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2008年6月28日 (土)

紫香楽離宮

天平13(741)年の正月、恭仁宮はまだ未完成だったので、朝賀は帷帳をめぐらした中で行われた。
恭仁京への遷都が、未完成の状態で、言い換えればいかに慌ただしく行われたかを示すものだろう。
閏3月15日、五位以上の者は平城京に居住してはならず、恭仁京へ移住すべきことが命じられた。
7月10日、元正太上天皇が、居所を恭仁宮に移した。
8月28日、平城京の東西二市を恭仁京に移した。
9月9日、恭仁宮造作のために、大養徳・河内・摂津・山背から役夫5500人が徴発された。
11月21日、恭仁宮の正式名称が、大養徳恭仁大宮(ヤマトクニノオオミヤ)と定められた。

しかし、天平14(742)年の正月になっても、大極殿は未完成で、聖武は四阿殿(アズマヤドノ)で朝賀を受けた。
22月、恭仁京から近江国甲賀までの路が開削され、紫香楽に離宮が造営された(写真は紫香楽宮跡/栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
8月になって、聖武は最初の行幸を行い、12月にも行幸した。
紫香楽に離宮を設けたのは、廬舎那仏の造顕のためであったが、2回の行幸を行っても、聖武は具体的な意思表示をしていない。

聖武天皇と政務の執行責任者に橘諸兄の思惑は、どう交錯していたのだろうか?
この間の事情はいささか分かりづらいが、中川収『奈良朝政争史』教育社(7903)は、以下のように整理している。
聖武が廬舎那仏造顕を発想したのは、天平12(740)年に河内郡大県郡の知識寺を礼拝して以来のことだった。
広嗣の乱で一時的に中断せざるを得なかったが、乱の終了と共に造顕への思いが具体化した。
しかし、政治の責任を担う橘諸兄にとっては、廬舎那仏の造顕は困惑の対象だった。

諸兄は、藤原氏の平城京から訣別すべく、恭仁京の造営に注力していた。
恭仁のある相楽には諸兄の別邸があったから、聖武に恭仁京遷都を決意させたのは諸兄であったはずで、諸兄は、広嗣の乱を機に、藤原氏と係わりの深い平城京を放棄する建議を行ったものと推測される。
その恭仁京が未だ造営途上であったし、天平13(741)年3月24日には、各国ごとに国分寺・国分尼寺を創建するよう詔が出ていた。
これに大仏造顕事業が加わるとなると、財政的な事情も含め、すべてが頓挫してしまう可能性がある。
諸兄は、消極的にならざるを得なかったのではないか。

広嗣の乱の後、光明皇后は、一族の不始末というような捉え方であったのだろうが、父不比等の賜った5000戸の封戸の返上を申し出た。
聖武は2000戸を改めて藤原氏に与え、3000戸を国分寺に安置する六尺の釈迦牟尼仏を造る原資とすることにした。
国を混乱させた藤原氏が償いの意味で、聖武の願う国分寺の建立に協力したということになる。
この頃、光明皇后は、藤原氏の権勢再興を、温厚な藤原豊成ではなく、弟の仲麻呂に託そうと考えた。

橘諸兄が大仏造顕に消極的なのを、仲麻呂は、聖武との結びつきを強める機会として捉え、積極的に推進する側に立った。
藤原氏の贖罪意識のある光明皇后も積極推進派だったことは言うまでもない。

天平15(743)年4月に紫香楽宮への3回目の行幸が行われた。
仲麻呂が参加し、諸兄が留守にまわった。
5月に、仲麻呂は従四位に昇進し、参議に就任して議政に加わった。
その直後に、「墾田永代私財法」を建議した。
これは、公地公民という律令体制の根幹をくつがえすものである。
利益を受けるのは貴族と地方豪族であり、貴族の協力を得ることにより政治的な面での基盤を固め、地方豪族を利用して経済的な基盤を固めつつ、聖武の熱願する大仏造顕事業に係わろうというのが仲麻呂の意図だった。

つまり橘諸兄の消極意見を否定するものだった。
これを受けて、財政的なバックグラウンドも整ったということで、廬舎那仏造顕の詔が発せられた。
このような経緯を通じて聖武の心は仲麻呂に大きく傾いていったものと思われる。
しかし、建議者は仲麻呂であっても、事業の遂行責任者は諸兄である。
諸兄と仲麻呂の対立は峻烈なものにならざるを得なかった。

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