藤原広嗣の乱
橘諸兄の体制で政局が安定を見せる中で、聖武天皇は、天平9(737)年に打ち出しながら、天然痘の流行で中断していた国分寺造建事業の再開に意欲を示した。
天然痘の猛威を体験して、仏の加護を求める気持ちが一層強まったことが背景にある。
国分寺創建の思想は、「国泰(ヤスラ)かに人楽しみ、災除き福に至る」というものである(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
そのために、貧困にあえいでいる民を酷使する、という矛盾に聖武は無頓着だった。
このような政治のあり方に体制の中でも批判的な空気が生まれてきた。
藤原宇合の嫡男広嗣はその急先鋒だった。
従五位で、式部少輔に任官し、天平10(738)年4月から大養徳(ヤマト)守を兼ねていたが、12月に、大宰少弐を任ぜられた。
都にあって、親族の藤原豊成を誹る言動が多かったため、遠方に移したのだといわれる。
豊成は武智麻呂の嫡男であるから、広嗣の従兄にあたり、きわめて温厚な人物だったといわれる。
広嗣は、藤原氏の代表者としての豊成に、温厚すぎるという感情を持っていたのだと思われる。
大宰府にあった広嗣が、天平12(740)年の8月末に、時の政権のあり方を批判する上表文を朝廷に呈示する。
上表とは、天皇に対する意見書である。
大宰の帥は欠員で、大弐の高橋安麻呂は右大弁を兼ねて都にいたから、広嗣は少弐でありながら大宰府の現地での最高責任者の立場にあった。
上表文には、「時政の得失を指し、天地の災異を陳ぶ。因りて僧正玄昉法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備を除くを以て言とす」とあり、天地災異のもとが玄昉と真備の政治関与にあるから、この2人を政権から外すべし、とするものであった。
広嗣は、大宰府の機構を動かして挙兵した。
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903)は、災異と祥瑞はセットであり、統治者の徳が満ちていれば祥瑞が現れ、徳に欠ければ危険信号として災異が起こる、というのが当時の考え方であったとする。
つまり、災異の頻発は、天皇の人格・資質に対する天の警告ということになる。
広嗣が災異について触れたことは、聖武天皇の統治者としての資格を問題にした、ということに等しい。
ところで、天平12(740)年と前年には、災異という言葉に値する大きな自然災害は発生していない。
このことから、広嗣のいう災異は、天平9(737)年をピークに大流行した天然痘のことを指していると考えられている。
広嗣の父の宇合を含む藤原四子を潰滅させたのだから、藤原氏にとってはまさに災異というべきものであった。
この広嗣の主張を言い換えると、聖武天皇の人格・資質に問題があったので、天が警告として天然痘を災異として顕現させた、ということになる。
しかも、聖武天皇は、藤原一族に代えて、玄昉や真備などの新参者を重用している。
広嗣追討軍が大宰府管内に撒いた勅符には、「広嗣が親族の悪口を言い、和を乱すような振る舞いに及んだ」というようなことが書かれている。
この親族は、上記のように豊成を指すというのが定説であるが、遠山氏は、上掲書の中で、親族には聖武天皇も含まれるのではないか、としている。
聖武天皇は、父宇合の異母妹の光明子の夫であるから、親族という中に含まれるともいえる。
広嗣の上表は、実質は聖武を批判するものではあっても、玄昉と真備の2人を対象にしたものであって、聖武の退位を要求するようなものではなかった。
これに対し、聖武の反応は素早かった。上表文の届いた9月3日には、広嗣の行動を謀反と認定し、追討軍の編成を命じた。
同日、従四位上の東人を大将軍に、従五位上の紀朝臣飯麻呂を副将軍に任命する人事が発令された。
追討軍と広嗣軍は、10月9日、板櫃川で会戦し、追討軍は広嗣軍の主力を破った。
板櫃河から退却した広嗣は、値嘉嶋(五島列島)から耽羅(済州島)に逃れようとしたが、強風に弄ばれ、値嘉嶋に吹き戻されたところを逮捕された。10月23日のことであった。
広嗣捕捉の報が聖武のもとに届いたのが11月3日、直ちに処決の命が下された。
その命が届く前の11月1日には、広嗣は弟の綱手と共に処刑されていたのだった。
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