人々としては、誇り高き敗者を考える。

大浜さんの著書は、この仮説を証明するための論証を試みたものである。
もちろん、国文学としての立場から、である。
しかし、その論証の方法が、一般の学者とはやや異なっている。
序文を寄せている梅原猛氏の文章を引用しよう。

大浜氏はここで学者の方法ではなく詩人の方法で『万葉集』について語っている。それは幻視という方法である。氏は『万葉集』という書物そのものがそのような幻視という方法によって編集されているという。つまり、ここに一人の悲劇的な死をとげた皇子の歌がある。そしてそれに続いて、同じような運命を持った皇子の歌がある。ふつう解釈者は、こういう皇子たちの運命を知らぬげに歌のみを読むが、大浜氏h、この一人の皇子と次の皇子との間にある無数の怨霊の幻を見るというのである。『万葉集』の編集者は、そういう怨みをのんで死んで行った無数の人びとの幻を見て、その霊を慰めるあめにこのような歌語りの書をつくった以上、われわれもまたその幻を見ることによってそういう歌語りに参加出来るというのである。
こういうことはふつう学者は言わないものである。国文学者にあってこのような理論をのべた人はなく、また『万葉集』をこのような見地で解釈した人はいない。わすかに折口信夫などが大浜氏の方法の先駆者であるが、折口信夫も大浜氏のような大胆なことは言わなかった。

もちろん、私は、梅原猛氏のような学識はないから、大浜氏の位置づけについて、梅原氏の言うことが妥当かどうかは分からない。
しかし、『万葉集』が詩歌集である以上、詩人の方法でアプローチすることは、自然であるし当然でもあると思う。
そもそも、学者の方法と詩人の方法とは、二者択一的なものなのか?

学者の方法とは、言い換えれば、クリティカル思考をベースとしたものだろう。
一定の論拠を出発点として、論理的な推論によって結論を導き出す。その推論の過程は、他の人によっても同じように辿ることが必要である。
推論の過程を、理路と表現すれば、その理路の明晰性が問われるわけである。
実験科学でいえば、追試可能性とか再現性いうことになるだろう。

一方、詩人の方法とは、クリエイティブ思考をベースとしたものだろう。
クリティカル思考が、思考の過程が論理という道筋(理路)によって規定されるのに対し、クリエイティブ思考の過程は、制約がない。
制約がないことによって、自由に想像力を働かせることができる。
創造力を発揮するためには、先入見を捨て去ることが重要だ、と言われる。

しかし、果たして、クリエイティブ思考の過程は、全く制約がないのだろうか?
あるいは、クリティカル思考に想像力の入り込む余地はないのだろうか?

どうも私にはそうは思えない。
クリティカル思考にしろ、クリエイティブ思考にしろ、思考の過程であるという共通性があるのであって、両者に通底する「思考の法則」とでもいうべきものが存在するのではないか?
それがどういうものであるのかは、現時点では不明である。
しかし、例えば、「文章」というものを考えた場合、論理的に分かりやすい文章(クリティカルな文章)と、想像力豊かな文章とが両立している事例は少なくないだろう。
というよりも、名文というのは、クリティカルとクリエイティブを両立させている文章だと思う。

大浜氏は、巻一の巻頭に、二人の天皇・雄略と舒明の歌が置かれていることの意味から出発する。
この両歌は、伝承と仮託のものであるとされているが、『万葉集』においては、両天皇の歌とされているのであり、そのことの意味を論究する。
なぜ、数多い天皇の中から、この二人の天皇に限定して、巻一巻頭に据えられたのか?

大浜氏は、この雄略と舒明の像の間に、さまざま群像を見る。
眉輪王であり、山背大兄王とその一族であり、崇峻天皇であり、蘇我蝦夷であり入鹿であり、斉明天皇であり、建王であり、孝徳天皇であり、有間皇子であり、大津皇子であり……
雄略と舒明の像をめぐって立ちさまよう亡霊のイメージであって、それは非命に斃れた亡霊の群像である、という。
それは、『万葉集』が、これらの亡霊たちにたむける鎮魂の歌集であることの暗示ではないか。

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2008年7月17日 (木)

風天の詩学…⑥「寂び」という美意識

「話の特集句会」における渥美さんの句友の声優・白石冬美さんは、次のように言っている。

私も単独生活が長いですが、自分でカギを開ける部屋にいそいそと帰るのは、1人がいちばんホッとするから。孤独とは一人の王国、孤独と引き換えの自由がある。渥美さんの句には寂しさ、哀しさの持つ一人のステキさを感じます。一人は必ずしも寂しくない。渥美さんは決して寂しくはなかったと思います。

森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)に次のような一節がある。

霜ふんでマスクの中で唄うたう
月ふんで三番目まで歌う帰り道
行く年しかたないねていよう
冬の朝ひとり言いって着がえてる
ただひとり風の音聞く大晦日
夢で会うふるさとの人みな若く
たけのこの向う墓あり藪しずか

風天句に難しい言葉は一つもなく句意も明快。分類が難しいが、心に響く句をここに集めてみた。どの句にも通底するのは孤独感のにじむ静かな哀愁である。

上掲書では、風天句によく出てくるフレーズとして、以下を挙げている。

いつだって/誰もいない/どこへゆく/しかたない/これからどうする/あっけなく/ぽつんと……

人は1人では生きられない。しかし、1人になりたい時間があることも確かである。
本人が寂しかったかどうかは別として、風天句の特徴の一つに「寂しさ」の感覚があることは確かなように思う。
俳句の世界を表現する言葉として、「わび」とか「さび」ということが言われる。
私にそれを解説する能力はないが、それぞれ「侘しさ」「寂しさ」に由来する言葉だろう。

小西甚一『日本文藝の詩学-分析批評の試みとして』みすず書房(9811)に、『「さび」の系譜』という文章が収載されている。
小西さんは昨年亡くなられたが、受験参考書として書かれた『古文研究法』は、多くのファンを持つ受験参考書の枠を超えたロングセラーである。

小西さんの『「さび」の系譜』を大胆に要約してみる。

『全唐詩』を通覧してみると、王維の頃から、主観的な心情ではなく、景色を対象とする描写型の詩句に「寂」の字が出てくるようになる。
そして、それは「厭わしい情景」として扱われるのでなく、共感できる趣の景色として、そのなかに一種の「美」を認める態度になってくることが特徴である。
和歌のなかで「さびし」とか「さぶ」とかの語が用いられるときも、他から疎外された孤独感をあらわすのであって、その点、漢語の「寂寞」や「寂寥」と同じことである。

唐詩や和歌における「寂」ないし「さびし」「さびたり」には、とりわけ「空」の理を中心とする仏教という共通因子が存在している。
王維は著名な仏教信者であり、平安時代以降、中世における精神的な拠りどころは仏教だった。
以下は、結論部分の引用である。

「寂」ないし「さびし」「さびたり」をめぐって唐詩から芭蕉の句まで見てくると、その基底には仏教的な「静慮」の流れがあり、起伏を繰り返しながらも、次第に高度な描写型の表現へと進んでいったことがわかる。しかし、そのなかでも、禅寂的な「さび」をきわめたあと、もういちど日常意識の「さびし」との関わりにおいて永遠に新しい「人間の詩」をうち建てようとしたのは、芭蕉ひとりだと思われる。このような芭蕉晩年の志向は、親近する弟子たちにさえもよく理解されなかったらしい。

この道や行く人なしに秋の暮

この句には、ひとり高悟の道を行く芭蕉の「さびしさ」がこめられている。芭蕉の志向は狭義の「さび」を去って、もっともっと広くはるかな詩の「枯れ野」を、ひとり駆けめぐっていたのである。

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2008年7月16日 (水)

風天の詩学…⑤「秘すれば花」という生き方

森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)によれば、渥美清さんは、「隠れる」ことの名人だった、という(小沢昭一談)。
見せることを生業とする俳優といえども(だからこそか?)、人前から隠れていたい、と思うときがあるだろう。
渥美清あるいは車寅次郎というIDは強烈である。その分、どこかでIDを消しさった時間を過ごしたいと思うのではないか?

渥美さんほど人々に顔と名前を知られた存在はないから、街に出れば、いつも多くの目が注がれていただろう。
だからこそ、1人になれる時間が大事だった。
結婚してからも、代官山に1人で住むアパートを持っていたという。自宅にも人を寄せつけなかったが、そのプライベートな城はまったく秘匿されていた。
また、外のことは一切家に持ち込まなかった、というのが長男健太郎氏の証言である。
仕事の話は絶対にしないし、台本を持ち帰るなんてこともなかったという。

芸名渥美清、役名車寅次郎、俳号風天、本名田所康雄といういわゆるマルチ人間だったわけであるが、それらの関係はどう見るべきか?
山田洋次監督は、「入れ子」の構造になっていたのだ、という。
車寅次郎の中に渥美清が入っていて、その中に風天がいて、さらにその中に田所康雄がいた。その田所康雄はいち早く亡くなってしまったけれど、周りの風天、車寅次郎、渥美清は、映画の観客や俳句を読む人にとっては、生きている……。

山田監督は、「田所康雄はそーっと消える、それが理想だ」と渥美さんが奥さんに言っていたと話している。
いつの間にかいなくなって、町で、「渥美清っていたな、どうしたんだって?」「あれ、一昨年死んだよ」「ああそうか」というような消え方が理想だ、ということである。
しかし、人気者ゆえ、そうは行きそうもない。
そこで、マスコミに知らせる前に、骨にしておくように、と奥さんに言い置いて亡くなり、奥さんもそのとおりにした。

このような話を聞くと(読むと)、「秘すれば花」という言葉を思い浮かべる。
能の大成者である世阿弥の『風姿花伝 』岩波文庫(5801)の中の言葉である。
同書は能の芸の上達論を説いたもので、芸のあるべき姿を「花」と表現した。

能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残しなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり

立原正秋さんは、日本的美の追求者として多くのファンをもち、死後30年近くを経ながら、今なお墓前への献花が絶えないという。
その立原さんの、美に関する随筆を集めた『雪舞い』世界文化社(9509)に、「秘すれば花」という一文が収載されている。
立原さんは、次のように言っている。

「秘すれば花」この表現はきわめて圧縮されている。自己顕示欲のつよい者にはこの言葉は無縁である。
私は『花伝』一巻をげんに小説作法の手本として用いているが、私がもっとも感心するのは、この書が単なる理論家からうまれた書ではなく、能役者である人が書いた点である。自作自演の上、さらに深い芸術論を展開しているのが世阿弥の生涯である。

『風姿花伝』は能の上達論の書ではあるが、それは芸という一種の暗黙知の伝承の方法論とみることができる。
それを喝破して、プランニングやマーケティングなどの、ソフトテクノロジーの伝承をするための参考にできないか、と考えたのが元電通のマーケッターだった柴田亮介さんである。
柴田さんは、1943(昭和18)年生まれだから、団塊の世代の少し前に位置している。

柴田さんのいうソフトテクノロジーは、形式知化するのが難しい世界である。
団塊の世代の定年退職の始まる2007年は、技術の伝承において問題が生じてくるのではないかという、いわゆる「2007年問題」が取り沙汰された年であった(07年11月20日の項21日の項)。
国際技能五輪が22年ぶりに日本(沼津)で開催されたことなどもあって(07年11月19日の項)それなりにスキルの伝承について論じられる機会があった。
「2007問題」は、主としてコンピュータのソフトウェアに対する関心から生まれた問題意識であるが、よりソフトな世界であるプランニングやマーケティングの世界では、問題意識すら希薄だともいえる。

これをどう体系化し、後の世代に伝えていくか、ということは一部では重要な課題として認識されており、例えば、東京ディズニーランドの生みの親だった長谷川芳郎さん(『魔法の国のデザイン-東京ディズニーランドが拓く新時代』日本経済新聞社(8411)などの著書がある)もその1人だった。
長谷川さんは、電通のPR局長から東京ディズニーランドのオープンのための諸作業を指揮した人で、柴田さんの先輩筋にあたる。

ソフトテクノロジーの伝承の方法論として、『風姿花伝』が参考になるのではないか、というのが柴田さんの考えであった(『わざの伝承―ビジネス技術 』日外アソシエーツ(0705))。
残念ながら、柴田さんは先ごろ、志半ばで亡くなったと聞いた。
ソフトテクノロジーの形式知化というのは、本来的な矛盾ではあるが、まだまだやれるべき課題は少なくないと思う。

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2008年7月15日 (火)

風天の詩学…④「句会」という学校

物理学に「場」という概念がある。
物体をとりまく空間で、重力や電磁力が他の物体におよんでいる領域のことである。
重力や電磁力は離れた場所で作用しているようにみえる。電子や陽子などの荷電粒子は、他の荷電粒子と直接接触しないのに力をおよぼしている。荷電粒子は、「場」の源で、荷電粒子間に働く力は、一方がつくる場と他方の電荷との相互作用と考えられる。
場がおよぼす強さと方向は力線で表現される。力線は力が強く働く場の源の近くでは密で、弱い遠方では疎である。
荷電粒子のおよぼす電磁場の強さは、電荷に比例し、距離の2乗に反比例する。

このような「場」の概念を、企業に取り入れ、マネジメントの仕組みを考察したのが、伊丹敬之一橋大学名誉教授である(伊丹敬之『場のマネジメント』NTT出版(9902)、『場の論理とマネジメント』東洋経済新報社(0512))。伊丹さんは、「場」において、人は他の人と出会い、相互に影響を及ぼし合う。「場」とは、人々の間の情報的相互作用の容れものである、という。
場において、人々はさまざまな様式(言葉、文書、顔の表情・仕草、声のトーン、語られぬ言葉、暗黙の了解……)を通じて、情報を交換し合い、刺激し合う。

青春期の交友がとりわけ重要なのも、このような場が濃密に、しかも継続的に存在しているからである(08年5月27日の項28日の項)。
そして、青春期ならずとも、継続的な「場」が存在すれば、その人の考え方や生き方に大きな影響を与える。
それは、一種の「学びの場=学校」の機能を果たす。
私は未だ経験したことがないが、「句会」というものもどうやらそういう性格を持っているらしい。
「話の特集句会」のメンバーだった永六輔さん、小沢昭一さんらが結成した句会に、「東京やなぎ句会」というものがある。

1969年に結成され、現在もなお継続中である。同会編『友あり駄句あり三十年』日本経済新聞社(9903)という快著は、その「三十年史」である。
落語家の入船亭扇橋師匠を宗匠とし、永六輔、大西信行、小沢昭一、桂米朝、加藤武、永井啓夫、柳家小三治、矢野誠一の各氏がメンバーである。既に故人となられたメンバーとして、江國滋、神吉拓郎、三田純市という名前がある。まさに錚々たる顔ぶれと言えるだろう。
江國滋さんについては、名著『俳句とあそぶ法』朝日新聞社(8402)(朝日文庫版(8701)によって、俳句の基本を学んだ(08年11月27日の項28日の項29日の項30日の項12月4日の項6日の項)。

その江國さんが、上掲書の中で「私の学校」題する一文を載せている。「小説新潮85年12月号」に掲載されたものの再録である。
85年12月号だから、かれこれ初回からすると17年ほど経った頃の文章である。
「私の学校」の意味は、もちろん「俳句の研鑽練磨の場」ということではなく、俳句よりももっと大きなものを教わり続けた、ということだ。
どんなことか?

光石こと扇橋さんには、円満と包容力というものを教わった。変哲こと小沢昭一さんには、人間のやさしさを教わった。阿吽こと加藤武さんには、誠実ということを教わった。余沙こと永井啓夫さんには、不言実行の大切さを教わった。六丁目こと永六輔さんには、好奇心とバイタリティというものを教わった。尊鬼こと神吉拓郎さんには、男の美学を教わった。徳三郎こと矢野誠一さんには、ユーモア、それも情報化時代のユーモアを教わった。土茶こと柳家小三治さんには、仏頂面の底の心のぬくもりを教わった。獏十こと大西信行さんには、毒舌の効用を教わった。八十八こと桂米朝さんには、常識というものを教わった。道頓こと三田純市さんには、非常識というものを教わった。

何とぜいたくな「学校」なのだろう、と思う。当然のことながら、江國さんの「教わる能力」というものが大いに係わっているのだけれど。
こういう句会のような「場」では、それぞれが教える人であり、教えられる人なのだろう。

創造とは新しい組み合わせだ、ということがよく言われる。
俳句を、上・中・下の3句の組み合わせと割り切れば、俳句の創作とは、この3句の新しい組み合わせを、いかにしてつくり出すか、ということになるだろう。
語彙はもちろん有限だから、組み合わせの数も有限ではあるが、実際の人の持ち時間からすれば、無限の組み合わせということができる。

異質なものが出会うことによって、今までにない新しいものが誕生する。
東京やなぎ句会などはその代表例だろうが、個性と才能の豊かな人たちの集まりは、新しい創造の「場」として機能する。
渥美清さんは、「話の特集句会」や「アエラ句会」に熱心に参加していたらしい。
句会のこのような魅力に惹き付けられたのではなかろうか。

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2008年7月14日 (月)

風天の詩学…③「自由」という律と精神

風天こと渥美清さんの句の特徴の一つは、定型を厳密に守らない破調の句が多いということだろう。

子に先立たれカンナ咲く  (風天)

暑い夏の盛りも過ぎて庭を見ると、真っ赤なカンナが咲いている。カンナを見ていると、自分より先に亡くなった子どものことがしきりに思い出されてくる。

行く年しかたないねていよう  (風天)

年越しだけど、映画のロケで旅の中なのだろうか。話をする相手もいない。寅さんの世界なのか、渥美清さんの世界なのか、はたまた田所康雄さんの世界なのか。

はるかぜ口笛よくにあう  (風天)

春になって気持ちがいい風が吹いている。気持ちも軽やかになって、つい口笛の一つも吹いてみたくなる。

梅酒すすめられて坊主ふふくそう  (風天)

僧侶は禁欲的であるべきだ、という観念があるが、実際には結構生臭い。知り合いにも大酒飲みの坊主がいる。梅酒じゃ誘い水のようなもの。

もちろん、定型が決まった句も多いが、掲句などは破調である。しかし、破調ではあるが自然でもある。
これらの句境は、何となく尾崎放哉や種田山頭火の世界を想起させる。
放哉は、東大を出て保険会社に勤めるが、酒におぼれ、家族と別れ、社会から脱落した。
次のような句が代表句とされる。

咳をしても一人 
入れものが無い両手で受ける
足のうら洗へば白くなる
墓のうらに廻る
こんなよい月を一人で見て寝る

「咳をしても一人」の句について、自身結核で入院の経験のある渥美清さんは、「音叉で響くような咳だ。この役には自信がある」と言ったという。
有名な子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句を、良く分からないと書いたことがあるが(07年8月23日の項)、脚本家の早坂暁さんの解説で合点がいった。
子規も結核患者で、お寺の鐘がガランドウの肺に響く、ということなのだという。

放哉のドラマが企画され、渥美さんと早坂さんは、小豆島などにシナリオハンティングに出かけるが、その際に、既に松山放送局で製作中であることが分かり、代わりの作品として山頭火が提案された。
渥美さんも乗り気だったが、最終的に「寅さんが山頭火」というミスマッチを気にして、おりてしまったということだ。

山頭火は、早大中退。結婚したが妻子を捨てて全国を放浪。好きな酒におぼれながら俳句を作り続けた。
代表句は以下のとおり。

うしろすがたのしぐれていくか
分け入つても分け入つても青い山
どうしようもないわたしが歩いている
鉄鉢の中へも霰
鴉啼いてわたしも一人

放哉も山頭火も、才能はありながら、社会からドロップアウトして行った。
どうやら、俳句における破調は、律の自由を求める精神の結果なのだろう。
放哉や山頭火の場合は、その自由への志向が余りに強すぎて、社会一般との間に乖離があったということだろうか。

しかし、社会的成功とは何か?
後世に多くのファンを持つような作品を作ることと、小市民の生活を大事にすることと、おそらくは両立が難しいということなのだろう。
もちろん、放哉や山頭火は、才能があってのことである。
しかし、たとえ放哉や山頭火のような才能があったとしても、彼らのような破滅型の人生を送るかどうかは別問題である。
その辺りを、バランスよく生きようとしたのが渥美さんだったのだろう。
役者として大成功する一方で、常識人として振舞いつつ、同じような句境の作品を残した。
切り立った山の尾根を行くようなきわどい選択だったのではなかろうか。

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2008年7月13日 (日)

風天の詩学…②「話の特集」というダンディズム

風天こと渥美清さんが参加した句会に「話の特集句会」がある。
「話の特集」は、1965年から1995年まで発行された雑誌である。
創刊から休刊まで、矢崎泰久氏が一貫して編集長を務めた。

創刊の年の1965年、私は大学生だった。
既に60年安保の高揚は過去のこととなっていた。60年代末に日本列島を席巻した全共闘運動は、まだ萌芽の状態でもなかったと思う。
高度成長路線が軌道に乗り始め、時代は大きく転換しようとしていた。
風光明媚な海岸の多くが、石油コンビナートに姿を変えていった。
その文明史的な転換の行き着く先について、さまざまな議論が交わされていたと思う。しかし、怠惰な学生だったので、余り深く考えてみるということもなかった。

そんな時代の中に登場した「話の特集」は、軽やかで鮮やかだった。
もちろん、体制派ではない。かといって、反体制かというと、ちょっと違うような気がする。
体制とか、反体制というよりも、自立した個人の才能と遊びの心が、誌面から溢れ出て来るような雑誌だった。
森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)によれば、創刊号は、表紙・横尾忠則、写真・立木義浩、マンガ・長新太、執筆・寺山修司/小松左京、アートディレクター・和田誠といった顔ぶれだった。
しばらくの間、毎号購読していたはずだが、引越しなどの都度散逸して手許には一冊も残っていない。

この「話の特集」の編集長の矢崎泰久さんが主宰して始まったのが「話の特集句会」である。
驚くべきことに、雑誌が廃刊になって10年以上も経つのに、句会の方は現在でも続いているらしい。
メンバーはまさに綺羅星の如くであって、とても引用しきれないが、以下のような人たちが参加している。
矢崎泰久(華得)、和田誠(独鈷)、永六輔(六丁目)、小沢昭一(変哲)、富士眞奈美(衾去)、浅井慎平(風太)、中山千夏(線香)、山藤章二(三魔)、中村八大(大八)、土屋耕一(柚子湯)、色川武大(水眠)、岩城宏之(蕪李)、吉行和子(窓烏)、俵万智(沙羅)、黛まどか(かまど)……

風天は、この句会の有力メンバーだったのだ。
互選で点を入れて集計し、最終的に総合点で当日の番付が決まる。
風天は、総合点で何回も優勝した実力者だった。

好きだからつよくぶつけた雪合戦  (風天)

先日も、小学校以来の友人たちと同窓会を持つ機会があったが、誰しも幼い頃、掲句のような思い出を持っているのではないだろうか。

ゆうべの台風どこにいたちょうちょ  (風天)

ゆうべの台風は強い風だった。翌日は台風一過の青い空。蝶々が一匹飛んでいる。
台風の間、どこに身を潜めていたのか。無事でいてよかったなあ。

ひぐらしは坊さんの生まれかわりか  (風天)

ひぐらしが鳴き始めると、季節は既に秋である。ひぐらしの鳴き声は何となく物悲しい。ひたすらお経を読む声にも似ているか。

「話の特集」という雑誌の特徴は、一言で言えば、ダンディズムだったと思う。
WIKIPEDIAによれば、ダンディは次のように解説されている。

ダンディ(dandy)とは、身体的な見た目や洗練された弁舌、余暇の高雅な趣味に重きを置く男性のことである。

イズムを付ければ、自分の主体的な選択という要素が出てくるから、特に上記の後半部分ということになるだろう。
「話の特集」の誌面は、まさに「余暇の高雅な趣味に重き」が置かれていたように思う。
風天こと渥美清さんは、ダンディズムそのものの人だったと言えるのではなかろうか。

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2008年7月12日 (土)

風天の詩学…①「お遍路」という季語

国民栄誉賞という賞がある。
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」として福田赳夫内閣の時代(1977年8月)に創設された。王貞治さんから高橋尚子さんまで、現時点で15人という、まことに希少性の高い賞である。

その15人の中の1人が、俳優の渥美清さんだ。俳優としては、長谷川一夫さんに次ぎ(その後はいない)、映画界では黒澤明さんに先行する。
もちろん、「寅さんシリーズ」の人気によるものだろう。
この国民栄誉賞という観点からいえば、誠に不本意なことではあるが、私は映画館で「寅さん」を観た記憶がない。非国民と言われかねないだろう。
しかし、実際に、「寅さん」が作られていた時代、映画館に足を運ぶような生活をしていなかった。

記録によれば、「寅さん」の第1作の公開が1969年8月で、遺作の第48作が1995年12月である。
1969年は社会人になった年だし、1995年はある組織の再構築に代表して取り組むことになった年だ。
もちろん、仕事一筋というわけでは全くなく、映画を観たのも皆無ではない。映画館に行くという生活習慣が無かっただけである。
だから、特に「寅さん」に冷たかったという訳ではないし、TVやビデオでは何作か観たことがある。

それにしても、私に限らず多くの人が、国民栄誉賞受賞者・田所康雄と聞いてもすぐにピンとは来ないだろう。
1996(平成8)年に、転移性肺がんで亡くなった渥美清さんの本名である。
何となく、渥美清が本名のような気がしているのは、「フーテンの寅さん」こと車寅次郎の名前が芸名のように錯覚するからだろう。それだけ人口に膾炙していることの証明ではなかろうか。
渥美清という役者と車寅次郎は、表裏一体、不即不離の関係にある。

その渥美清さんが、数多くの秀句・名句を残していたことは、森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)を手にするまで、まったく知らなかった。

お遍路が一列に行く虹の中  (風天)

風天は、もちろん、フーテンの寅からとった渥美さんの俳号である。
この句は、朝日新聞社発行の週刊誌「アエラ」の編集者たちを中心とする「アエラ句会」での席上での作だという。
飯田龍太、稲畑汀子、金子兜太、沢木欣一監修『カラー版・新日本大歳時記(春)』講談社(0002)に、「遍路」の例句として収載されている。

彼岸は春と秋2回あるが、ただ彼岸といえば春の季語だという。秋の彼岸の場合は、秋彼岸という。同様に、遍路といえば春の季語で、秋の場合には秋遍路というらしい。
想像してみれば、菜の花畑の黄色とお遍路さんの白装束はマッチしているような気もする。
現在刊行中の小学館版『週刊日本の歳時記』の4月15日付「春の雨」の号にも、「遍路」が載っている。
解説は、TVなどでお馴染みの宇多喜代子さんで、以下のように記されている。

弘法大師ゆかりの四国八十八か所の霊場札所を巡拝すること。また巡礼している人をさす。白装束に納経箱を下げ、金剛杖、数珠、鈴を持ち、草鞋をはき、「同行二人」と書いた笠をかぶって歩く。徳島の霊山寺を第一霊場として始まり、中世以降さかんになったという。秋に歩く遍路を「秋遍路」という。現代では、季節を問わず観光バスで巡る人たちも増えている。

道のべに阿波の遍路の墓あはれ  (高浜虚子)
夕遍路いまさらさらと米出しあふ  (中村草田男)

もともと四国には、海の向こうの浄土を目指す修行が、海岸で行なわれていた。
室戸岬、足摺岬、志度浦などがそういった場所で、現在の札所に重なる所も多い。

平安期以降、密教の広がりと共に、弘法大師信仰が広まる。大師は讃岐(香川県)の出身で、青年期に四国の山中や海岸で修行をしたとされる。
大師にあやかろうと、多くの僧が各地より大師ゆかりの遺跡や霊場を訪れて修行・参拝するようになり、四国遍路が形成されていったらしい。 

遍路は一部観光化しつつ、現在でも多くの人を引き付けている。
宗教者でもない現代人が、なぜ遍路を目指すのか?

私の知人にも、遍路の体験者がいる。
1人は重篤な病に罹患していることが分かった時期に、もう1人は職業上の問題等で人生の重大な転換期を意識した時期に、遍路に出た。
もちろん、それぞれの胸の中のことは分からないが、二人とも「来し方行く末」について思いを巡らしながらだったことは間違いないような気がする。
言い換えれば、自分と向き合う時間を持ちたいというのが、共通項ではなかったか。

一般に、遍路の道はさほど広くないだろう。おのずから一列になって歩くことになる。
風天の句は、実景の記憶なのか想像の産物なのか分からないが、鮮やかなイメージを喚起する作品だと思う。
私は、句の良し悪しが本質的に分からないのだけど、この句などは歳時記に収録されるのは当然のように感じる。

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2008年7月11日 (金)

大伴家持の生涯

大伴宿禰家持は、『万葉集』の巻末の歌の作者であると共に、最も中心的に編纂に係わったと考えられている(08年6月7日の項)。
家持の生きた時代(08年6月8日の項)は、今まで見てきたように、政争の多い不安定な時代だった。
そのような時代の中で、家持はどのように人生を過ごしたのか。その軌跡を辿ってみよう。

718(養老2)年に生まれたと推測されている。没年は785(延暦4)年だから、68歳まで生きたことになる。
旅人の長男で、母については不詳である(08年6月8日の項)。妻は、坂上大嬢で、子として永主と女子がいる。
727(神亀4)年の冬か翌年の春頃、旅人は大宰帥として筑紫に赴任し、子供だった家持も同行した。
731(天平3)年7月に旅人が死去し、家持は14歳で大伴家の家長としての立場に立つ。

732(天平4)年(15歳)頃から、坂上大嬢や笠女郎など多くの女性たちと相聞を交わすようになったことが、『万葉集』巻4に「笠女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首(587~610)」「大伴宿禰の和ふる歌二首(611~612)」「山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌五首(613~627)」「大神女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌一首(618)」「中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌五首(685~679)」「大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈れる歌二首(727~728)」「大伴坂上大嬢、大伴宿禰家持に贈れる歌三首(729~731)」などの相聞歌から推測される。
736(天平8)年9月に、巻8の<1566~1569>「大伴家持の秋の歌四首」を作歌したことが左注によって知ることができる。制作の時期が明示されているのは、この時が最初である。

739(天平11)年頃に、正六位に初叙された。
740(天平12)年10月の聖武天皇の関東行幸(08年6月27日の項)に従駕しており、この年までに内舎人(天皇の身辺の世話や警護等にあたる)に任ぜられたと思われる。
この年の末の恭仁京への遷都に伴い、単身新京に移住した。

742(天平14)年の橘諸兄の旧宅での奈良麻呂主催の宴に参加し、歌を詠んでいる。

もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか  (08-1591)
  右の一首は、内舎人大伴宿禰家持
  以前は、冬十月十七日に、右大臣橘卿の旧宅に集ひて宴飲せしなり。

743(天平15)年7月の聖武天皇の紫香楽宮への行幸の際には、橘諸兄と共に恭仁京に留まっている。
恭仁京を讃める歌(08年6月29日)などを作っていることから、恭仁京遷都推進派の橘諸兄に近い立場にあったと思われる。
安積親王が藤原八束の家で催した宴に参席して、歌を詠んでいる(08年6月30日の項)から、親王専属の内舎人だったのかも知れない。

744(天平16)年の正月、安積親王の宮があった活道岡で市原王らと宴を催し歌を詠む(08年7月1日の項)が、同じ年の閏1月主君と恃んだ安積親王が急死する。
2月から3月にかけて安積親王を悼む挽歌を詠む(08年7月2日の項)。この後平城京への帰宅を命じられたと思われ、<3916~3921>の題詞に、「十六年四月五日、ひとり平城の故き宅に居て作れる歌六首」とある。

746(天平18)年3月、宮内少輔に任じられるが、3か月後の6月には越中守を命じられる。
9月に弟の書持の死を悼む哀傷歌を詠む(17-3957~3959)。
以後758(天平宝字3)年1月の巻末歌まで、『万葉集』は家持の歌日記という体裁である。
749(天平21)年、廬舎那仏造顕にとって重要な金が陸奥国から産出し、「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首並に短歌」(18-4094~4097)を作る。
4094の一節の「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじ」を採用した『海行かば』が、昭和の大戦時に、出征兵士を送る歌として作られ、大本営の戦果発表の玉砕時に使われた(08年5月29日の項)。

749(天平21)年7月、聖武天皇は皇太子の阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇が誕生する。
751(天平勝宝3)年7月、少納言に任ぜられ、足かけ6年の越中生活に別れを告げる。
753(天平勝宝5)年2月、代表作と目される「春愁三首」を詠む(36歳)。

  二十三日、興によりて作れる歌二首
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも  (19-4290)
わが屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも  (19-4291)
  二十五日作れる歌一首
うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独しおもへば  (19-4291)
  春日遅々として、雲雀正に啼く。悽惆(イタ)める意、歌にあらずは、撥ひ難し。よりてこの歌を作り、式(モ)ちて締緒(ムスバホリ)を展(ノ)べたり。但、この巻の中、作者の名字を偁はず、ただ年月所處縁起をのみ録せるは、皆大伴宿禰家持の裁作(ツク)れる歌詞なり。

756(天平勝宝8)年5月、聖武太上天皇が崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。
翌年6月、淡海三船の讒言で、出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、大伴一族に自重と名誉の保守を呼びかける「族を諭す歌」を作る(08年7月6日の項)。

757(天平勝宝9)年1月に橘諸兄が薨去し、4月には道祖王に代わって大炊王が立太子する。
7月、橘奈良麻呂らの謀叛が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は咎めを受けなかった。
758(天平宝字2)年6月因幡守に任ぜられる。8月には、大炊王が即位して淳仁天皇となる。
翌年の「因幡国庁に饗を賜う宴の歌」が『万葉集』の巻末歌である。

763(天平宝字7)年、藤原宿奈麻呂らと共に恵美押勝(藤原仲麻呂)暗殺計画に連座し、家持は現職解任のうえ、京外追放に処せられる。
764(天平宝字8)年1月、薩摩守に任じられる。
9月、仲麻呂が謀叛を起こし、斬殺される。押勝暗殺計画に連座した者が復権したが、家持は叙位されていない。
10月、上皇が再祚して称徳天皇となる。

770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩御し、志貴皇子の子の白壁王が即位して光仁天皇となる。
781(天応元)年4月、光仁天皇が退位して、山部親王が即位して桓武天皇となる。
782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀叛が発覚し、家持も連座する。
5月には春宮大夫として復任し、6月には陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。
784(延暦3)年には、持節征東将軍を兼ねるが、8月28日、陸奥国にて死去する(68歳)。
死の直後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件の首謀者として家持が関与したとされ、生前に遡って除名処分を受ける。
806(延暦25)年、桓武天皇により種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔が発せられ、家持も復権した。

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2008年7月10日 (木)

異説・聖武天皇…小林惠子説

小林惠子氏は、日本古代史に斬新というか奇想天外というか、にわかには信じ難いような仮説を設定されることで多くのファンを持っている。
その一端については、大化改新の解釈で触れた(08年4月10日の項11日の項)。
この当時の状況についても、聖武天皇が入れ替えられたという大胆な説を提示している。
以下、『争乱と謀略の平城京―称徳女帝と怪僧・道鏡の時代』文藝春秋(0210)で概観してみよう。

基本的な視点は以下の2点である。
①奈良時代の日本は、中国を中心とした東アジアの政治的な動きと密接に連動していた。
②『続日本紀』は『日本書紀』におとらず、讖緯説的表現で重大な事実を暗示している場合が多い。

663年の“白村江の戦い”で、元百済王子の中大兄は高句麗の蓋蘇文こと大海人と連合して、百済復活を賭けて唐国と戦ったが敗北し、百済から撤退した。
668年、天智は近江で即位式を挙げた。
高句麗が滅んで大海人は雌伏せざるを得なかったが、天智が死んで大友皇子が即位すると、吉野を出て起兵した。
当時の新羅の文武王は、大海人が新羅の名将金庾信の妹に生ませた子どもだったので、新羅は大海人を救援した。

唐は新羅に侵攻し、窮地に陥った文武王は、681年に新羅に死んだことにして、日本に亡命した。
天武も682年に唐軍に追われて、旧高句麗領に逃げる途中で殺された。
天武が没すると、天武の長子の大津皇子が即位し、683年朱雀という年号を立てた。
唐は大津を認知せず、高市皇子らによって謀反者として殺された。
高市は即位して持統天皇となり、唐と講和した。天武の長子とされている高市は、実際は天智の子だった。
696年、突厥や契丹などの周辺諸民族が一斉に唐国に反乱を起こした。
高市の没後、文武王が反高市派(鸕野皇女、刑部皇子、藤原不比等ら)に擁立されて、文武天皇として即位した。文武王は天武の長子だったから、日本国王としての有資格者だった。

705年に唐の中宗が即位すると、元新羅王の文武天皇が日本国王であることを許さず、文武は大和朝廷を不比等と天智の娘元明天皇に託さざるを得なかった。
715年に、中国東北部に渡って唐と戦っていた文武が唐に降伏し、元明は娘の元正に譲位した。
元正即位を推進したのが長屋王だった。
長屋王は、高市の子どもだから、文武がいなければ正統な天智系の天皇のはずだったが、文武によって臣下の地位に下がっていたので、妻の姉の元正を擁立した。
長屋王は天智系だから、新羅と協調的ではなく、720年に新羅は九州に侵攻した。

724年に元正が聖武に譲位して、長屋王と新羅とが講和した。
当時の新羅聖徳王は、文武が来日直後に生まれた子で、日本で役の行者と呼ばれている人物である。
この頃、勃興しつつあった渤海は二代目大武芸の時代だった。
727年、大武芸は、使者を出羽国に送り込んだ。その首領が高斉徳で、小林氏は文武の子とする。だから大武芸は、高斉徳を日本国王にして、渤海の傀儡政権の樹立を計画した。
出羽国に上陸した渤海使者は、大野東人らの抵抗を受けながら、辛うじて入京した。
大和朝廷側では、藤原氏が大武芸の計画に荷担した。
『続日本紀』には、渤海使者が来日した727年9月の閏9月に皇太子誕生とあり、翌728年9月に皇太子没とある(08年6月20日の項)。

小林氏は、この名前のない皇太子は聖武自身で、暗殺され生まれて1年の皇太子として元明陵に陪葬された。つまり、皇太子は『続日本紀』が捏造した架空の幼児である。
皇太子は、高斉徳の来日と同時に生まれたことになっているから、高斉徳が文武の子として生まれ変わったという暗示をした、ということである。
聖武にとって異母弟の高斉徳が、聖武天皇になりすました。
この大胆な計画を援護したのが、藤原宇合・武智麻呂と光明子だったが、宇合らの狙いは、聖武の暗殺ではなく、長屋王の失脚だった。
この事態に、長屋王はなすすべもなく、729年2月に宇合らに滅ぼされる。

何とも気宇壮大な仮説であって、私の知識のレベルでは評価すべくもないが、葛城王については、小林氏は次のように説明する。
葛城王は聖武天皇の即位した神亀元(724)年に従四位に上に叙せられたが、5年後に新聖武(高斉徳)朝が成立した天平元(729)年3月に正四位上に叙せられるまで動きがない。
この空白の5年間に、渤海に渡って、高斉徳の来日工作をしていたのかも知れない。

紫香楽宮跡から出土した木簡に書かれていた万葉歌が、1つの手がかりを与える(08年5月26日の項)。 

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに  (16-3807)
  右の歌は、傳へ云へらく、葛城王の陸奥国に遣さえし時、國司の祇承(ツカ)ふること緩怠(オロソカ)にして異に甚し。時に、王の意悦(ココロヨロコ)びず、怒の色面に顕れ、飲饌(ミアヘ)を設けしかども、あへて宴楽せざりき。ここに前の采女あり、風流(ミヤ)びたる娘子なり。左の手に觴(サカヅキ)を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日(ヒネモス)なりきといへり。

つまり、葛城王が陸奥に遣わされた時、国司の態度が怠慢で悪くて、王は怒りの表情を表に出し、宴会を楽しもうとしなかった。
そこで、采女が左手に觴を持ち、右手に水を持って、葛城王の膝を撃って詠んだということである。
安積山の山影が見える山の井のような浅い心で、あなたを思っているのではない、という歌で、葛城王が何に感心したのかよく分からない。

小林氏は、葛城王が陸奥に遣わされたというのは、渤海使者が出羽国に到着したのを迎えに行ったのではないか、と推測する。
『万葉集』に葛城王とあるから、橘諸兄を名乗る前で、葛城王は陸奥の国司らの態度を警戒したのを、采女が葛城王に、葛城王側にあることを歌で教え、葛城王が安心したというのが、歌の背景ではないか。
いささか深読みかとも思うが、『万葉集』の史料的側面の一例ということができる。

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2008年7月 9日 (水)

聖武天皇の血統コンプレックス?

「藤原宮子の大夫人尊号事件」(08年6月13日の項)、「聖武天皇の後嗣問題」(6月14日の項)、「某王立太子とその死」(6月20日の項)、「光明立后」(6月21日の項)と並べてみると、聖武天皇を巡る諸事件については、親族の問題がさまざまな形で係わっていることが分かる。
「長屋王の変」(6月17日の項)や「東国行幸(恭仁京)」(6月27日の項)なども、換言すれば親族の問題ということができる。
つまり、聖武天皇にとっては、血統の問題が常に意識されていたということになる。

聖武天皇の系図を見てみよう(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎 』草思社(0305))。
2_3聖武天皇は、持統天皇の孫(草壁皇子の子)の文武天皇と、藤原不比等の娘の宮子との間に生まれた。
持統から文武への皇統は、持統の執念でもあったが(07年9月11日の項)、文武の血統について、疑問視する見方がある(08年2月6日の項)。

それは置くとして、聖武にとっては、母親の血統が問題だったのだろう。
「藤原宮子大夫人尊号事件」にみるように、即位直後に、勅を取り消さざるを得ない事態を招いたことは、聖武にとってはショックなことだっただろう。
誕生間もない皇子を立太子するというのも、聖武が自分の血統による皇統の確立を急いだためだと思われる。
しかも、その皇子が、わずかに1歳で薨じてしまう。

藤原家と係わる皇統を維持しようとする側にとっては、きわめて深刻な事態である。
高市皇子と天智天皇の皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)の子の長屋王は、血統的には聖武よりも上位にあるともいえる。
また、聖武の夫人の県犬養広刀自が、安積親王を出産している。

藤原氏側のとった奇策が、光明子を皇后にするというものだった。
皇后は、皇族から選ばれるとされていた。光明子は、不比等と県犬養三千代の間の子であるから、当然反対意見が出ることが予想される。
例えば、宮子の称号に反対した長屋王が、光明立后を容認するとは思えない。
何としてでも長屋王を排除する必要があった。
誣告による「長屋王の変」である。

「彷徨五年」の始まりの東国行幸は、聖武天皇が、壬申の乱の故地を巡ることにより、天武の嫡系であることを誇示するものであったと考えられている。
こうしてみると、聖武には、自分の血統に関する複雑な思いがあったものと推測される。
天武の嫡系であるという自負と、皇族でない母という負い目。
血統は自分では選ぶことができないが故に、評価が難しい。

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2008年7月 8日 (火)

聖武天皇をめぐる謎

多くの人が、奈良時代といえば、天平文化を思い浮かべるだろう。
729年の元年から、749年の21年まで、およそ20年間の期間であり、聖武天皇の治世である。
聖武天皇も、大仏造顕の立役者として、小・中学校の社会科の時間以来の馴染みである。
澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)によれば、文部科学省が『中学校学習指導要領』で、社会科の歴史分野で教えなくてはならない人物20名の1人として指名されているという。
しかし、その実像をイメージしようとすると、謎が多く、捉えどころが難しい。
以下、澤田氏の上掲書を参照しつつ、聖武天皇の謎を挙げてみる。

1.誕生日
『続日本紀』には、大宝元(701)年に以下の記述があるだけである。

この年、夫人の藤原氏(宮子)が皇子(首(オビト)皇子、後の聖武天皇)を産んだ。

大宝元年は、大宝律令が完成した律令国家としての記念すべき年である。
『続日本紀』の大宝元(701)年正月一日の条は、「文物の儀、是に備れり」と、誇らしげな記述で知られる。
現在、藤原宮跡が発掘調査されており、貴重な史料が得られている(07年9月12日の項12月1日の項08年1月1日の項)。
藤原京あるいは藤原宮のイメージが次第に明確なものにされつつあると言えるが、藤原氏待望の皇子の誕生の割には、『続日本紀』の記述は素っ気ないのではなかろうか。

2.即位までの経緯
『続日本紀』の元明天皇紀和銅7(714)年に以下の記事がある。

六月二十五日 (聖武天皇)が元服した(十四歳)。

即位したのは、神亀元(724)年の2月であるから、10年の間即位しなかったことになる。
この間、霊亀元(715)年9月には、元明天皇から氷高皇女(草壁皇子の皇女)に譲位が行なわれている。
この時点で、皇統直系男子で15歳のの首皇子が即位できなかった事情は何だったのだろうか?

3.戦々兢々
神亀2(725)年の記事である。

九月二十二日 次のように詔した。
朕がきくところでは、昔の賢明な王は
……
朕は徳少なく才能がうすい身で皇位をうけつぎ、戦々兢々として、夕べになるとおそれつつしんで、一物でも失うところがなかったかと案じ、いのちあるものの生活が安らかであるようねがっている。
……
昔、殷の高宗は徳を修めて、雉が鳴く災を消し(災の前兆として雉が鳴くと考えた)、宋の景公は仁政を行なって、熒惑(ケイゴク:火星)の異状をとどめた。遥かに前人の行ないの跡をみると、どうして恐れかしこむ心を忘れてなろうか。そこで所司に命じて三千人を出家入道させ、同時に左右両京および大倭(ヤマト)国の管内の諸寺に、今月の二十三日から七日の間経典を転読させよ。この奥深い善行の功徳で願わくば災異を除きたい。

当時災厄が多く、神仏への祈祷が頻繁に行なわれていたとしても、統治の第一人者が、「戦々兢々」として、というのはいささか大げさではないだろうか? 「戦々兢々」という特別の事情が何かあったのだろうか?

4.長屋王の変
左大臣長屋王は、左道を学んで国家を傾けようとしたと誣告され、自尽せざるを得なかった。政治の最高責任者ともいうべき長屋王の事件について、聖武天皇はどう見ていたのだろうか?

5.皇太夫人宮子(母)との対面
藤原四兄弟が次々に病死した天平9(737)年のことである。

十二月二十七日 大倭国を改めて大養徳国と書くことにした。
この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて、僧正の玄昉法師を引見した。天皇もまた皇后宮に行幸した。皇太夫人が憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとっていなかったためである。
夫人は天皇(聖武)を出産以来、まだ子である天皇に会ったことがなかた。玄昉法師が一たび看病するや、おだやかで悟を開かれた境地となった。

聖武天皇が701年生まれだとすれば、宮子は36年間も常人らしい行動をとっていなかったことになる。玄昉が看病しただけで治癒したという実態はどういうことだったのか?
その間、母子が対面していないということはどういうことか?

6.謎の彷徨
天平11(740)年の藤原広嗣の乱が起きた年、聖武天皇は伊勢行幸をきっかけに、平城京を後にして、4年半の間、各地を遍歴する。その理由は何だったのか?

7.仏教への打ち込み
天平12(741)年の「国分寺造立の詔」、天平15年の「盧舎那大仏造立の詔」など、国力を傾けるまでに仏教に帰依しようとした背景は何か?

8.安積親王に対する態度
聖武天皇は、光明皇后生んだ皇子を1歳で亡くしているが、その年に、夫人の県犬養広刀自が安積親王を生んでいる。
聖武天皇にとっては大事な皇子と考えるのが自然だと思われるが、17歳で不自然と考えられる状況で夭折してしまう。
安積親王に対して、どういう感情を持っていたのだろうか?

9.譲位の謎
天平勝宝元(749)年に聖武天皇は出家し、娘の皇太子(阿倍内親王)に譲位する。女性の立太子が不自然であることはおくとしても、49歳で譲位しなければならない必然性がよく分からない。

これらの数々の謎に合理的な解釈はあり得るのだろうか?

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2008年7月 7日 (月)

橘奈良麻呂の変

聖武太上天皇は、天平勝宝8(756)年に薨ずる。

五月二日 
この日、太上天皇が内裏の寝殿において崩御された。太上天皇は遺詔して、中務卿・従四位の道祖王(フナドノオオキミ)を皇太子に任命した。

道祖王は、天武天皇の第七皇子の新田部親王の子である。
孝謙天皇への譲位は、皇統が孝謙で途切れることを意味していた。つまり、孝謙の次の皇位後継者を定める必要があった。
天武の後裔から選ぶとしても、候補者は少なくない。
誰にするにしても、反対意見が出てくるのは間違いなかった。
それゆえ、遺詔という形で皇太子を指名する方法を選んだ。

しかし、聖武の遺志は、1年も経たないうちに反古にされてしまう。

天平宝字元(757)年
正月六日 前左大臣・正一位の橘朝臣諸兄が薨じた。
……
三月二十九日 皇太子の道祖王は、服喪中にもかかわらず、淫欲をほしいままにする心があり、教えいましめる勅があっても、ついぞ改めることができなかった。そこで勅により群臣を召し集め、先帝の遺詔(道祖王を皇太子にするとされたもの)を示し、皇太子を廃することがどうであろうかと尋ねた。右大臣以下みな一致して「敢えてご質問の趣旨に反対いたしません」と奏した。この日、道祖王の皇太子の地位を廃し、もとの王に戻し帰宅させた。
四月四日 天皇は群臣を召して尋ね、「どの王を立てて皇嗣とすべきであろうか」と問われた。

群臣が勅命のみに従う、という意思表示を受けて、孝謙は、大炊王を皇太子に指名する勅を発した。
大炊王は、舎人親王の第七子で25歳だった。皇統が、新田部親王の系統から舎人親王の系統に変更したということになる。
大炊王は、仲麻呂の亡き長男真従の妻だった粟田諸姉と結婚していたから、仲麻呂と大炊王は義理の親子という関係にあった。
大炊王は、仲麻呂の邸宅の田村第に住んでおり、仲麻呂ともっとも関係の深い皇族であった。

アンチ仲麻呂派にとっては、許し難い専横である。
しかも6月16日の人事によって、アンチ仲麻呂派の分断が図られた。
中心に位置していた橘奈良麻呂は、兵部卿から右大弁に降格され、軍事関係のポストを外された。
大伴古麻呂は、陸奥按察使兼陸奥鎮守将軍として、陸奥国に飛ばされた。

六月二十八日 これより先、去る天平勝宝七歳冬十一月に太上天皇(聖武)が病臥された時、左大臣橘朝臣諸兄の側近に仕える佐味宮守が通報して「大臣は酒を飲んだ席で、太上天皇について無礼な言葉を申しました。謀叛の気配があるかと思います」と。太上天皇はやさしくて心がひろく、諸兄をとがめられなかった。のち大臣はこのことを知り、次の年辞職引退した。
……
ここに至って従四位上の山背王がまた次のように告げてきた。
「橘奈良麻呂が兵器を用意して田村宮を包囲することを計画しています。正四位下の大伴宿禰古麻呂も、その内情をよく知って加担しております」と。

山背王は長屋王の子で、反藤原氏のグループに属していたが、決起直前に裏切ったことになる。
7月2日に、中衛舎人の上道斐太都が決定的な密告を仲麻呂に行なった。
上道斐太都を計画に誘った小野東人に対して厳しい訊問が行なわれ、東人の自白に基づいて関係者が逮捕された。
いずれも厳しく問い詰められて自供し、挙兵計画の全貌が明らかになった。
一味は獄に下され、獄中で死ぬ者が多かった。黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人らが杖に打たれて悶死した。リンチに近い状態だったのだろう。
橘奈良麻呂の変は、悲惨な結果で幕を閉じ、仲麻呂は反対勢力を一掃した。
奈良麻呂自身がどうなったかの記録はないが、状況からして獄中で死んだことは間違いないと思われる。

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2008年7月 6日 (日)

家持の族(ヤカラ)に諭す歌

孝謙天皇の即位後の人事において、諸兄の子の奈良麻呂が参議になった。
反藤原勢力の急先鋒だった。奈良麻呂が議政官に登用されたことにより、議政官内における橘父子と藤原兄弟(豊成-仲麻呂)の対立は先鋭化した。
藤原氏からは、北家から八束に続いて、清河が参議になった。
藤原氏は、南北両家から2人ずつ、計4人の議政官を出して、四子以来の勢威となった。

孝謙天皇は即位したものの、彼女の代で聖武の皇統は途絶えてしまうことになる。
はなはだ不安定な存在だった。
聖武太上天皇は、仏教に没入状態だったから、孝謙天皇を支えるのは、光明皇太后しかいなかった。
太上天皇が在世中に、皇太后が政治に介入するのは異例な事態である(栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109)。
そこで、紫微中台という宮司がおかれ、光明皇太后が孝謙天皇を支えて政治に参加する仕組みが整えられた。

その紫微中台の長官に任命されたのが藤原仲麻呂であるが、彼は、太政官の内部では、橘諸兄や兄の豊成の下位にあった。
紫微中台という太政官とは別組織が出来たことによって、彼はいっきょに権力を確保することになった。
仲麻呂は、紫微中台の長官と同時に、中衛府の大将になった。
中衛府は、神亀5(728)年に、聖武と光明の子である某(基)皇太子の親衛のためにおかれた組織だった。
初代には房前が任命され、豊成がその後を継いでいたが、豊成に替って仲麻呂が就任した。
藤原氏の中での豊成と仲麻呂の地位が逆転したのであった。

孝謙天皇の即位に関しては、貴族層には不審と反感とが潜在していた。
その孝謙天皇の体制において、仲麻呂が重用されたことから、仲麻呂に対する反発が強まった。
その急進派が橘仲麻呂だった。
大仏建立と東大寺の造営という大きなプロジェクトが進行する中で、表面上は平穏な事態がしばらく続いた。
天平勝宝7(755)年11月、橘諸兄が従者によって、「反逆の心を抱いている」と密告された。
この件は、聖武天皇が握りつぶして不発に終わったが、あとで聞いた諸兄が、翌年の2月に左大臣を辞職してしまった。
結局、諸兄の失脚を狙った密告は、その目的を達成したことになる。
諸兄は、藤原四子の死(天平9(737)年)以後、18年間の長期間太政官のトップにあったが、その座を明け渡し、翌年の1月には74歳の生涯を閉じることになる。

聖武天皇は、諸兄より一足先に、天平勝宝8(756)年の5月2日に薨じた。
聖武の死は、仲麻呂派とアンチ仲麻呂派の対立を激化させることになった。
聖武の死の直後である。『続日本紀』は次のように記す。

五月十日 出雲守・従四位上の大伴宿禰古慈斐と内竪(天皇の傍に仕える少年)淡海真人三船は、朝廷を非難悪口し、臣下としての礼をしたという罪に連坐させられ、左右の衛士府に拘禁された。
五月十三日 天皇は詔して二人とも放免された。

この件によって、古慈斐は土佐守に左遷された。
大伴一族には、アンチ仲麻呂の機運が醸成されてくるが、性急に事を起こしても仲麻呂の思う壺ということになる。
家持は、一族に自重を求めた。

  族(ヤカラ)に諭す歌一首並に短歌
ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖の 神の御代より 梔弓を 手握り持たし 眞鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の 丈夫武雄を 先に立て 靭取り負せ 山川を 磐根さくみて ふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従はぬ 人をも和し 掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の知らしめしける 皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方に 極め尽して 仕へ来る 祖の職t 言立てて 授け給へる 子孫の いやつぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜しき 清きその名ぞ 凡ろかに 心思ひて 虚言も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 丈夫の伴  (20-4465)

城島の倭の國に明らけき名に負ふ伴の緒こころ努めよ  (20-4466)

剣刀(ツルギタチ)いよよ研ぐべし古(イニシヘ)ゆ清(サヤ)けく負ひて来にしその名ぞ  (20-4467)

  右は、淡海眞人三船の讒(ヨコ)し言すことに縁りて、出雲守大伴古慈悲宿禰任を解かえき。ここを以ちて家持この歌を作れり。

大伴氏の由緒正しい伝統を心して、自重することが重要だと一族に説いたのだった。

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2008年7月 5日 (土)

仲麻呂体制の確立

今年は、四川大地震や岩手・宮城内陸地震など、地震のニュースが多いが、天平17(745)年も地震の多い年だった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
『続日本紀』に「地震があった」と記されている日を抽出すると、以下の通りである(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈中〉』講談社学術文庫(9211))。

五月一日/五月三日/五月四日/五月五日/五月六日/五月七日/五月八日/五月九日/五月十日/
五月十六日/五月十八日/七月十七日/七月十八日/八月二十四日/八月二十九日/九月二日

確かに、連日のように日本列島は揺れていたらしい。
特に、五月二十五日の条には、「この月の地震の多発は異常であって、度々地面に亀裂が生じ、そこから泉水が湧出した」と記されている。

しかし、5年間のブランクを経て宮都として復活した平城京は、活気に満ちていた(中川:上掲書)。
大宰府が復活し、玄昉が観世音寺造営のために、筑紫に追われた。
諸兄の時代は終焉しつつあったということになる。

知太政官事の鈴鹿王(高市皇子の子/長屋王の弟)が9月4日に亡くなると、皇親政治から新しい政治体制に移行せざるを得ない状況になった。
聖武天皇は、8月に大仏造顕を甲賀寺から大和国添上郡金里(現在の東大寺)に移して、難波に行幸した。
難波についてほどなく病臥の人となった。
9月19日には、平城および恭仁の留守に宮中の守りを固めることが命じられ、孫王らが難波へ呼び集められ、鈴印なども移された。
不測の事態を想定した体制だった。

聖武の不予は人々に不安な情勢をもたらしたが、それを機会として勢力の挽回を図ろうとしたのが、反仲麻呂派だった。
その中心人物が、活道が岡での酒宴のメンバーの1人だった橘奈良麻呂である。
古来からの武の氏族だった大伴・佐伯氏らに結集を呼びかけ、武力による政権奪取を目指した。
奈良麻呂は、「皇嗣を立つることなし」と、阿倍内親王を皇太子として認めないかのような発言をしている。
しかし、これは中川:上掲書では、阿倍内親王を中継として、次の皇嗣について問いかけたのだろう、としている。

奈良麻呂は、黄文王を立てるべし、としている。
黄文王は、長屋王の遺児であり、反仲麻呂のシンボルとしてノミネートされたものだろう。
病弱の聖武は、廬舎那大仏の造顕にひたすら注力するといった事態だった。
平城の東に移転された造仏事業は、突貫工事で進められていた。
天平19(747)年9月には、いよいよ本尊の鋳造が開始され、寺の名前も東大寺と定められた。
しかし、天候不順による不作が、飢饉に近い状態をもたらし、急遽給米を実施しなければならない事態となった。

天平20(748)年4月には、前年の暮れから病臥にあった元正太上天皇が薨去し、6月には南家藤原夫人も薨じ、さらに翌年2月には、大僧正行基が没して、聖武は悲嘆の極に達する。
行基は、聖武が大仏造顕を発想する契機となった河内国知識寺を建立した僧であり、大仏造顕についても惜しみない協力をしていた。

大仏の鋳造が進行するに従い、鍍金の原料をどうするか、という問題が生まれていた。
鍍金を施さない大仏は、仏とは言えない。
そんなときに、陸奥の国から、産金の報せが届き、聖武を驚喜させた。
聖武は、阿倍皇太子を伴って東大寺に行幸し、大仏に対座して、「三宝の奴と仕えまつる天皇」と称して、産金を感謝する法要を行った。
産金を瑞祥として、天平21年を天平感宝元年として改元した。

天平感宝元(749)年7月、阿倍内親王が即位して孝謙天皇となった。32歳の独身女性だった。
孝謙天皇が即位して1か月後の8月10日、大規模な人事異動があった。
大納言正三位の仲麻呂は、紫微令の兼務を発令された。
さらに1か月後の9月7日に、紫微中台と称する官制が具体的に定められた。
長官を令とし、弼、忠、疏の四等官制で総数22名で構成される組織である。
長官の相当位階は正三位で、太政官につぐ位置を占めた。
孝謙天皇即位後の人事であり、新体制の中核組織である。
紫微中台は、光明皇后の皇后宮職を改めたもので、唐の玄宗のときの紫微省と高宗および則天武后のときの中台、あるいは交渉のあった渤海国の中台省などの称号の影響を受けたなどとされる(中川:上掲書)。

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2008年7月 4日 (金)

安積親王が生きた時代

聖武天皇の皇子の基(某)皇子が満1歳になる直前で亡くなり、もう1人の皇子だった安積親王も、僅か17歳で早世してしまう。
この安積親王は、どのような生涯を過ごしたのであろうか?
『続日本紀』は、ほとんど沈黙したままであるし、急死するに至る事態には疑惑がつきまとうが、真相は今となっては藪の中である。
わずかに『万葉集』に示された大伴家持や市原王などの歌から、その生涯の一端を窺い知るのみである。
この時代の出来事を、年表風に整理し、安積親王の生きた時代をイメージしてみよう。

724(神亀元)年
 2月4日、聖武即位
727(神亀4)年
 閏9月29日、安宿媛某(基)皇子出産
 9月、渤海使者・高斉徳ら出羽国に上陸し、12月に入京
 11月2日、皇子を皇太子とする
728(神亀5)年
 9月23日、皇太子薨る
 安積親王誕生
729(神亀6/天平元)年
 2月12日、長屋王自尽
 8月5日、天平改元
 8月10日、光明立后
730(天平2)年
 渤海の進物を山陵に捧げる
731(天平3)年
 7月、大伴旅人没
734(天平6)年
 1月、藤原武智麻呂が右大臣に、仲麻呂が従五位下になる
735(天平7)年
 大宰府管内に天然痘流行
 9月、新田部親王没
 11月、舎人親王没
737(天平9)年
 藤原四子、次々と病死
738(天平10)年
 1月13日、阿倍内親王立太子
739(天平11)年
 渤海使者入京
740(天平12)年
 2月、聖武天皇、難波行幸の際に知識寺で廬舎那仏を拝し、廬舎那仏造顕を志す
 9月2日、藤原広嗣挙兵
 10月29日、聖武天皇、伊勢国へ行幸
 12月15日、聖武天皇、恭仁宮に行幸
741(天平13)年
 1月13日、恭仁京にて朝賀
742(天平14)年
 聖武天皇、8月と12月に紫香楽宮に行幸
743(天平15)年
 聖武天皇、4月と7月に紫香楽宮に行幸
 10月15日、廬舎那仏造顕の詔
 12月26日、恭仁京の造営中止
744(天平16)年
 閏1月1日、聖武天皇、恭仁京と難波京のいずれを取るか諮問
 閏1月11日、聖武天皇、難波宮へ行幸
 閏1月13日、安積親王薨去
745(天平17)年
 1月1日、未完成の紫香楽宮に遷都
 紫香楽宮周辺で火災頻発
 5月11日、平城還都

藤原氏の宿願の天皇として聖武天皇が即位してから、皇統をめぐってさまざまな争いが起きるが、その軸には常に藤原氏と血の繋がりのない安積親王がいた。
長屋王の自尽、光明立后や阿倍内親王の立太子などの動きには、安積親王の存在自体が影響しているだろう。
藤原四子の台頭とその体制の崩壊、藤原一族の1人広嗣の反旗、聖武天皇による度重なる遷都。
藤原氏と他の有力氏族とが対立し争う中で、安積親王の生涯は、夢幻のように儚いものだったのではないかと思う。

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2008年7月 3日 (木)

活道岡酒宴メンバーのプロファイリング

安積親王の加わった活道岡の酒宴のメンバーについて、小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)の記述を参考に、その横顔を見てみよう。

藤原八束
八束は、藤原四子の次男・房前(北家)の第三子である(系図は、上掲書)。
2後に、「真楯」を名乗るが、活道が岡酒宴の時点(天平16(744)年正月)で30歳だった。
廟堂で実権を握りつつあった橘諸兄のライバルの仲麻呂とは従兄弟の関係になる。
しかし、橘卿のグループにあって、家持らと歌宴を楽しむという柔軟性を持っていた。

橘奈良麻呂
諸兄の嫡男。この頃、23、4歳か。
直情径行型で、思ったことを口に出す。
後に、奈良麻呂の変として、多くの同士を巻き込んだ政争を招き、犠牲者を増やしてしまう(奈良麻呂系図については、08年6月25日の項)。

大伴家持
大伴一族の氏上。27歳。
従六位で、メンバーの中では叙位は一番低い(大伴氏系図については、08年6月8日の項)。

安積親王
聖武天皇の夫人・県犬養広刀自の生んだ第二皇子。夫人は、妃に次ぐ天皇配偶者の第二位である。
光明皇后の生んだ第一皇子が、立太子後薨じた直後に誕生。
5年ほど前、阿倍内親王が異例の立太子を済ませていたが、皇嗣候補として唯一の皇子である。
それが、仲麻呂・光明皇后体制にとって、呪詛される宿命となった。

市原王
生没年不詳。天智天皇の五世の孫。
父の安貴王は、志貴皇子の曾孫(川島皇子の曾孫説もある)。

それぞれに、微妙に立場と思考は異なるが、諸兄-仲麻呂と区分けすれば、諸兄の側であったということになる。
2恭仁京は、諸兄が推進した新都であったが、とりわけ安積親王が意識された宮処だったのだろう。
揺れ動く宮処は、人々に疑念を抱かせるものだったと思わせる。
天智が近江大津に遷都して以降の宮処の変遷の様子を整理すると、表のようになる(歴史雑学探究倶楽部編『天皇家の謎』学習研究社(0803)。
聖武天皇は平城京を出て、恭仁京→難波京→紫香楽宮と「彷徨」した後、平城京に還都した。
聖武の彷徨を、以下のような図式で考えることができる。
非平城京…天然痘等の災厄…聖武の主導性
恭仁京…橘諸兄の別荘/安積親王の宮
紫香楽宮…仲麻呂の大仏造顕の推進
難波宮…諸兄と元明太上天皇の聖武の仲麻呂・光明からの引き離し策
平城京…仲麻呂の工作の奏功
人間関係と権力争いが輻輳する中で揺れ動いた宮処だった。
その駆け引きの中で、若き皇子は死を迎えたのだった。

正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。知太政官事・従二位の鈴鹿王と民部卿・従四以上の藤原朝臣仲麻呂を留守官に任じた。
この日、安積親王は脚の病(脚気か)のため、桜井の頓宮(カリミヤ:河内郡桜井郷)から恭仁京に還った。
正月十三日 安積親王が薨じた。時に年は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。安積親王は聖武天皇の皇子であり、母は夫人・正三位の県犬養宿禰広刀自で、従五位下・県犬養宿禰唐の女である。

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2008年7月 2日 (水)

安積親王に対する家持の挽歌

『万葉集』巻3に、家持が安積親王の死を悼んで作った挽歌が収載されている。

  十六年甲申春二月、安積皇子の薨りましし時、内舎人大伴宿禰家持の作れる歌六首
かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆうしきかも わが王(オホキミ)皇子(ミコ)の命(ミコト) 萬代に 食(ヲ)したまはまし 大日本(オオヤマト) 久邇(クニ)の京(ミヤコ)は うちなびく 春さりぬれば 山邊には 年魚子(アユコ)さ走り いや日異(ヒケ)に 栄ゆる時に 逆言(オヨヅレ)の 狂言(タハゴト)とかも 白たへに 舎人装ひて 和豆香山(ワヅカヤマ) 御輿(ミコシ)立たして ひさかたの 天知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべも無し  (3-475)
  反歌
わが王(オホキミ)天(アメ)しらさむと思はねば凡(オホ)にぞ見ける和豆香(ワヅカ)そま山  (3-476)
あしひきの山さへ光咲く花の散りぬるごときわが王かも  (3-477)
  右の二首は、二月三日に作れる歌なり。
かけまくも あやにかしこし わが王皇子の命武士(モノノフ)の 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)を 召し集へ 率ひ賜ひ 朝猟に 鹿猪ふみ起し 暮猟に 鶉雉(トリ)ふみ立て 大御馬(オホミマ)の 口抑(オ)し駐(トド)め 御心を 見し明らめし 活道山(イクジヤマ) 木立の繁に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし ますらをの 心振り起し つるぎ刀(タチ) 腰に取り佩(ハ)き 梓弓 靭取り負ひて 天地と いや遠長に 萬代に かくしもがもと たのめりし 皇子の御門の 五月蝿(サハヘ)なす 騒く舎人は 白たへに 服取り著て 常なりし 咲(エマ)ひ振舞 いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも  (3-478)
  反歌
愛(ハ)しきかも皇子の命のあり通ひ見(メ)しし活道(イクヂ)の路は荒れにけり  (3-479)
大伴の名に負ふ靭帯びて萬代にたのみし心いづくか寄せむ  (3-480)
  右の三首は、三月二十四日に作れる歌なり。

家持は、従六位の27歳だった。
天平13(741)年の3月には、五位以上の者は旧都に住んではいけない、という勅が発せられ、家持はそれを免れていたが、仲間の居所が把握し難い状況にあった(小松崎文夫『皇子たちの鎮魂歌―万葉集の“虚”と“実”』新人物往来社(0403)。

聖武にとっては、安倍内親王も安積親王もどちらも我が子であることに変わりはなかった。
皇嗣をめぐる争いをどう感じていたのだろうか?

市原王の次の歌は、古代朝鮮語の音が織り込まれているという説がある(小松崎:上掲書)。

一つ松幾代か歴ぬる吹く風の聲の清きは年深みかも  (6-1042)
一松幾夜可歴流吹風乃声之清音年深香聞
ピドゥプサ・デガジネラ・チュウィガセネ・ゴエジマルジャ・ドゥジボガセコモ
(今は、不比等とその子房前派に頼って・過ごすのがいい・寒さがしのげます・絡まないようにしよう・今は咎めが手強くて手に負えない)
(『記紀・万葉の解読通信』三七号・李寧熙・訓訳)

市原王が、「声之清音(ゴエジマルジャ:絡まないようにしよう)」と詠んだ1か月後のことである。

閏正月十一日、天皇は、難波宮に行幸された。知太政官事・鈴鹿王と民部卿藤原仲麻呂が留守官に任じられた。この日、皇子は脚の病のため桜井の頓宮から恭仁京に還った。その皇子が薨じたのは、翌々日十三日であった。

家持の歌の二月三日に作れる歌とあるのは、命日の閏一月十三日から数えて三七日(ミナヌカ)の忌日にあたる。

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2008年7月 1日 (火)

安積親王の死の周辺

光明皇后に皇子が生まれず、安積親王が成長するに従い、安積親王を皇太子にというような雰囲気が醸成されてきたのであろう。
そのような中で、あくまで藤原氏に係わる皇統の維持を図ろうということであったのであろうか。

天平10(738)年
正月十三日 阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を立てて皇太子とした。

過去に女性が立太子した例はなく、強引な決断である。
当時は、皇族・貴族の娘は、10代半ばで結婚するのが普通だったが、阿倍内親王は嫁がずにいた。
皇位継承のための手段確保のために、独身でいたということらしい。
もちろん、時代は異なるが、阿倍内親王も皇統をめぐる争いの被害者というべきかも知れない。

藤原氏は、四子の次の世代に移っていた。
既に宇合の長男・広嗣は、九州で反乱を起こして故人となっていた。
武智麻呂の次男の仲麻呂は、阿倍内親王に取り入ることを試み、房前の子の八束は、安積親王を囲むメンバーの1人として宴の場を持っていた。
安積親王を囲むメンバーには、藤原八束以外に、大伴家持、市原王などがいた。
家持が藤原八束の家の宴で安積親王を詠んだ「ひさかたの雨……」の次の歌である。

  十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、安倍虫麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首 作者審かならず
わが屋戸の君松の樹にふる雪の行きにはゆかじ待ちにし待たむ  (6-1041)

  同じき月十一日、活道岡に登り、一株の松の下に集ひて飲せる歌二首
一つ松幾代か歴ぬる吹く風の聲の清きは年深みかも  (6-1042)
  右の一首は、市原王の作なり。
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶこころは長くとぞ思ふ  (6-1043)
  右の一首は大伴宿禰家持の作なり。

  寧楽京の荒れたる墟を傷みて作れる歌三首 作者審かならず
くれなゐに深く染みにし情(ココロ)かも寧楽(ナラ)の京師(ミヤコ)に年の歴(ヘ)ぬべき  (6-1044)
世間(ヨノナカ)を常無きものと今ぞ知る平城(ナラ)の京師の移ろふ見れば  (6-1045)
石綱のまた変若(ヲ)ちかへりあをによし奈良の都をまた見なむかも  (6-1046)

恭仁京か難波京かと諮問されているうちに、人々の去った平城のまちは次第に荒れていったということだろう。
そういう中で、安積親王が脚の病気ということで難波行幸から恭仁京へ戻り、2日後に亡くなった。
天平16(744)年の閏正月のことであるから、上記の正月に詠まれた歌の1か月後ということになる。

活道岡というのは、『万葉集』巻3に治められている家持の安積親王に対する挽歌に、「皇子の尊のありがよひ見しし活道の路」という表現があり、安積親王の住んでいた場所である。
市原王は生没年不詳であるが、天智天皇の五世の孫だと言われる。父の安貴王には、志貴皇子の曾孫説と川島皇子の曾孫説とがある。
市原王の歌からしても、家持の歌も安積親王の長寿を願ったものに違いないはずである。

しかし、「たまきはる命は知らず」という表現が、正月の歌というには不似合いだという印象も受ける。
この歌の解釈には諸説があるらしいが、「たまきはる命」が、松の寿命のことだと解すれば、暗いとか不吉という印象はない、という説に取りあえずは従いたい。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~machino/yakamochi/shirazu/ikujioka.htm

ところで、安積親王の死には、恭仁京に留守で残っていた仲麻呂が関与しているのではないか、という説が有力である。
大浜厳比古『万葉幻視考』集英社(7802)は、次のように記す。

ところでこの安積親王の死は、いまもって黒い霧に包まれている。
この黒い霧を、明らかに暗殺だとするのが横田健一氏の見解である。わたくしもそれに従う。

「たまきはる命は知らず」の歌は、1か月前の時点で、家持がそういう情勢を感じ取っていた(予感していた)ことを示しているとも解釈できるが、大浜氏は上掲書で、この時点では、次のように解すべきではないか、としている。

皇統から疎外された天智の裔のひとり子の市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子家持との、夢多い招福の賀歌であったと見るべきで、彼等のとっての招福は、彼等の夢をかける安積の即位であったのだから、ここでの二人のタマフリの賀歌は、それぞれ自らへのタマフリ歌であると共に、安積皇子へのタマフリ正月賀歌であったはずである。「一つ松」に一途に安積の即位を待つ意がこめられ、「松が枝」を結んで長寿を祈る心は、安積の無事長命と即位を待つ期待とをあわせてこめたものであったであろう。

ここでの歌の配列およびその意味理解は、家持が『万葉集』の編纂に関与していることからして、『万葉集』全体の性格理解にも係わるものと考えるべきであろう。

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