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2008年6月29日 (日)

彷徨五年と平城還都

恭仁京は、山容は変化に富み、泉川の清流にも恵まれた景勝の地だった。

  十五年癸未八月十六日、内舎人大伴宿禰家持、久邇京を讃めて作れる歌一首
今つくる久邇の王都(ミヤコ)は山河のさやけき見ればうべ知らすらし  (6-1037)

しかし平地に乏しく、都城の全体計画は停滞しがちだった(写真は、栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109/宮は北側の緩傾斜地に設けられた)。
2_2天平15(743)年10月に、紫香楽宮で廬舎那仏造顕の詔が出され、甲賀寺の寺地が開かれると、恭仁京造営の熱意が失われ、年末には、「造都の工事は用度の費すところに堪へられず」ということで、造都工事は中止になってしまう。
この背景には、恭仁京造都推進者の橘諸兄に対立する藤原仲麻呂の建策があったものと推測される。

これに対し、諸兄も拱手傍観していたわけではない。
天平16(744)年閏正月、百官が朝堂に召集され、恭仁京と難波京のいずれを都とすべきか諮問された。
恭仁京の造都が中止されているということを考えれば、難波京への遷都を前提とした問いであった。
諸兄は、聖武天皇が、難波京へ遷都したいと考えていることを踏まえ、難波遷都に際して主導権を確保すべく、このような問いかけをしたものと思われる。

結果は?
恭仁京:五位以上24名、六位以下157名
難波京:五位以上23名、六位以下130名
僅差ではあるが、恭仁京の方が多数だった。

にもかかわらず、聖武は難波へ行幸した。
2月には、恭仁京にあった鈴印や内外の印、高御座、大楯、武器などが難波に移され、実質的な遷都が開始されるという事態になった。
この天平16年閏正月の難波行幸のとき、恭仁京の留守役は仲麻呂だった。
聖武が恭仁京を発った当日、突然に安積親王が脚の病により、恭仁京に戻ってきた。
安積親王は、聖武と県犬養広刀自の間にできた、聖武にとっては唯一の皇子である。
光明皇后の生んだ基(某)皇子が満1歳で早逝した年に生まれ、この年には17歳になっていた。
安積親王は、恭仁へ戻って2日目に薨じてしまった。

仲麻呂は恭仁の留守を解任されたが、諸兄の難波京遷都計画を潰すため、聖武の気持ちを大仏造顕に集中させるべく、紫香楽行幸を建策する。
諸兄は難波に残った。
聖武が紫香楽に出発した2日後、難波を皇都とすることが宣言されている。
この勅は、聖武によるものなのか、難波に残っていた元正太上天皇のものなのか?
おそらくは、聖武が光明や藤原氏に取り込まれてしまうことを危惧した元正太上天皇が、難波遷都によって、聖武を光明や藤原氏から切り離そうとしたのではないか。

聖武の紫香楽滞在は5か月に及び、11月には廬舎那仏の体骨柱が完成し、翌天平17(745)年正月には、紫香楽が新京とされた。
しかし、4月になると、紫香楽宮周辺で連日のように火災が発生する。
諸兄の指示があったかどうかは別として、紫香楽遷都に反対する勢力が放火したものと考えられる。
仲麻呂は、この事態を利用して、平城還都を企てる。

5月に、再びどこを京とすべきかが諮問される。
平城が圧倒的だった。
聖武は平城に戻った。
天平12年10月に東国行幸に出てから4年半の彷徨だった。
平城還都は、諸兄に対する仲麻呂の勝利を意味していた。

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