長屋王のシンパたち
長屋王が「左道を学んで国家を傾けようとしている」という密告があったとして、もちろん左道についての理解にもよるが、それが直接的に国家を傾けることになるとは、当時ですら誰も思わなかったであろう。
長屋王は最高執行官である。現代でいえば、内閣総理大臣か?
当然、長屋王は、根も葉もないこととして、密告の内容を否認したと想像される。
長屋王の任官と叙位の閲歴をみてみよう(上野誠『万葉びとの生活空間―歌・庭園・くらし』はなわ書房(0011))。
704(慶雲元)年:無位から、正四位上に叙位
709(和銅2)年:宮内卿となり、従三位に叙位
710(和銅3)年:式部卿となる
716(霊亀2)年:正三位に叙位
718(養老2)年:大納言となる
720(養老4)年:藤原不比等が薨じ、大納言として実質的に政府のトップになる
721(養老5)年:右大臣となり、従二位に叙位
724(神亀元)年:左大臣となり、正二位に叙位
神亀元年というのは、聖武天皇の即位の年である。
その年に、長屋王は、新生・聖武政権の首班となった。
その長屋王に悲劇が突然にやってきたのだった。妻の吉備内親王、子どもの膳夫王らの諸王子も共に死んだ。
『万葉集』に、次の歌がある(佐々木信綱『新訂 新訓・万葉集〈上〉』岩波文庫(2709))。
神亀六年己巳、左大臣長屋王の賜死し後、倉橋部女王の作れる歌一首
大君の命恐(ミコトカシコ)み大あらきの時にはあらねど雲がくります (巻3-441)膳部王を悲傷ぶる歌一首
世間(ヨノナカ)は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕けしける (巻3-442)
右の一首は、作者はいまだ詳らかならず。
倉橋部女王については、詳しいことは分からないらしい。しかし、「あらき」というのは殯のことで、それに「大」を冠しているのは、天皇に準じた表現になる。
大君=天皇の命により、それを作るべき時ではないが……、という感懐は如何なる心情を表現しようとしたのか?
442番では、世の無常は人力を超えたものであり、何とかその無常を受け入れることにしよう、というような気持ちが窺われる。
長屋王一族への愛惜の心の表現だと思われるが、納得し難い気持ちが残っているということだろう。作者未詳ということだが、敢えて名前を伏せたという可能性もあるのではなかろうか。
『続日本紀』の天平十年に次のような記載がある。
七月十日 左兵庫少属・従八位の大伴宿禰子虫が右兵庫頭・外従五位下の中臣宮処連東人を刀で斬り殺した。子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る好遇を受けていた。たまたまこの時、東人と隣合わせの寮の役に任じられていた。政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立てて東人を罵り、遂に刀を抜いてこれを斬り殺してしまった。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である(天平元年二月十日の項)。
子虫は、長屋王の事件が、東人らの誣告だったことを知り、長屋王が無実の罪で死んだことを知って、東人を斬殺したということだが、『続日本紀』という正史自体が、「事実を偽って告発した人物」と書いているのだから、長屋王が無実だったことは、多くの人が感じていたのだと思われる。
天平10年というのは、長屋王が死んでから9年後のことである。
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