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2008年6月25日 (水)

橘諸兄の立場

橘諸兄(684~757)は、敏達天皇の末裔の美努王と県犬養三千代の間の子である。
4_2美努王については謎の部分があるが、壬申の乱の際、近江朝側の協力要請を断った経緯が知られている(08年5月20日の項6月5日の項)。

犬養三千代が、美努王と別れて藤原不比等と結ばれたことから、諸兄は光明子と同母異父の姉弟という立場になった。
以下は、『続日本紀』の天平11年11月11日の葛城王らの上奏文の中の言葉である。

時に葛城王らの母親である贈従一位の県犬養橘宿禰(三千代)は、上は浄御原朝廷(天武朝)から、下は藤原大宮(持統・文武。元明)に及ぶまで、身命を尽くして天皇にお仕えし、親に孝を尽くすのと同じ気持ちで、天皇に忠を尽くしてきました。朝早くから夜おそくまで労苦を忘れ、代々の天皇に力を尽くしてお仕えしてまいりました。
和銅元年十一月二十一日には、国を挙げての大嘗祭にお仕え申し上げ、二十五日に豊明節会の御宴において、天皇より忠誠の深さをお誉め頂き、酒杯に浮かべた橘を賜わりました。その時天皇は仰せられました。「橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は霜雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にあっても凋まない。光沢は珠玉とも競うほどである。金や銀に交じりあっても、それに劣らず美しい。このような橘にちなんで汝の姓として橘宿禰を与えよう」と。ところが今、橘の姓を継ぐものがばければ、恐らく有難い詔の意図を失うことになりましょう。伏して考えますのに、皇帝陛下が天下に徳を及ぼされ、その徳は……

つまり、和銅元年に三千代が橘姓を賜り、それを葛城王が引き継いで、橘諸兄となった。
諸兄は藤原四子政権の時代に参議になったが、四子が相次いで死んでしまったため、廟堂のトップの位置に座ることになった。
諸兄は、聖武天皇の意向を具現化することに努める。

聖武の意向に大きな影響を与えていたのが、唐から帰った玄昉と吉備真備である。
諸兄は、彼らをスタッフとして政権を運営する。
真備は、学才に優れ、帰朝のおり多数の漢籍・要物を将来したとされる。
玄昉も、経綸五千余卷と諸仏像をもたらしたという。

彼らの昇進には、学問的な実績と共に、参議多治比広成との関係が大きかったとされる。
広成は、彼らが帰朝したときの大使であった。玄昉の僧正昇進は、広成が参議に就任した直後であった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
真備は、その玄昉を、病臥にあった皇太夫人・藤原宮子の看護に就かせ、験をあらわして後宮と結び付いていった。
聖武も、先進国唐の制度・文物に通じた彼らを重用した。

諸兄は、天平15年に左大臣に任命されるが、その頃から藤原仲麻呂との確執が生じる。
天平勝宝7(755)年11月、聖武太上天皇が病床に伏しているときに、諸兄の祗承の人・佐味宮守が「諸兄に謀反の心あり」と訴え出る。
翌年、諸兄は自ら身を引き左大臣の位を返上した。
仲麻呂の策謀であることは間違いないと思われる。
諸兄は復活することなく、天平宝字元(757)年に薨じる。

仲麻呂は、諸兄の死後、諸兄の子の奈良麻呂に謀反の嫌疑をかけ、反藤原派の貴族たちを一掃する。

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