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2008年6月27日 (金)

恭仁京

天平12(740)年10月26日、聖武天皇は藤原広嗣追討のため九州にいる大野東人らに向かって、次のような勅を出す。

朕、意(オモ)ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。その時に非ずと雖も、事已むこと能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。

関東とは、畿内の東、鈴鹿関と不破関の東側で、当初は伊勢への行幸ということで平城京を後にした。
このとき、広嗣軍は既に潰滅していたことは聖武のもとに届いていたはずであるから、広嗣軍やその一味の脅威から身を避ける、ということはあり得ない。
聖武の意(オモ)う所とは何だったのか?
この後、およそ5年にわたる聖武の「彷徨」と呼ばれる行動が続く。

10月29日に伊勢に向かって出発した聖武は、図に示されるような行程を辿る(栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
411月14日の伊勢国鈴鹿郡赤坂から美濃国不破郡までの行程は、曾祖父天武天皇が、壬申の乱の際に通った道筋である。また、不破郡から近江国志賀郡の禾津までの間は、壬申の乱の際の戦場となった地域である。
つまり、聖武天皇は、従者たちと共に、壬申の乱を追体験していたのである。
何故か?

聖武天皇の意図は、人々に天武と自分との関係をアピールすることであった(遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903))。
聖武が天武の曾孫であることはもちろん周知のことであったが、天武の血統にある皇族は他にも大勢いたから、聖武が強調したかったことは、天武の嫡子として皇太子に立てられた草壁皇子の直系であることであろう。
つまり、草壁を嫡子として認めた天武の存在を再認識させることであった。

聖武は、廬舎那仏の造営を考えていた。
それは、天平12(740)年2月に、難波宮に行幸した際に立ち寄った知識寺で廬舎那仏を見たことがきっかけだった。
聖武はこのような廬舎那仏を自分も建立したいと考えた。
知識寺とは、国家や特定の貴族、豪族が財を投じて建立した寺院ではない。知識とは、仏への信仰を同じくする信者の仲間やかれらの団体行動あるいはかれらによって供出された財産や労力などを意味する仏教用語である。

知識寺の廬舎那仏を見たことは、聖武天皇にとって大きな衝撃だった。

特に、その知識というスタイルが、感動を与えたのではないかと推測される。
天皇の適格性を問われた聖武が、平等な人間集団の力によって財と労力を提供して廬舎那仏を建立しよう。
律令の官僚機構に頼るのではなく、人心を掌握することにより、天皇としての適格性を示すことにしよう、というのが聖武の発想だったのではないか。

聖武が廬舎那仏の建立を考えていた場所は、近江国甲賀郡の紫香楽だった(遠山:上掲書)。
紫香楽宮は、先頃万葉歌などが記された木簡が出土した地である(08年5月26日の項)。
紫香楽に廬舎那仏を建立するとすれば、その中継地として、木津川に近い恭仁の地が好適だった。
恭仁は、木津川に近く、木津川水運が物流に好都合だった。
恭仁は、紫香楽における廬舎那仏建立を指揮するために、聖武が腰を据えるための都城だったのだ。
恭仁京は中央部分が山に分断され、左京と右京が分離している。恭仁宮は、左京の北端部に置かれるという形をとらざるを得なかった。
発掘調査によれば、恭仁宮の面積は、平城宮の3分の1に過ぎない。

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