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2008年6月 7日 (土)

『万葉集』の編纂過程

『万葉集』が編纂された経緯については諸説があるが、櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407)によれば、これまでの研究により、次のことが確認されている。
①長い時間をかけて、複数の人びとによる、数次の編纂を経て完成した
②完成するのは早くても宝亀2(771)年以後である
③編纂にかかわった有力メンバーとして、大伴家持がいた

『万葉集』が完成するまでの道筋は、以下のように推測されている。
Ⅰ.揺籃期
巻1と巻2が編纂された時期。この2巻は、雑歌(巻1)と相聞・挽歌(巻2)の三大部立からなり。歌は標目を立てて、時代順に並べられている。
標目は、両巻の巻末の「寧楽宮」以外は、「○○宮に天の下知らしめしし天皇の代」となっていることから、「寧楽宮」以下は後で書き加えられたものと推測されている。
伝承期の歌を別とすれば、巻1は舒明朝以後、巻2の相聞は天智朝以後、挽歌は斉明朝以降の歌が収録されている。
標目が立てられていないのは孝徳朝であり、舒明以後の系譜において、孝徳が舒明の皇統から外れていることから、巻1と巻2は、舒明朝の皇統を祝福して編纂されたのではないか、と推測されている。

また、巻1は、藤原宮への遷都(694年)までの歌を目途に、持統天皇の宮廷で編まれ、巻1の補遺と巻2の編纂が元明天皇の宮廷で行なわれたのではないか、とされる。
つまり、『万葉集』の編纂は、持統天皇の意思を介して行なわれたのではないかとみられている。
通説的には、壬申の乱に勝利した天武天皇は、近江大津宮から大和の地に回帰し、即位した。持統朝は天武朝とひと続きであり、天皇を神の後裔であって神に準じる存在であるとする「現(アキ)つ神=この世に姿を現している神」とする思想が生み出されていった時代である。
『日本書紀』の天武4(675)年の条に以下の記述がある(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808)

二月九日、大倭(ヤマト)・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張らの国に勅して、「管内の人民で歌の上手な男女、朱儒・伎人(ワザビト:俳優)を選んでたてまつれ」といわれた。

この勅は、宮廷への服属のしるしを求めたもので、中央集権的な律令国家をめざす施策の一環として理解される。
持統朝を代表する柿本人麻呂は、こうした時代背景の中で登場するものであり、宮廷やその主である天皇を賛美した宮廷讃歌が中心をなす。
『万葉集』は、このような動向の中で、宮廷伝来の歌をもとにして、持統天皇の時代に編まれはじめ、天武の父・持統の祖父の舒明天皇の皇統を祝福賛美する歌集としてまとめられたのではないか、とされる。

Ⅱ.編成期
『万葉集』の編纂の過程の画期として、天平17(745)年、18年が指摘されている。
巻16までの中で年代の分かる最も新しい歌は、天平16(744)年7月の作(巻3-481~483)であり、巻17以降(大伴家持の歌日誌的な体裁)で、天平18年の正月から始まる。
こうしたことから、天平17、8年ごろに、家持+αの人たちによって、巻16までの編纂が行なわれたのではないか、と考えられる。
この時期は、聖武天皇が、天平12(740)年に起きた藤原広継嗣の乱のあと、「彷徨五年(伊勢、美濃、近江、山背、難波)」を経て、天平17年9月に平城京に回帰した時期に重なる。
こうした事情から、元正太上天皇や聖武天皇を取り巻く人々によって、宮廷の安泰と永遠を願いつつ、平城遷都までの歌について編纂されたのではないか、とされる。
家持は、天平18年6月21日に越中守に任命されているので、天平17年9月26日の平城還都からそれまでの9ヶ月間というのが有力である。
左大臣橘諸兄や家持と親しかった市原王などが関係したとみられている。
紫香楽宮跡から出土した木簡(08年5月26日の項)が捨てられたのは、この編纂の時期の直前ということになり、『万葉集』に収録されている「安積山の歌」が、既にかなりの範囲で流布していたことを示すものと考えられる。

Ⅲ.完成・公表期
『万葉集』の巻末の歌は、天平宝字3(758)年正月に詠まれた家持の作品である。家持は前年に因幡国(鳥取県東部)の守に任命されているが、この後延暦4(785)年までに、さまざまな政治的事件の渦中にあったとされる。
家持の歌が軸になっている巻17以降の4巻は、家持の死の直前辺りに編纂されたが、家持は、死後も藤原種継暗殺事件に連座しており、家持の罪が許されるまでは、『万葉集』は公表されなかったのではないかとされる。
家持の罪が許されるのは延暦25(806)年3月17日、桓武天皇が崩御した日であった。『万葉集』が公のものとなるのは、桓武天皇の後の平城天皇の時代以降ということになる。
『古今和歌集』真名序には、『万葉集』が「平城天子」に命によって編まれたとされており、「平城天子」が誰を指すのかについての議論があるにしても、平城天皇と解釈して矛盾はない。
平城天皇は、嵯峨天皇に譲位して、大和の平城の古京で過ごしており、大和への思い入れが大きかったと推測される。
『万葉集』は、天武・持統天皇、聖武天皇、平城太上天皇と、ほぼ70年周期での3回の大和回帰と連動しつつ、編纂が進んだ、ということになる。

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コメント

万葉集に付いて書いています、良かったらリンクをお願いします。
当方からはリンクを作成しました。
よろしくお願いします。

投稿: いつもの人 | 2008年6月22日 (日) 22時27分

いつもの人様

Link有難うございます。
まったくの素人ですが、気の向くままに書いています。
今後とも宜しくお願いします。

投稿: 管理人 | 2008年6月23日 (月) 08時05分

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