聖武天皇の継嗣問題
聖武天皇に、皇子が誕生する。
神亀四年
閏九月二十九日、皇子が誕生した(母は光明子)。十月五日 天皇が中宮に出御し、皇子誕生を祝って、大辟の罪(死罪)以下の罪を免じた。また百官の人らに物を賜わり、さらに皇子と同日に生まれた者すべてに、麻布一端・真綿二屯・稲二十束を賜わった。
十月六日、親王以下、左右の大舎人・兵衛・授刀舎人・中宮舎人・雑工舎人・太政官家の資人・女孺(ニョジュ:下級の女官)に至るまで、身分に応じて物を賜った。十一月二日、天皇は中宮に出御された。太政官と八省は書状を進めて皇子の誕生を祝賀し、あわせて皇子のために玩具を献じた。この日、文武百官から使部(宮司の雑務に服する下僚)に至るまで、朝堂院において宴を賜わった。五位以上の者には身分に応じて真綿を賜わった。代々の名家の嫡子で五位以上の位を帯びる者には、別に絁十疋を加増した。
……
天皇は次のように詔した。
朕は神祇の助けにより、また宗廟の霊のおかげを蒙って、久しく皇位の神器をお守りしており、新たに皇子の誕生にめぐまれた。この皇子を皇太子に立てることとする。このことを百官に布告して、すべての者に知らせよ。
皇子はまだ生後1ヶ月だった。つまり、皇太子には摂政的な意味合いは全く失われ、皇嗣としての意味だけとなった。
聖武天皇は、自分の体験を顧みて、皇嗣をめぐる争いを未然に防ぐための最も有効な方法を選択しようと考えたのであろう。
そこには、長屋王の即位の可能性を防ごうとする藤原氏の意向も反映していた可能性もある。
聖武天皇の皇太子・基皇子は、夫人の実家すなわち不比等の邸宅で養育されていた。
基皇子は病弱であった。
神亀五年
八月二十一日、次のように勅した。
皇太子の病が日を重ねても癒らない。三宝(仏法僧)の威力に頼らなければ、どうして病気をのがれることができようか。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体をつくり、あわせて観音経百七十七部を写し、仏像を礼拝して経典を転読して、一日行道(ギョウドウ:経をとなえながら仏像や仏殿のまわりをめぐる行)を行ないたいと思う。この功徳によって皇太子の健康の恢復を期待したい。
ところが、「九月十三日、皇太子が薨じ」てしまう。
さらに藤原氏を困惑させたのは、聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が皇子を出生したことである。
安積親王である。
藤原四兄弟は、安積親王の立太子を阻止すべく、対応策を協議したであろう。
生母の犬養広刀自は、藤原四兄弟にとっては継母にあたる犬養三千代の一族であるから、厄介である。
そこで考えられたのが、夫人の安宿媛を聖武天皇の皇后に立てられないか、ということであった。
安宿媛は、また皇子を出産する可能性もある。
広刀自と差別化しておくことが必要だし、たとえ皇子が生まれなくても、皇后になっていれば、即位の可能性も生まれてくる。
問題は、夫人の立后が可能かどうか、ということである。
皇后として立った者は、今まですべて皇女だった。
令制においても、妃は四品以上として皇女に限定していた。この規定を破ることは、宮子を大夫人と称することに比べられないほどの大問題である。
長屋王が承知するはずのない問題であった。
藤原四兄弟の謀議は、必死だったであろう。
天平元年(七二九)
二月十日 左京の住人である従七位下の漆部造君足と、無位の中臣宮処連東人らが「左大臣・正二位の長屋王は秘に左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。
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