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2008年6月 3日 (火)

「君が代」と九州王朝

「君が代」は、『古今和歌集』の詠み人知らずから採られた、というのが一般的な説明であり、理解である。
これに対し、古田武彦氏らの「九州王朝」論者は、博多地方の地名等から「君が代」が筑紫の地に因む歌であることを論証し、『「君が代」は九州王朝の讃歌』新泉社(9007)として纏めている。
その論拠を、古田武彦『古代史の未来』明石書店(9802)から抜粋してみよう。

「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、つまり博多湾岸とその周辺の地名・神社名・祭神名から成り立っている。
A 「千代」…福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」…前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」…前原市井原(いわら遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」…苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

「いわほ」は岩穂。つまり、岩が語幹で、穂(あるいは秀)は接尾語であり、「いわら」は「岩羅」である。「羅」も接尾語で、早良は沢羅、磯良は磯羅で、「そら」「うら」「むら」など、「ら」は古代日本語の原型のひとつだという。

もし、例えば、上記の「B」だけだとしたら、偶然の一致ということもあり得るだろう。しかし、A~Dがセットで一致することは、もはや偶然とは言えないだろう。
さらに、志賀海神社(福岡市)の「山ほめ祭」では、「君が代」が、「地歌」「風俗歌」として、禰宜によって以下のような台詞が語られるという。

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 厳となりて 苔のむすまで
……
あれはや あれこそはわが君のめしのみふねや
……
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に
……
今宵夜半につき給う御船こそ たが御船になりにける
あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ

わが君は、対岸の「千代」(博多湾岸)から、こちら(志賀島)へ渡ってこられる、という設定である。
この台詞は、祭の神事の最後に船上を想定した筵敷の場で櫂を持って行われるものだという。
志賀海神社は、福岡市東区志賀島の南側に位置する神社で、龍の都とも呼ばれ、伊邪那岐命の禊祓によって出生した「底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)」「仲津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)」「表津綿津見神(ウハツワタツミノカミ)」の三柱(綿津見三神)を祀っている。
全国の綿津見神社の総本宮である。

「三種の神器」の分布する博多湾岸の伝統行事に「君が代」の歌詞があったということで、その歌詞の中に、この地域の地名や神社名や祭神名などが入っているのは、偶然ではない。
安曇の君とは、九州王朝の君主のことであり、「君が代」は、大和朝廷に先行する九州王朝の歌であったことを示している、と古田氏は結論づける。
『古今和歌集』を編纂した紀貫之は、そのことを知っていたので、題知らず、詠み人しらずとして収録したのではないか、という。

そして、この歌に読み込まれているのが金属材料ではない、岩等であり、さざれ石が岩に成長する様子が、わが君の永遠をお願いすることを示しているという。
石を神とするのは縄文時代の信仰だから、縄文に遡るものだろうと推測する。
「君が代」批判の一種に、小さな石が大きくなるというのが非科学的だ、というものがあるらしい。
普通の自然現象は、厳が崩壊してさざれ石になるというものだろう。いわゆるエントロピー増大の法則である。

しかし、この部分は、一種の比喩ではないか、という理解があるという。
あたかも、小さな石が大きな岩に成長するが如きの長い長い間、 ということを示している、のだとする解釈である。
ところが、実際に小さな石が大きな岩になるという説もある。
「さざれ石」とは、小さな石のスキマが炭酸カルシウムなどによって埋められ、大きな石の塊に変化したものだという。このような意味でのさざれ石は、結構多くの場所にあるらしい。
http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_021.htm

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邪馬台国は熊本に在った

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投稿: wajin | 2011年2月 3日 (木) 23時29分

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