« 藤原四子政権とその崩壊 | トップページ | 橘諸兄の立場 »

2008年6月24日 (火)

橘諸兄政権

藤原四子が、想定の範囲外ともいうべき形で死去すると、その後は、生き残った議政官を中心に政権再建が Photo 図られた。鈴鹿王、橘諸兄、大伴道足の3人である(図は、栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109)から引用)。
鈴鹿王は、高市皇子の子すなわち長屋王の弟である。天平元(729)年の「長屋王の変」の後も昇進を続け、天平3(731)年8月11日に参議に任ぜられていた。
藤原四子の子どもたちの中で、最年長は豊成(武智麻呂の長子)で、まだ33歳だった。参議にもなっていず、再建政権に入ることはできない状態だった。
つまり、藤原氏抜きで再建政権が組まれなければならかった。

天平9(737)年
八月二十八日 従三位の鈴鹿王を知太政官事に任じた。従三位の橘宿禰諸兄を大納言に、正四位上の多治比真人広成を中納言に任じた。広成と百済王南典にはそれぞれ従三位を授けた。従四位下の高安王に従四位上を、無位の諱(白壁王)<分注。光仁天皇である>と道祖(フナド)王んはそれぞれ従四位下を、無位の倉橋王・明石王・宇治王・神前王・久勢王・河内王・尾張王・古市王・大井王・安宿王にはそれぞれ従五位下を授けた。……

知太政官事は、形骸化したポジションになっており、大納言になった橘諸兄が実質的に再建政権を担う立場であった。
藤原氏は、豊成が参議になっただけだった。

天平10(738)年
正月十三日 阿倍内親王(後の孝謙・称徳帝)を立てて皇太子とした。
……
この日、大納言・従三位n橘宿禰諸兄に正三位を授け、右大臣に任じた。

2_3諸兄が右大臣に昇進した日に皇太子に立てられた阿倍内親王は、21歳だった。女性の皇太子の初めての例 である。聖武天皇と光明子の間に残る唯一の子どもである。
あくまで藤原系の皇族を後継にしようという聖武天皇の意思表示である。
聖武には広刀自との間に、安積親王がいた。ただ1人の皇子であるから、次期天皇の最有力候補と考えるのが自然である。

しかし、聖武の方針は異なっていた。それは多分に藤原氏の意向の影響によるものだっただろう。
貴族層はそういう聖武の方針や藤原氏に反感を抱き、それを体現しようとしたのが諸兄である。

橘諸兄は、もと葛城王といったが、聖武に橘姓を賜って臣下に下った。
「壬申の乱」の時に、栗隈王と美怒(三野)王の父子が天武側として近江朝の要請を断った。この美怒王の子どもが葛城王である。

天平8(736)年
十一月十一日 従三位の葛城王・従四位上の佐為王らが上奏文を奉って、次のように言上した。
臣下の葛城らが申し上げます。
……
そもそも天皇が王親に姓を賜り、氏の名を定められるのは、遠い由来があることである。このようなことでありますから、臣下の葛城らは、橘宿禰の姓を賜り、先帝の厚い思召しを奉じて、橘氏という格別の名を後世に伝え、万世まで窮まることなく、千代に相伝えたいと願います。

『万葉集』に次の歌がある(佐々木信綱『新訂 新訓・万葉集〈上〉』岩波文庫(2709))。

  冬十一月、左大辨葛城王等に、姓橘氏を賜ひし時、御製の歌一首
橘は實ssあへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹  (6-1009)
   右は、冬十一月九日、従三位葛城王、従四位上佐為王等、皇族の高名を辞して外家の橘を賜ふこと己に訖りぬ。…… 

  橘宿禰奈良麻呂、詔に應ふる歌一首
奥山の真木の葉しのぎふる雪のふりは益すとも地に落ちめやも (6-1010)

奈良麻呂は、諸兄の子である。

|

« 藤原四子政権とその崩壊 | トップページ | 橘諸兄の立場 »

日本古代史」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/21808762

この記事へのトラックバック一覧です: 橘諸兄政権:

« 藤原四子政権とその崩壊 | トップページ | 橘諸兄の立場 »