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2008年6月12日 (木)

長屋王

平城遷都から10年後の養老4(720)年8月1日、藤原不比等が病床に就く。
廟堂(政府・体制-大宝律令により整備された。大宝2(702)年に参議制度が創設される)の第一人者であったから、病気平癒のためのさまざまな努力が行なわれた。
しかし、その甲斐もなく、8月3日に不比等は63歳の生涯を終える。その権勢からすると、あっけない死であった。
不比等が没したとき、4人の息子の中で廟堂に入っていたのは、次男の房前(フササキ)が参議になっていただけであった。
嫡男の武智麻呂は正四位下東宮傅、三男の宇合は正五位上常陸守、四男の麻呂は、従五位に叙せられたばかりだった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。

不比等のあとをうけて政治を担当したのが長屋王である。
笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)の記述を見てみよう。

七二○(養老四)年、政界の中心人物であった右大臣藤原不比等が病死すると、翌年、皇族の長屋王が右大臣に任じられ、政治の実権を掌握した。王は高市皇子の子で、元明上皇の姉御名部皇女を母としており、上皇のあつい信頼をうけていた。王は、七二二(養老六)年に良田百万町の開墾計画を立て、翌七二三(養老七)年には三世一身法を施行するなど、律令制を維持するための思い切った土地政策を実施したが、七二一(養老五年)に元明上皇が没し、さらに七二四年(神亀元)年首皇子が即位して聖武天皇となると、故藤原不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の勢力が伸張し、王は次第に孤立した。

Photo_2長屋王については、1988年に、邸宅跡とされる場所から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土している。
「親王」という呼称は、「天皇の兄弟か、あるいは天皇の男の子」を指すから、長屋親王と墨書された木簡が出土している以上、長屋王の父親は、天皇だったというのが自然の推論である。
つまり、長屋王の父の高市皇子は天皇だったはずである(08年2月7日の項2月17日の項)。
ところが、史学会では、そういう考えが大勢になっていないらしい。

それはともかく、長屋王の父の高市皇子は、草壁皇子の没後、持統朝で太政大臣の任に就いていた。
太政大臣の職権は、皇太子の職権のバッティングする部分があった。壬申の乱も、大友皇子と大海人皇子のの職権の抵触が一因であったともいえる。
高市皇子のように、皇太子が没した直後に就任した場合には、皇太子のようにみられた。
また、高市皇子が没した後、軽皇子がすぐに立太子したことも、皇太子的地位にあったと推測される材料である。
高市皇子の太政大臣は、律令の太政官制が成立しようという段階で、聖徳太子以来の「皇太子摂政制」が、「皇族太政大臣制」と「皇太子皇嗣制」に分離する過渡期であった(中川:上掲書)。

長屋王が最初に叙位にあずかったのは、大宝選叙令に規定された皇親陰位制の最初の適用者として、規定よりも三階も上位の正四位上としてであった。
それは、皇太子的存在とみられていた高市皇子の嫡男としての処遇によるものとされる(中川:上掲書)。
もし、高市即位論(08年2月7日の項2月8日の項)が成立するとすれば、長屋王の別格扱いは当然ということになるだろう。
長屋王の最初の任官は、和銅2(709)年の宮内卿であり、廟堂は不比等が仕切っていた。
したがって、長屋王が、反不比等的な立場で政界へ登場したとは考えがたく、不比等によって取り込まれたとみる方が自然である。

長屋王の正室は、草壁皇子の皇女吉備内親王だったが、不比等の娘長娥子も嫁している。
ということも含めて、親不比等的色彩が濃かったと考えられる。それは不比等の深謀遠慮でもあっただろう。
文武が崩じたとき、首皇子はまだ立太子していなかったから、長屋王立太子さらには即位の可能性もあると考えられたのではなかろうか。
そこで、不比等は保険をかけたとも思われる。
不比等の動きは、皇親側も警戒するようになっていたであろうが、長屋王には緩衝役としての役割も期待されたのであろう。

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コメント

疑問点は何故長屋親王が長屋王とされたのかと、誰がいつそうする必要性が出たのかということですが、よろしくお願いします。

投稿: isiyama | 2013年8月14日 (水) 19時54分

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