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2008年6月10日 (火)

「時の記念日」の夢幻と湧源

今日、6月10日は、「時の記念日」である。
大正9(1920)年に、欧米なみの時間を尊重する意識を持つことを願い、生活改善同盟会という組織が、『日本書紀』の記述をもとに選定した。
先ず、斉明天皇6年5月条に、「皇太子、初めて漏剋を造る。民をして時を知らしむ。」とある。漏剋というのは水時計のことで、そのレプリカが、三島市の蓮沼川に設置されていることは、すでに紹介した(08年3月10日の項)。
なお、蓮沼川に隣接している源兵衛川は、先ごろ選定された「平成の名水百選」に選ばれている(http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=9797)。

『日本書紀』には、次いで、天智10年4月25日に大津宮に漏剋が設置され、宮中に時が告げられるようになった、と記されている。
2_2大津宮における「時の管理」業務は、左図のようなイメージで考えられている(http://www.little-hp.net/jikoku.htm)。
漏剋を管理していたのは、陰陽寮という役所で、交替で水の量をチェックして、鐘や太鼓で時報を鳴らしたとされている。
重要な仕事として位置づけられ、業務を怠った場合には、厳しく罰せられたらしい。

「白村江の敗戦」の後、中大兄(天智天皇)は、唐・新羅の脅威に対抗するため、軍や官僚を、従来以上に組織的に運用することが必要になったと考えられる。
そこで、日時計などに比べれば遙かに高い精度をもつ水時計が導入されたのだろう。
タイム・マネジメントは、組織的な活動の最も基礎的な条件である。

昭和15年に、天智天皇を祀るために大津市に建立された近江神宮では、毎年、6月10日に「漏剋祭」が行われている。
中大兄皇子は、667年3月に都を大和飛鳥から、近江の志賀に遷した。
翌668年正月、それまで20年以上も皇太子のままでいた中大兄は、正式に即位した。しかし、そのわずか4年後の671年12月には、46歳で崩御する。
天智の最後については暗殺などの疑惑も推測されているが(08年1月27日の項)、いずれにしろ672年には「壬申の乱」が起きて、近江京は灰燼に帰したのであり、わずか数年の首都であった。

柿本人麻呂の次の歌は、『万葉集』の中でも著名なものと言えるだろう(高木市之助他校注『萬葉集一』岩波書店(5705))。

  近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人磨の作る歌  (巻1-29)
玉襷(ダスキ) 畝火の山の 橿原の 日知(ヒジリ)の御代ゆ(或は云ふ、宮ゆ) 生(ア)れましし 神のことごと 樛(ツガ)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを(或は云ふ、めしける) 天(ソラ)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え(或は云ふ、空みつ大和を置きあをによし奈良山越えて) いかさまに 思ほしめせか(或は云ふ、おもほしけめか) 天離る 夷(ヒナ)にはあれど 石走る 淡海の國の 楽浪(サザナミ)の 大津の宮に 天の下 しらしめしけむ 天皇(スメロギ)の 神の尊の 大宮は 此處と聞けども 大殿は 此處と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧(キ)れる(或は云ふ、霞立ち春日か霧れる夏草か繁くなりぬる) ももしきの 大宮處 見れば悲しも(或は云ふ、見ればさぶしも)

  反歌 
ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ  (巻1-30)
ささなみの志賀の(一に云ふ、比良の)大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(一に云ふ、逢はむと思へや)  (巻1-31)

柿本人麻呂の活躍した持統朝には、既に草に埋もれた廃墟になってしまっていて、ここだと明確に示せないような状態になってしまっていた、ということだろう。
一時代を画した天智天皇の都ですら、まことに夢幻のようなものに過ぎないのだ、という感懐を禁じ得ない。
しかし、同時に、1300年余を経た後に、「時の記念日」として人々に意識されているという事実は、イノベーションをもたらした湧源性の力が、時代を超越することを示しているとも思う。

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