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2008年6月19日 (木)

長屋王邸

2_7長屋王の邸宅跡が、1986年から発掘され、大量の木簡が出土した(写真は、栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109)。
木簡は、邸宅内の各役職の間で交わされていた伝票や書類、荷札などである(上野誠『万葉びとの生活空間―歌・庭園・くらし』はなわ書房(0011))。
長屋王が急襲されて、一気に機能が停止したことが、おびただしい木簡を残すことになった。
これらの木簡は、長屋王邸の規模や日常生活などを推察するための貴重な史料である。

長屋王邸の推定復元図を示す(千田稔『平城京遷都―女帝・皇后と「ヤマトの時代」』中公新書(0803))。
奈良国立文化財研究所は、1999年に、長屋王邸の西南隅に、帯状の蛇行する石敷きの遺構を発見し、それを「曲池」の跡と発表した。
『懐風藻』に収載されている田中朝臣浄足の漢詩に以下の2ようなものがある(上野:上掲書)。

五言。場集長王が宅にして宴す。一首。
苒々秋云に暮れ、
飄々葉已に涼し。
西園曲席を開き、
東閣珪璋を引く。
水底に遊鱗戯れ、
厳前に菊氣芳し。
君候客を愛づる日、
霞色鸞觴に泛かぶ。

この詩の「西園」が、長屋王邸の西に位置した庭園で、そこに池があって宴を催していたことが実証されたことになる。
長屋王邸には、藤原宇合や山田三方などの当代一流の文人たちが集い、文雅のサロンを形成していた。
この詩苑のメンバーでもあった藤原宇合が、長屋王の変においては、長屋王邸を包囲する役割を担っているのであり、虚々実々のサロンだったのであろう。

ところで、『懐風藻』収載の漢詩の題詞には、「長王宅」「作宝楼」「宝宅」という表現が出てくる(上野:上掲書)。
長王は長屋王のことであり、作宝楼は、佐保にある高殿の意である。
佐保は、奈良市北部の法蓮町・法華寺町あたりであり、奈良盆地の北辺ということになる。

この「長王宅」と「作宝楼」とは同一の宅なのか、別々の宅なのか。
長屋王邸跡の発掘を担当した寺崎保広氏は、木簡に記された内容等を分析して以下のように結論づけている(上野:上掲書)。
①左京三条二坊一・二・七・八坪の発掘地は和銅三年の遷都以来の長屋王宅であり、この地は佐保宅ではない。
②長屋王が大臣となる養老末年ないし神亀初年頃に、佐保宅が新たに造営された、と推定できる。
③その地は、以前から「佐保御薗」とも称すべき所領として、長屋王家が所有していた場所である。

庭園として整備された佐保の宅は、政権の首班としての長屋王が、政治家・文人・外国の賓客などを迎えるゲストハウスとして機能していたと推測される。
佐保の地は、大伴家の佐保宅があった場所であり、『万葉集』にとっても重要な舞台の1つである。

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