大伴家持とその時代
大伴家持は、『万葉集』の編纂に関与したことが確実とされる人物である。
『万葉集』の最後を飾っているのは、家持の次の歌である(高木市之助他校注『萬葉集四』岩波書店(6203)。
三年春正月一日、於因幡國廰賜饗國郡司等之宴謌一首
新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
右一首、守大伴宿祢家持作之。三年春正月一日、因幡國の廰にして、饗を國郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新しき年の始め初春の今日降る雪のいや重け吉事
右の一首は、守大伴宿禰家持作れリ。
ちなみに現代語訳は、以下のようである。
新しい年のはじめの新春の今日降る雪のように、ますます重なれ、よいことが。
『万葉集』がこの歌で閉じられていることは、『万葉集』編纂の意図と係わっているものと思われる。
大伴家持は、旅人の子で、大伴氏宗家の長男として、養老2(718)年に生まれた(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))。
実母の名前は不明で、弟に書持(フミモチ)がいる。妻は大伴坂上大嬢(サカノウエノオオイラツメ)で、妻の母坂上郎女は旅人の異母妹で家持にとっては叔母にあたる。
通説では、養老2(718)年に生まれたとされる。父旅人が、大宰帥(ダザイノソチ)だった幼少期には、大宰に下った。
大伴氏は、武門の家であり、系図は以下の通りである(小林惠子『本当は怖ろしい万葉集 完結編 大伴家持の暗号―編纂者が告発する大和朝廷の真相 』祥伝社(0611)。
家持は、『万葉集』では、天平10(738)年から天平16(744)年まで 内舎人(天皇や皇族の身のまわりの世話をし、護衛も兼ねる私的な雇人)とあり、17年正月に従五位、18年3月に宮内少舗、6月越中守に任命され7月に赴任した。
上掲の『万葉集』最後の歌は、天平宝字3(759)年正月の因幡の国庁での歌である。
家持が歌人として活躍したのはおよそ20年間ということになる。
「青丹(アオニ)よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」と詠われた奈良時代は、また政争の時代でもあった。
以下、奈良時代の略年表をみてみよう。
710:平城京に遷都
712:『古事記』編纂
718:養老律令なる
720:『日本書紀』撰上
724:聖武天皇即位
727:渤海より使者が来る
729:長屋王の変
730:薬師寺東塔建立
737:藤原四兄弟病没
------------
740:藤原広嗣の乱
743:紫香楽宮で大仏造立の詔
744:安積親王変死
756:聖武天皇の死
757:橘奈良麻呂の変
------------
764:藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱
769:宇佐八幡宮神託事件
782:氷上川継の乱
784:長岡京遷都
どうも奈良時代の政変は目まぐるしく、頭に入り難いが、家持は、まさに政争のただ中で歌人として歌を残したことになる。
文学としての歌という面以外に、史料としての面も興味を惹かれる。
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