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2008年6月13日 (金)

藤原宮子の大夫人尊号事件

藤原不比等が、養老4(720)年8月に亡くなると、元正天皇は、舎人親王を「知太政官事」に、新田部親王を「知五衛及授刀舎人事」任じて、行政権と軍事権を分離して新体制の編成に臨んだ。
長屋王の処遇について、『続日本紀〈上〉』(宇治谷孟現代語訳:講談社学術文庫(9206))は、和銅7(714)年の条で次のように記す。

春正月三日、二品の長親王・舎人親王・新田部親王と、三品の志貴親王には封戸をそれぞれ二百戸、従三位の長屋王には百戸を増した。これらの封戸の租は、すべて封主に給される。食封の田租を全額封主に賜ることは、この時から始まった。

長屋王の邸宅跡から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土しているが、その解釈はともかく、長屋王が親王並みの扱いであったことが分かる。
この年の6月25日に、皇太子(聖武天皇)が元服する。
霊亀2(716)年春正月1日、従三位の長屋王は正三位に叙せられ、養老2(718)年には大納言に任じられる。
廟堂において、長屋王は不比等に次ぐ位置を占めるに至っていた。
したがって、不比等が没すると長屋王が中心になって体制が組まれた。
長屋王を首班とする新体制は、養老5(721)年正月に、長屋王が右大臣に任じられて成立した。

長屋王の政治は、儒教の政治理念にもとづく律令の運用であった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
長屋王は、『懐風藻』や『万葉集』に作品を残し、中央における文雅の中心的存在で、佐保の山荘は文人のサロンだった。
長屋王の志向した儒教政治は、被治者を愚民とみる貴族主義的独裁主義であった。文人長屋王は、儒教の教義を、支配階級が支配欲を満足させる手段として、政略的に濫用したと見ることができる(中川:上掲書)。
長屋王の独裁的傾向は、次第に人心を離反させていった。

首皇子が即位(聖武天皇)したのは、神亀元(724)年2月4日のことだった。
両眼の赤い白亀が養老7(723)年に献上されると、元正天皇はこれを祥瑞として改元すると共に、譲位した。
天武直系の皇位継承が守られたわけである。

二月六日、天皇は勅して正一位の藤原夫人(宮子)を尊び、大夫人と称することにした。

これに対し、長屋王は次のように対応した。

三月二十二日 左大臣・正二位の長屋王らが奏言した。
うやうやしく今年二月四日の勅を拝見しますと、藤原夫人を天下の人々はみな大夫人と称せとあります。しかし、私ども謹んで公式令を調べますと、皇太夫人と称することになっています。先頃の勅号に依ろうとすれば、皇の字を失うことになり、令の文を用いようとすれば、違勅となることを恐れます。いかに定めればよいかわかりませんので、伏してお指図を仰ぎたいと思います。
次のように説明があった。

文書に記す場合は皇太夫人とし、口頭では大御祖(オオミオヤ)とし、先勅での大夫人の号を撤回して、後の名号(皇太夫人と大御祖)を天下につうようさせよ。

宮子を大夫人と称することにする勅は、内臣に任じられていた藤原房前が中心となって発案されたものであるが、勅令取り消しという事態によって、房前の面目は丸つぶれとなった。
聖武天皇の即位に伴って、妃であった安宿媛は夫人に昇格したのであるから、聖武天皇の母を大夫人と呼ぶことは、必ずしも藤原氏の強引な押し付けとは言えない。
しかし、長屋王は、巧みに令の文言を用いて、藤原氏に揺さぶりをかけたということができる。
この尊号事件が、長屋王と藤原氏とが対立する直接の要因となった。

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