藤原四子政権とその崩壊
「長屋王の変」によって長屋王が自害(天平2(729)年)したあと、廟堂のトップは、多治比真人池守が務めたが、天平2年9月8日に薨じた。その後を務めた大伴旅人も、天平3年7月25日に薨じた。
藤原武智麻呂は、「長屋王の変」の後中納言から大納言に昇進し、天平3(731)年8月には、参議が6人補充され、その中に、藤原氏から新たに宇合と麻呂が参議に任じられた。
つまり、大伴旅人が薨じると、廟堂の中枢は、藤原不比等の4人の息子たちが担うことになる。
もちろん、天平元(728)年の光明立后も、藤原不比等の4人の子どもたちの協力によるものだっただろう。
・武智麻呂(南家)
・房前(北家)
・宇合(式家)
・麻呂(京家)
この体制には二つの側面がある(栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
一つは、藤原四子政権の確立である。
不比等の四子がすべて議政官となり、議政官の半数近くを占めることになった。武智麻呂は大納言として最高位であり、房前は最古参の議政官で、中務卿と中衛大将を兼ね、宇合は式部卿として文官の人事権を掌握し、麻呂は兵部卿として武官の人事権を掌握した。
まさに、藤原四子政権体制である。
この四子は、南家・北家・式家・京家として、藤原氏の分立を定着させた。
第二に、議政官のメンバーが、各省の長官と左右大弁、大宰帥を兼任する状態になり、太政官が中央官僚機構を強力に掌握する体制ができあがった。
ここで、橘諸兄が議政官に加わっている。
天平8(736)年、結果としてこの四子政権に大きな打撃を与えることになる遣新羅使が派遣される。
『続日本紀』は、次のように記す。
夏四月十七日 遣新羅使の阿倍朝臣継麻呂らが天皇に出発に臨んでの拝謁をした。
天平九年
正月二十七日 遣新羅使の大判官で従六位上の壬生使主宇太麻呂・少判官で正七位上の大蔵忌寸麻呂らが、新羅から帰って入京した。大使・従五位下の阿倍朝臣継麻呂は津島(対馬)に停泊中の卒し、副使で従六位下の大伴宿禰三中は病気に感染して入京することができなかった。
……
二月十五日 遣新羅使が帰朝報告をし、新羅の国がこれまで通りの礼儀を無視し、わが使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。そこで天皇は五位以上と六位以下の官人、合せて四十五人を内裏に召し集めて、それぞれの意見を陳べさせられた。
二月二十二日 諸官司が意見をしるした上奏文を奏上した。或る者は使者を派遣してその理由を問うべきであるといい、或る者は兵を発して征伐を実施すべきであると奏上した。
……
三月二十八日 入京の遅れていた遣新羅使の副使で正六位上の大伴宿禰三中ら四十人が天皇に拝謁した。
どういうことか?
大使の阿倍朝臣継麻呂は、対馬で病死し、副使の大伴三中が拝謁できたのが二ヶ月も後のことである。
二月十五日の帰朝報告は、新羅で「不受使旨」という屈辱的な扱いを受けたというものだった。
しかし、この遣新羅使がもたらしたものは、もっと大きなものだった。
大使の阿倍朝臣継麻呂が病死したのは、疫瘡=天然痘に罹患したからだった。
その天然痘の保菌者が遣新羅使の中にいて、それが都に入り、藤原四子が罹患して次々に亡くなる。
以下、『続日本紀』の記述である。
四月十七日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前が薨じた。
……
七月十三日 参議・兵部卿で従三位の藤原朝臣麻呂が薨じた。贈太政大臣不比等の第四子である。
……
七月二十五日 勅して、左大弁・従三位の橘宿禰諸兄と、右大弁・正四位下の紀朝臣男人を遣わし、右大臣(武智麻呂)の邸に赴かせ、武智麻呂に正一位の位階を授け、左大臣に任命した。その日のうちに武智麻呂は薨じた。
……
八月五日 参議・式部卿兼大宰帥で正三位の藤原朝臣宇合が薨じた。宇合は贈太政大臣不比等の第三子である。
藤原四子政権は、あっけなく崩壊した。
天然痘の猛威がどれほどのものだったかを示す表を引用する((中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
五位以上の官人の死亡率は40%に近い。廟堂は壊滅的な状態に陥った。
もちろん、庶民の間の死亡率はもっと高かったであろう。
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