自然ダムの脅威
「岩手・宮城内陸地震」では、大規模な土砂の崩落が起きている様子が、メディアで報じられている(写真は産経新聞080616)。
そして、崩落した土砂が谷を埋め、水を堰き止める「自然ダム」ができていることが確認されている。
自然ダムでは、水位の調節機能がないから、時間が経過すると共に水位が上昇し、ある段階で崩落した土砂が水圧に堪えられなくなって決壊する可能性がある。
もし、そういう事態になれば、深刻な二次災害となる。
四川大地震でも、巨大な堰き止め湖ができたことが報じられた。
北川県付近の唐家山にある堰止め湖は、水深が40メートル以上になって、決壊が警戒され、下流域の住民24万人に避難勧告が出された。
その後、人工の排水路によって水位が低下し始め、決壊危険警報が解除されたようだ。
2003年の新潟県中越地震でも、旧山古志村地区で、自然ダムによる新湖が出現した。
継続した雨で決壊が心配されたため、やはり下流域の地区に避難勧告が出され、住民たちは一時的な避難生活を強いられた。
歴史的には、弘化4(1847)年の善光寺地震が多くの山崩れをもたらしたことが知られている。
以下はWIKIPEDIA(08年5月21日最終更新)からの引用である。
1847年5月8日(旧暦弘化4年3月24日)、信州(現長野県)の善光寺平を震源とし、直下型で発震、付近に多大の損害をもたらした地震である。地震規模を示すマグニチュードは推定で7.4。発生周期は、1,000年に一度とされている。この地震のために生じた小松原断層と善光寺断層は長野市西部に残っている、これら断層を総称し、長野盆地西縁断層とも呼ぶ。名前から受けるイメージで、善光寺周辺の狭い地域の地震として考えてしまいがちであるが、長野盆地全体から飯山に渡り大きな被害をもたらした。
……
地震とともに山崩れを生じたところも多く、松代藩領内で42,000ヶ所、松本藩領内では1,900ヶ所に及んだ。中でも犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)の崩壊は史上最も大きな地形変動となって恐るべき大被害をもたらした。まず、崩壊した土砂が50メートルもの高さをもつ巨大な堤防となって河川の流れを変え、ふもとの岩倉村・孫瀬村の両村に川水を招き入れ2村は完全に水没してしまった。下流においては押し流されてきた土砂が高さ30メートルにして面積50平方メートルという巨大な丘となって藤倉、古宿の2村に襲いかかり、間もなく地下に埋没させた。上流においては、流水量が減じたため平地部一面に深さ60メートル(諸説有る)、現在の明科付近まで達する巨大湖が現出し、数村が湖底に沈み十数ヶ村が浸水した。さらに地震から20日後の同年5月28日の夕方、今度は先述の巨大堤防が大崩壊をおこし、急流と化した水は川中島まで押し寄せ、31ヶ村に浸水被害をもたらした。
一昨年の夏に、曽遊の地というような思いで、若い頃テントを担いでキャンプした笹ヶ峰や戸隠高原を訪れた。
その際に、やはり善光寺にも詣らなければ、と考え、善光寺を訪問したのだが、その時には、善光寺そのものに対する関心が余りなく、聖徳太子と関連が深いとされていることなど、認識の外だった。
善光寺の由来等について、古代史の流れの中で把握し直してみたいと思う。
また、善光寺地震についても、聞いたことがある、という程度で、二次災害の大きさなどについては全く不案内だった。
幸いにして、江戸時代とは土木作業の機械化のレベルが全く異なっている。
自然ダムが増水しないうちに、排水路を設けて、二次災害の発生が未然に防げることを願う。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 暫時お休みします(2019.03.24)
- ココログの障害とその説明(2019.03.21)
- スキャンダラスな東京五輪/安部政権の命運(94)(2019.03.17)
- 野党は小異を捨てて大同団結すべし/安部政権の命運(84)(2019.03.05)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント