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2008年6月 4日 (水)

「君が代」挽歌説

全く驚くようなこともあるものだと思う。
「賀」や「寿」という字のイメージに繋がる「君が代」が、実は挽歌だったという。
室伏志畔『方法としての吉本隆明 大和から疑え』響文社(0805)に紹介されている藤田友治氏の説である。
吉本隆明といえば、今では「吉本ばななの父」と紹介されたりすることもあるらしいが、私の学生時代には大きな影響力を持っていた。今でも、「戦後思想を代表する」というような形容句はよく使われている。
私の体験的には、詩、文芸時評、追悼文などは心に響いてくるものがあったが、『言語にとって美とはなにか』とか『共同幻想論』などの、いわゆる主著と呼ばれている著作については、原理志向が強すぎて、結果として難解であり、影響を受けるという感覚にはならなかった。

しかし、「方法としての吉本隆明」というタイトルには惹かれるものがある。特に、著者が、異端の史学ともいうべき古田武彦氏の系統の中で、さらに異端を自負する室伏氏であれば、である。
室伏氏の方法論は、自ら幻想史学と名づけている「幻視」を中心とするものであり、必ずしも普遍性を持たないと思われる。異端とならざるを得ない性格のものといえるだろう(08年4月25日の項)。
「幻視」については、阿川弘之さんの『雲の墓標』新潮文庫(5807)のモデルでもある大浜厳比古さんの『万葉幻視考』集英社(7801)が、まさに「幻視」を方法とするものであり、改めて対象にしたいと思っている。
室伏氏が紹介しているのは、藤田友治『「君が代」の起源―「君が代」の本歌は挽歌だった』明石書店(0501)である。

昭和19(1944)年生まれの私たちの世代は、「戦争を体験した」とは言い難い。
戦争中に生まれはしたものの、戦争の間はまったく無自覚であり、もの心ついたのは、戦争復興が本格化した頃からのことである。
だから、「君が代」を歌ったり聞いたりする機会も、学校の入学式や卒業式などの儀式、あるいは大相撲やオリンピックやワールドカップなどの場合が殆んどである。

従って、「君が代」について、斉唱を強制するようなものか、という思いはあったものの、その由来や起源などについての関心は、正直なところ殆んどなかった。
「君」は天皇もしくはオオキミのことであり、その御代が、「千代に八千代に」つまり末永く繁栄することを祈願したものだ、というふうに理解してきた。
「さざれ石の厳となりて」などというのは、まあ何となく悠久の時間のことを言っているのだろうという感じはしたが、余り深く考えてみたことはなかった。

だから、古田武彦氏らが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』であって、現在の天皇家とは無関係だ、ということを、動かし難いと思われるエビデンス(地名・神社名・祭神名等)をもって示したことで、先ず驚いたのだ。
藤田氏も、古田史学の中心的な推進者の1人だった(05年8月に亡くなられている)。
藤田説の大要は、以下の通りである。
①「君が代」の歌は、賀の歌よりも挽歌の先の天智天皇臨終の歌に近い。
②『万葉集』では、「巌」の語は、死と墓場を意味している。
③「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は、挽歌のテーマである死と再生(転生)が歌いこまれている。
④『梁塵秘抄』は、「君が代」を、「塵も積もれば山となる」の諺と結びつけ、霊魂が蓬莱山に積もる死後の世界ととらえている。
⑤「君が代」は、『万葉集』に収められている次の歌の本歌取りの可能性が高い。

妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に苔生すまでに  河辺宮人(カハヘノミヤヒト)
(小さな松が大きく成長して、そこに苔が生えるまで、貴女の名前は永遠に語り継がれるでしょう)

つまり、水死した乙女のための鎮魂歌である。この歌には、「姫島で若い女性の水死体を発見した作者は、その女性を哀れんで詠んだ歌」という前書きがついている。つまり、この歌は、「賀歌」ではなくて、「挽歌」だった。
現時点では、「君が代=挽歌説」は、一般に受け入れられているとは言えない。
まあ、本歌が挽歌であったとしても、一般の理解が賀歌であれば問題ないのかも知れないが、卒業式などで強制して歌わせることは、如何なものだろう。
通達で強制する前に、「君が代」の起源や来歴について、もっとオープンな議論が必要なように思う。

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