« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月

2008年6月30日 (月)

安積親王と大伴家持

『続日本紀』は次のように記す。

神亀四年
閏九月二十九日 皇子が誕生した(母は光明子)。

神亀五年
八月二十一日 次のように勅した。
皇太子の病が日を重ねても癒らない。三宝(仏法僧)の威力に頼らなければ、どうして病気をのがれることができようか。
……
九月十三日 皇太子が薨じた。
九月十九日 皇太子を那富山(那保山・平城宮の北部)に葬った。年齢は二歳であった。

この皇子は、「基王(モトイノミコ)」と名づけられたという説と、「基」は「某」の誤記であるという説とがある(08年6月14日の項6月20日の項)。
這い這いもできないうちに、立太子の儀が行なわれた。藤原氏の期待の星だったが、翌年に薨去してしまう。
『続日本紀』は「年齢は二歳だった」と表現するが、満1歳になる前だった。

一方、聖武天皇の夫人の犬養連広刀自にも皇子が生まれた。安積親王である。
この皇子に関しては、『続日本紀』は誕生の記事を載せない。
ひっそりと誕生した、という雰囲気である。
しかし、藤原氏にとっては安閑としていられなかった。唯一の皇子であるから、そのままでは安積皇子が皇太子に立てられる可能性が高い。

そこで、「夫人」だった安宿媛を「皇后」にするという手段を考えた。
天皇が即位するときに「皇后」が立てられるのが普通である。「皇后」は皇族の出でなければならない、とされていた。
母の宮子も、文武の「夫人」のままだったが、首皇子(聖武天皇)を生んだからよかった。安宿媛はせっかく恵まれた皇子を亡くしてしまい、その後皇子が得られるかどうかは分からない。
非常手段として、「皇后」に昇格させ、皇子が生まれた場合には、「皇后」の子として安積親王に対する優先権を確保し、皇子が生まれなくても、中継ぎ役の可能性を保持できる。

このような動きに反対の立場だったのが、高市皇子の嫡子の長屋王だった。
高市皇子は天武天皇の長子だったが、母が皇族の出でなかったために、皇太子の候補から外されていた(08年2月2日の項2月7日の項)。
そのような系統にある長屋王にとって、藤原氏のやり方はとても容認できるものではなかった。
大伴旅人も、長屋王と同じような考えであったとされる。
大伴家は武門の家柄であり、隼人の動きなどを牽制するということで、九州の大宰府の長官に任命され赴任する。

旅人が都を去ると、事は素早く実行され、素早く収束が図られた。
「長屋王の変」である(6月17日の項)。
2月に事件が起き、3月には藤原氏の総領の武智麻呂が大納言になり、8月には瑞祥が現れたという理由で改元される。
絢爛たるイメージの「天平」時代の開幕である。
改元の直後に、安宿媛は立后する。光明皇后は藤原氏出生の最初の皇后である。
藤原氏の専横ともいうべき状況の中で、安積親王に対する期待が次第に高まっていったのではないか(犬養悦子『古代史幻想―万葉集の謎に迫る』文芸社(0202))。

  安積親王、左少辨藤原八束朝臣の家に宴せし日、内舎人大伴宿禰家持の作れる歌一首
ひさかたの雨はふりしけ思ふ子が宿に今夜(コヨヒ)は明して行かむ  (6-1040)
((ひさかたの)雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そしたら、私の大切に思っているあの子(あのお方が)帰れなくなってここに今夜はお泊りになるだろうから)

安積親王が、藤原八束や家持らに歓待されていたことが窺える。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月29日 (日)

彷徨五年と平城還都

恭仁京は、山容は変化に富み、泉川の清流にも恵まれた景勝の地だった。

  十五年癸未八月十六日、内舎人大伴宿禰家持、久邇京を讃めて作れる歌一首
今つくる久邇の王都(ミヤコ)は山河のさやけき見ればうべ知らすらし  (6-1037)

しかし平地に乏しく、都城の全体計画は停滞しがちだった(写真は、栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109/宮は北側の緩傾斜地に設けられた)。
2_2天平15(743)年10月に、紫香楽宮で廬舎那仏造顕の詔が出され、甲賀寺の寺地が開かれると、恭仁京造営の熱意が失われ、年末には、「造都の工事は用度の費すところに堪へられず」ということで、造都工事は中止になってしまう。
この背景には、恭仁京造都推進者の橘諸兄に対立する藤原仲麻呂の建策があったものと推測される。

これに対し、諸兄も拱手傍観していたわけではない。
天平16(744)年閏正月、百官が朝堂に召集され、恭仁京と難波京のいずれを都とすべきか諮問された。
恭仁京の造都が中止されているということを考えれば、難波京への遷都を前提とした問いであった。
諸兄は、聖武天皇が、難波京へ遷都したいと考えていることを踏まえ、難波遷都に際して主導権を確保すべく、このような問いかけをしたものと思われる。

結果は?
恭仁京:五位以上24名、六位以下157名
難波京:五位以上23名、六位以下130名
僅差ではあるが、恭仁京の方が多数だった。

にもかかわらず、聖武は難波へ行幸した。
2月には、恭仁京にあった鈴印や内外の印、高御座、大楯、武器などが難波に移され、実質的な遷都が開始されるという事態になった。
この天平16年閏正月の難波行幸のとき、恭仁京の留守役は仲麻呂だった。
聖武が恭仁京を発った当日、突然に安積親王が脚の病により、恭仁京に戻ってきた。
安積親王は、聖武と県犬養広刀自の間にできた、聖武にとっては唯一の皇子である。
光明皇后の生んだ基(某)皇子が満1歳で早逝した年に生まれ、この年には17歳になっていた。
安積親王は、恭仁へ戻って2日目に薨じてしまった。

仲麻呂は恭仁の留守を解任されたが、諸兄の難波京遷都計画を潰すため、聖武の気持ちを大仏造顕に集中させるべく、紫香楽行幸を建策する。
諸兄は難波に残った。
聖武が紫香楽に出発した2日後、難波を皇都とすることが宣言されている。
この勅は、聖武によるものなのか、難波に残っていた元正太上天皇のものなのか?
おそらくは、聖武が光明や藤原氏に取り込まれてしまうことを危惧した元正太上天皇が、難波遷都によって、聖武を光明や藤原氏から切り離そうとしたのではないか。

聖武の紫香楽滞在は5か月に及び、11月には廬舎那仏の体骨柱が完成し、翌天平17(745)年正月には、紫香楽が新京とされた。
しかし、4月になると、紫香楽宮周辺で連日のように火災が発生する。
諸兄の指示があったかどうかは別として、紫香楽遷都に反対する勢力が放火したものと考えられる。
仲麻呂は、この事態を利用して、平城還都を企てる。

5月に、再びどこを京とすべきかが諮問される。
平城が圧倒的だった。
聖武は平城に戻った。
天平12年10月に東国行幸に出てから4年半の彷徨だった。
平城還都は、諸兄に対する仲麻呂の勝利を意味していた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月28日 (土)

紫香楽離宮

天平13(741)年の正月、恭仁宮はまだ未完成だったので、朝賀は帷帳をめぐらした中で行われた。
恭仁京への遷都が、未完成の状態で、言い換えればいかに慌ただしく行われたかを示すものだろう。
閏3月15日、五位以上の者は平城京に居住してはならず、恭仁京へ移住すべきことが命じられた。
7月10日、元正太上天皇が、居所を恭仁宮に移した。
8月28日、平城京の東西二市を恭仁京に移した。
9月9日、恭仁宮造作のために、大養徳・河内・摂津・山背から役夫5500人が徴発された。
11月21日、恭仁宮の正式名称が、大養徳恭仁大宮(ヤマトクニノオオミヤ)と定められた。

しかし、天平14(742)年の正月になっても、大極殿は未完成で、聖武は四阿殿(アズマヤドノ)で朝賀を受けた。
22月、恭仁京から近江国甲賀までの路が開削され、紫香楽に離宮が造営された(写真は紫香楽宮跡/栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
8月になって、聖武は最初の行幸を行い、12月にも行幸した。
紫香楽に離宮を設けたのは、廬舎那仏の造顕のためであったが、2回の行幸を行っても、聖武は具体的な意思表示をしていない。

聖武天皇と政務の執行責任者に橘諸兄の思惑は、どう交錯していたのだろうか?
この間の事情はいささか分かりづらいが、中川収『奈良朝政争史』教育社(7903)は、以下のように整理している。
聖武が廬舎那仏造顕を発想したのは、天平12(740)年に河内郡大県郡の知識寺を礼拝して以来のことだった。
広嗣の乱で一時的に中断せざるを得なかったが、乱の終了と共に造顕への思いが具体化した。
しかし、政治の責任を担う橘諸兄にとっては、廬舎那仏の造顕は困惑の対象だった。

諸兄は、藤原氏の平城京から訣別すべく、恭仁京の造営に注力していた。
恭仁のある相楽には諸兄の別邸があったから、聖武に恭仁京遷都を決意させたのは諸兄であったはずで、諸兄は、広嗣の乱を機に、藤原氏と係わりの深い平城京を放棄する建議を行ったものと推測される。
その恭仁京が未だ造営途上であったし、天平13(741)年3月24日には、各国ごとに国分寺・国分尼寺を創建するよう詔が出ていた。
これに大仏造顕事業が加わるとなると、財政的な事情も含め、すべてが頓挫してしまう可能性がある。
諸兄は、消極的にならざるを得なかったのではないか。

広嗣の乱の後、光明皇后は、一族の不始末というような捉え方であったのだろうが、父不比等の賜った5000戸の封戸の返上を申し出た。
聖武は2000戸を改めて藤原氏に与え、3000戸を国分寺に安置する六尺の釈迦牟尼仏を造る原資とすることにした。
国を混乱させた藤原氏が償いの意味で、聖武の願う国分寺の建立に協力したということになる。
この頃、光明皇后は、藤原氏の権勢再興を、温厚な藤原豊成ではなく、弟の仲麻呂に託そうと考えた。

橘諸兄が大仏造顕に消極的なのを、仲麻呂は、聖武との結びつきを強める機会として捉え、積極的に推進する側に立った。
藤原氏の贖罪意識のある光明皇后も積極推進派だったことは言うまでもない。

天平15(743)年4月に紫香楽宮への3回目の行幸が行われた。
仲麻呂が参加し、諸兄が留守にまわった。
5月に、仲麻呂は従四位に昇進し、参議に就任して議政に加わった。
その直後に、「墾田永代私財法」を建議した。
これは、公地公民という律令体制の根幹をくつがえすものである。
利益を受けるのは貴族と地方豪族であり、貴族の協力を得ることにより政治的な面での基盤を固め、地方豪族を利用して経済的な基盤を固めつつ、聖武の熱願する大仏造顕事業に係わろうというのが仲麻呂の意図だった。

つまり橘諸兄の消極意見を否定するものだった。
これを受けて、財政的なバックグラウンドも整ったということで、廬舎那仏造顕の詔が発せられた。
このような経緯を通じて聖武の心は仲麻呂に大きく傾いていったものと思われる。
しかし、建議者は仲麻呂であっても、事業の遂行責任者は諸兄である。
諸兄と仲麻呂の対立は峻烈なものにならざるを得なかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月27日 (金)

恭仁京

天平12(740)年10月26日、聖武天皇は藤原広嗣追討のため九州にいる大野東人らに向かって、次のような勅を出す。

朕、意(オモ)ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。その時に非ずと雖も、事已むこと能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。

関東とは、畿内の東、鈴鹿関と不破関の東側で、当初は伊勢への行幸ということで平城京を後にした。
このとき、広嗣軍は既に潰滅していたことは聖武のもとに届いていたはずであるから、広嗣軍やその一味の脅威から身を避ける、ということはあり得ない。
聖武の意(オモ)う所とは何だったのか?
この後、およそ5年にわたる聖武の「彷徨」と呼ばれる行動が続く。

10月29日に伊勢に向かって出発した聖武は、図に示されるような行程を辿る(栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
411月14日の伊勢国鈴鹿郡赤坂から美濃国不破郡までの行程は、曾祖父天武天皇が、壬申の乱の際に通った道筋である。また、不破郡から近江国志賀郡の禾津までの間は、壬申の乱の際の戦場となった地域である。
つまり、聖武天皇は、従者たちと共に、壬申の乱を追体験していたのである。
何故か?

聖武天皇の意図は、人々に天武と自分との関係をアピールすることであった(遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903))。
聖武が天武の曾孫であることはもちろん周知のことであったが、天武の血統にある皇族は他にも大勢いたから、聖武が強調したかったことは、天武の嫡子として皇太子に立てられた草壁皇子の直系であることであろう。
つまり、草壁を嫡子として認めた天武の存在を再認識させることであった。

聖武は、廬舎那仏の造営を考えていた。
それは、天平12(740)年2月に、難波宮に行幸した際に立ち寄った知識寺で廬舎那仏を見たことがきっかけだった。
聖武はこのような廬舎那仏を自分も建立したいと考えた。
知識寺とは、国家や特定の貴族、豪族が財を投じて建立した寺院ではない。知識とは、仏への信仰を同じくする信者の仲間やかれらの団体行動あるいはかれらによって供出された財産や労力などを意味する仏教用語である。

知識寺の廬舎那仏を見たことは、聖武天皇にとって大きな衝撃だった。

特に、その知識というスタイルが、感動を与えたのではないかと推測される。
天皇の適格性を問われた聖武が、平等な人間集団の力によって財と労力を提供して廬舎那仏を建立しよう。
律令の官僚機構に頼るのではなく、人心を掌握することにより、天皇としての適格性を示すことにしよう、というのが聖武の発想だったのではないか。

聖武が廬舎那仏の建立を考えていた場所は、近江国甲賀郡の紫香楽だった(遠山:上掲書)。
紫香楽宮は、先頃万葉歌などが記された木簡が出土した地である(08年5月26日の項)。
紫香楽に廬舎那仏を建立するとすれば、その中継地として、木津川に近い恭仁の地が好適だった。
恭仁は、木津川に近く、木津川水運が物流に好都合だった。
恭仁は、紫香楽における廬舎那仏建立を指揮するために、聖武が腰を据えるための都城だったのだ。
恭仁京は中央部分が山に分断され、左京と右京が分離している。恭仁宮は、左京の北端部に置かれるという形をとらざるを得なかった。
発掘調査によれば、恭仁宮の面積は、平城宮の3分の1に過ぎない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月26日 (木)

藤原広嗣の乱

橘諸兄の体制で政局が安定を見せる中で、聖武天皇は、天平9(737)年に打ち出しながら、天然痘の流行で中断していた国分寺造建事業の再開に意欲を示した。
天然痘の猛威を体験して、仏の加護を求める気持ちが一層強まったことが背景にある。
国分寺創建の思想は、「国泰(ヤスラ)かに人楽しみ、災除き福に至る」というものである(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
そのために、貧困にあえいでいる民を酷使する、という矛盾に聖武は無頓着だった。

このような政治のあり方に体制の中でも批判的な空気が生まれてきた。
藤原宇合の嫡男広嗣はその急先鋒だった。
従五位で、式部少輔に任官し、天平10(738)年4月から大養徳(ヤマト)守を兼ねていたが、12月に、大宰少弐を任ぜられた。
都にあって、親族の藤原豊成を誹る言動が多かったため、遠方に移したのだといわれる。
豊成は武智麻呂の嫡男であるから、広嗣の従兄にあたり、きわめて温厚な人物だったといわれる。

広嗣は、藤原氏の代表者としての豊成に、温厚すぎるという感情を持っていたのだと思われる。
大宰府にあった広嗣が、天平12(740)年の8月末に、時の政権のあり方を批判する上表文を朝廷に呈示する。
上表とは、天皇に対する意見書である。
大宰の帥は欠員で、大弐の高橋安麻呂は右大弁を兼ねて都にいたから、広嗣は少弐でありながら大宰府の現地での最高責任者の立場にあった。
上表文には、「時政の得失を指し、天地の災異を陳ぶ。因りて僧正玄昉法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備を除くを以て言とす」とあり、天地災異のもとが玄昉と真備の政治関与にあるから、この2人を政権から外すべし、とするものであった。

広嗣は、大宰府の機構を動かして挙兵した。
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903)は、災異と祥瑞はセットであり、統治者の徳が満ちていれば祥瑞が現れ、徳に欠ければ危険信号として災異が起こる、というのが当時の考え方であったとする。
つまり、災異の頻発は、天皇の人格・資質に対する天の警告ということになる。
広嗣が災異について触れたことは、聖武天皇の統治者としての資格を問題にした、ということに等しい。

ところで、天平12(740)年と前年には、災異という言葉に値する大きな自然災害は発生していない。
このことから、広嗣のいう災異は、天平9(737)年をピークに大流行した天然痘のことを指していると考えられている。
広嗣の父の宇合を含む藤原四子を潰滅させたのだから、藤原氏にとってはまさに災異というべきものであった。
この広嗣の主張を言い換えると、聖武天皇の人格・資質に問題があったので、天が警告として天然痘を災異として顕現させた、ということになる。
しかも、聖武天皇は、藤原一族に代えて、玄昉や真備などの新参者を重用している。

広嗣追討軍が大宰府管内に撒いた勅符には、「広嗣が親族の悪口を言い、和を乱すような振る舞いに及んだ」というようなことが書かれている。
この親族は、上記のように豊成を指すというのが定説であるが、遠山氏は、上掲書の中で、親族には聖武天皇も含まれるのではないか、としている。
聖武天皇は、父宇合の異母妹の光明子の夫であるから、親族という中に含まれるともいえる。

広嗣の上表は、実質は聖武を批判するものではあっても、玄昉と真備の2人を対象にしたものであって、聖武の退位を要求するようなものではなかった。
これに対し、聖武の反応は素早かった。上表文の届いた9月3日には、広嗣の行動を謀反と認定し、追討軍の編成を命じた。
同日、従四位上の東人を大将軍に、従五位上の紀朝臣飯麻呂を副将軍に任命する人事が発令された。

追討軍と広嗣軍は、10月9日、板櫃川で会戦し、追討軍は広嗣軍の主力を破った。
板櫃河から退却した広嗣は、値嘉嶋(五島列島)から耽羅(済州島)に逃れようとしたが、強風に弄ばれ、値嘉嶋に吹き戻されたところを逮捕された。10月23日のことであった。
広嗣捕捉の報が聖武のもとに届いたのが11月3日、直ちに処決の命が下された。
その命が届く前の11月1日には、広嗣は弟の綱手と共に処刑されていたのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月25日 (水)

橘諸兄の立場

橘諸兄(684~757)は、敏達天皇の末裔の美努王と県犬養三千代の間の子である。
4_2美努王については謎の部分があるが、壬申の乱の際、近江朝側の協力要請を断った経緯が知られている(08年5月20日の項6月5日の項)。

犬養三千代が、美努王と別れて藤原不比等と結ばれたことから、諸兄は光明子と同母異父の姉弟という立場になった。
以下は、『続日本紀』の天平11年11月11日の葛城王らの上奏文の中の言葉である。

時に葛城王らの母親である贈従一位の県犬養橘宿禰(三千代)は、上は浄御原朝廷(天武朝)から、下は藤原大宮(持統・文武。元明)に及ぶまで、身命を尽くして天皇にお仕えし、親に孝を尽くすのと同じ気持ちで、天皇に忠を尽くしてきました。朝早くから夜おそくまで労苦を忘れ、代々の天皇に力を尽くしてお仕えしてまいりました。
和銅元年十一月二十一日には、国を挙げての大嘗祭にお仕え申し上げ、二十五日に豊明節会の御宴において、天皇より忠誠の深さをお誉め頂き、酒杯に浮かべた橘を賜わりました。その時天皇は仰せられました。「橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は霜雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にあっても凋まない。光沢は珠玉とも競うほどである。金や銀に交じりあっても、それに劣らず美しい。このような橘にちなんで汝の姓として橘宿禰を与えよう」と。ところが今、橘の姓を継ぐものがばければ、恐らく有難い詔の意図を失うことになりましょう。伏して考えますのに、皇帝陛下が天下に徳を及ぼされ、その徳は……

つまり、和銅元年に三千代が橘姓を賜り、それを葛城王が引き継いで、橘諸兄となった。
諸兄は藤原四子政権の時代に参議になったが、四子が相次いで死んでしまったため、廟堂のトップの位置に座ることになった。
諸兄は、聖武天皇の意向を具現化することに努める。

聖武の意向に大きな影響を与えていたのが、唐から帰った玄昉と吉備真備である。
諸兄は、彼らをスタッフとして政権を運営する。
真備は、学才に優れ、帰朝のおり多数の漢籍・要物を将来したとされる。
玄昉も、経綸五千余卷と諸仏像をもたらしたという。

彼らの昇進には、学問的な実績と共に、参議多治比広成との関係が大きかったとされる。
広成は、彼らが帰朝したときの大使であった。玄昉の僧正昇進は、広成が参議に就任した直後であった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
真備は、その玄昉を、病臥にあった皇太夫人・藤原宮子の看護に就かせ、験をあらわして後宮と結び付いていった。
聖武も、先進国唐の制度・文物に通じた彼らを重用した。

諸兄は、天平15年に左大臣に任命されるが、その頃から藤原仲麻呂との確執が生じる。
天平勝宝7(755)年11月、聖武太上天皇が病床に伏しているときに、諸兄の祗承の人・佐味宮守が「諸兄に謀反の心あり」と訴え出る。
翌年、諸兄は自ら身を引き左大臣の位を返上した。
仲麻呂の策謀であることは間違いないと思われる。
諸兄は復活することなく、天平宝字元(757)年に薨じる。

仲麻呂は、諸兄の死後、諸兄の子の奈良麻呂に謀反の嫌疑をかけ、反藤原派の貴族たちを一掃する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月24日 (火)

橘諸兄政権

藤原四子が、想定の範囲外ともいうべき形で死去すると、その後は、生き残った議政官を中心に政権再建が Photo 図られた。鈴鹿王、橘諸兄、大伴道足の3人である(図は、栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109)から引用)。
鈴鹿王は、高市皇子の子すなわち長屋王の弟である。天平元(729)年の「長屋王の変」の後も昇進を続け、天平3(731)年8月11日に参議に任ぜられていた。
藤原四子の子どもたちの中で、最年長は豊成(武智麻呂の長子)で、まだ33歳だった。参議にもなっていず、再建政権に入ることはできない状態だった。
つまり、藤原氏抜きで再建政権が組まれなければならかった。

天平9(737)年
八月二十八日 従三位の鈴鹿王を知太政官事に任じた。従三位の橘宿禰諸兄を大納言に、正四位上の多治比真人広成を中納言に任じた。広成と百済王南典にはそれぞれ従三位を授けた。従四位下の高安王に従四位上を、無位の諱(白壁王)<分注。光仁天皇である>と道祖(フナド)王んはそれぞれ従四位下を、無位の倉橋王・明石王・宇治王・神前王・久勢王・河内王・尾張王・古市王・大井王・安宿王にはそれぞれ従五位下を授けた。……

知太政官事は、形骸化したポジションになっており、大納言になった橘諸兄が実質的に再建政権を担う立場であった。
藤原氏は、豊成が参議になっただけだった。

天平10(738)年
正月十三日 阿倍内親王(後の孝謙・称徳帝)を立てて皇太子とした。
……
この日、大納言・従三位n橘宿禰諸兄に正三位を授け、右大臣に任じた。

2_3諸兄が右大臣に昇進した日に皇太子に立てられた阿倍内親王は、21歳だった。女性の皇太子の初めての例 である。聖武天皇と光明子の間に残る唯一の子どもである。
あくまで藤原系の皇族を後継にしようという聖武天皇の意思表示である。
聖武には広刀自との間に、安積親王がいた。ただ1人の皇子であるから、次期天皇の最有力候補と考えるのが自然である。

しかし、聖武の方針は異なっていた。それは多分に藤原氏の意向の影響によるものだっただろう。
貴族層はそういう聖武の方針や藤原氏に反感を抱き、それを体現しようとしたのが諸兄である。

橘諸兄は、もと葛城王といったが、聖武に橘姓を賜って臣下に下った。
「壬申の乱」の時に、栗隈王と美怒(三野)王の父子が天武側として近江朝の要請を断った。この美怒王の子どもが葛城王である。

天平8(736)年
十一月十一日 従三位の葛城王・従四位上の佐為王らが上奏文を奉って、次のように言上した。
臣下の葛城らが申し上げます。
……
そもそも天皇が王親に姓を賜り、氏の名を定められるのは、遠い由来があることである。このようなことでありますから、臣下の葛城らは、橘宿禰の姓を賜り、先帝の厚い思召しを奉じて、橘氏という格別の名を後世に伝え、万世まで窮まることなく、千代に相伝えたいと願います。

『万葉集』に次の歌がある(佐々木信綱『新訂 新訓・万葉集〈上〉』岩波文庫(2709))。

  冬十一月、左大辨葛城王等に、姓橘氏を賜ひし時、御製の歌一首
橘は實ssあへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹  (6-1009)
   右は、冬十一月九日、従三位葛城王、従四位上佐為王等、皇族の高名を辞して外家の橘を賜ふこと己に訖りぬ。…… 

  橘宿禰奈良麻呂、詔に應ふる歌一首
奥山の真木の葉しのぎふる雪のふりは益すとも地に落ちめやも (6-1010)

奈良麻呂は、諸兄の子である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月23日 (月)

藤原四子政権とその崩壊

「長屋王の変」によって長屋王が自害(天平2(729)年)したあと、廟堂のトップは、多治比真人池守が務めたが、天平2年9月8日に薨じた。その後を務めた大伴旅人も、天平3年7月25日に薨じた。
藤原武智麻呂は、「長屋王の変」の後中納言から大納言に昇進し、天平3(731)年8月には、参議が6人補充され、その中に、藤原氏から新たに宇合と麻呂が参議に任じられた。

つまり、大伴旅人が薨じると、廟堂の中枢は、藤原不比等の4人の息子たちが担うことになる。
もちろん、天平元(728)年の光明立后も、藤原不比等の4人の子どもたちの協力によるものだっただろう。
・武智麻呂(南家)
・房前(北家)
・宇合(式家)
・麻呂(京家)

この体制には二つの側面がある(栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
一つは、藤原四子政権の確立である。
不比等の四子がすべて議政官となり、議政官の半数近くを占めることになった。武智麻呂は大納言として最高位であり、房前は最古参の議政官で、中務卿と中衛大将を兼ね、宇合は式部卿として文官の人事権を掌握し、麻呂は兵部卿として武官の人事権を掌握した。
まさに、藤原四子政権体制である。
この四子は、南家・北家・式家・京家として、藤原氏の分立を定着させた。

第二に、議政官のメンバーが、各省の長官と左右大弁、大宰帥を兼任する状態になり、太政官が中央官僚機構を強力に掌握する体制ができあがった。
ここで、橘諸兄が議政官に加わっている。

天平8(736)年、結果としてこの四子政権に大きな打撃を与えることになる遣新羅使が派遣される。
『続日本紀』は、次のように記す。

夏四月十七日 遣新羅使の阿倍朝臣継麻呂らが天皇に出発に臨んでの拝謁をした。

天平九年
正月二十七日 遣新羅使の大判官で従六位上の壬生使主宇太麻呂・少判官で正七位上の大蔵忌寸麻呂らが、新羅から帰って入京した。大使・従五位下の阿倍朝臣継麻呂は津島(対馬)に停泊中の卒し、副使で従六位下の大伴宿禰三中は病気に感染して入京することができなかった。
……
二月十五日 遣新羅使が帰朝報告をし、新羅の国がこれまで通りの礼儀を無視し、わが使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。そこで天皇は五位以上と六位以下の官人、合せて四十五人を内裏に召し集めて、それぞれの意見を陳べさせられた。
二月二十二日 諸官司が意見をしるした上奏文を奏上した。或る者は使者を派遣してその理由を問うべきであるといい、或る者は兵を発して征伐を実施すべきであると奏上した。
……
三月二十八日 入京の遅れていた遣新羅使の副使で正六位上の大伴宿禰三中ら四十人が天皇に拝謁した。

どういうことか?
大使の阿倍朝臣継麻呂は、対馬で病死し、副使の大伴三中が拝謁できたのが二ヶ月も後のことである。
二月十五日の帰朝報告は、新羅で「不受使旨」という屈辱的な扱いを受けたというものだった。
しかし、この遣新羅使がもたらしたものは、もっと大きなものだった。
大使の阿倍朝臣継麻呂が病死したのは、疫瘡=天然痘に罹患したからだった。
その天然痘の保菌者が遣新羅使の中にいて、それが都に入り、藤原四子が罹患して次々に亡くなる。
以下、『続日本紀』の記述である。

四月十七日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前が薨じた。
……
七月十三日 参議・兵部卿で従三位の藤原朝臣麻呂が薨じた。贈太政大臣不比等の第四子である。
……
七月二十五日 勅して、左大弁・従三位の橘宿禰諸兄と、右大弁・正四位下の紀朝臣男人を遣わし、右大臣(武智麻呂)の邸に赴かせ、武智麻呂に正一位の位階を授け、左大臣に任命した。その日のうちに武智麻呂は薨じた。
……
八月五日 参議・式部卿兼大宰帥で正三位の藤原朝臣宇合が薨じた。宇合は贈太政大臣不比等の第三子である。

2藤原四子政権は、あっけなく崩壊した。
天然痘の猛威がどれほどのものだったかを示す表を引用する((中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
五位以上の官人の死亡率は40%に近い。廟堂は壊滅的な状態に陥った。
もちろん、庶民の間の死亡率はもっと高かったであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月22日 (日)

通り魔をヒーロー視する人たち

「週刊新潮080626号」に『ネットで「神」と崇められる「アキバ通り魔」』という記事が載っている。
6月8日(日)に起きた「秋葉原通り魔事件」については、不可解な要素が多いと書いた(08年6月11の項)が、ネット上ではすさまじい議論(?)が行なわれているということだ。

かの「2チャンネル」については、私も知っている。
まあ、かくも多様な、と思わせられるタイトルのスレッドの林立する大掲示板である。森羅万象自分の関心のあることは殆んどスレッドが立てられているのではないか、という感じである。
余りに豊富なスレッド過ぎて、煩わしい感じがして、最近は覗いてみることもなかった。
「週刊新潮」の記事を見て、久しぶりに「2チャンネル」にアクセスして「加藤智大」で検索してみた。
確かにおびただしい数のスレッドだ。

そして、「週刊新潮」の指摘するように、「加藤礼賛」の字句が多いのも事実だ。
代表例を1つだけ引用しておこう。

秋葉原通り魔・加藤智大は神!批判する奴は死ね!5

1 :ななし:2008/06/20(金) 16:15:21 ID:Yf7rHKcM0
加藤智大が神であるわけ・・・・理解しにくい人のために。

「超越性」・・行動が、一般人を超越・逸脱しているから。一般人は思っていても実行しない。 良くも悪くも人間の仕業ではない。それができるのは神に違いない。

「啓示力」・・社会問題を広く世間に啓示(=神が人に教え示す)した。当事者に自分自身が抱いている社会に対する不満や怒り、絶望への気付きを与えた。さらに、自分たちにも反撃力があること、我慢や泣き寝入り以外の道があることを気づかせた。


「象徴性」・・今回の事件で様々なことについて加藤智大を象徴(シンボル)として議論がなされている。
加藤智大という象徴を媒介として、人と人あるいは自分自身の内部で対話が生まれてい
る。 すでに人間・加藤智大の実像からかなり離れて象徴が語られていると思われる。

「救済性」・・社会的に不利益な扱いを受け尊厳を踏みにじられた人たちの声なき声、思いを行動で代弁した。 ざまー見ろといった一部の人たちが持つ、社会に対する報復欲求や攻撃欲求が充足された。情緒的な面での救済性の強さが、加藤智大が崇拝されている大きな理由でしょう。 一方で、事件の被害者など救われない人たちが新たに生じたのも事実である。
加藤智大は、神業ともいえる超越的行動で、 一部の虐げられた人びとを情緒面で救済するとともに気付きと勇気を与え、自らが非難や賞賛の対象すなわち象徴となることにより対話を促進し、結果的に社会に対して問題提起を行い、社会改善の機会を与えた。

よって、加藤智大は、神 である。
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/haken/1213946121/801-900

この投稿者も、ネット上の匿名性を利用して、彼の本心(?)を吐露してみせたのだろう。
しかし、リアルの社会では、この投稿者も同じ内容を発言できるとは思えない。
投稿者が、加藤擁護発言をしたとしても、加藤と同じことを実際に行なう可能性はほとんどゼロと考えるべきだろう。
私は、匿名だから発言できることもある、という立場だから、匿名で発言することを卑怯だというような議論には与しない。だから、「2チャンネル」のようなメディアがあること自体は、悪いことではないと考える。
そして、「2チャンネル」の議論が、大きな社会的影響をもたらすとも考えられないから、放置しておけばいいことかも知れない。

しかし、「2チャンネル」での論議も含め、秋葉原の事件については、考えさせられることが多い。
私たちの世代にとっては、秋葉原といえば電気街である。私たちの世代の比較的経済的に豊かな家庭に育った人には、自作ラジオの組み立てやアマチュア無線などに取り組んだラジオ少年が少なくない。
彼らにとって、秋葉原は部品調達のメッカだった。
私も、遅ればせながらというべきだろうが、就職した年の賞与のすべてを持って秋葉原に行った。学生時代から貧弱な再生装置で聴いていたクラシック音楽を、もう少しマシな装置で聴くべくオーディオのセットを揃えるためだった。
この時買った録音機は、未だオープンリールのテープレコーダーだった。

しかし、その後、田舎の町にも家電量販店が進出するなどの事情もあって、東京に出たついでに格安の中古PCを探しに行くくらいで、秋葉原を訪問する機会は殆んど無かった。
首都圏新都市鉄道株式会社の運営する「つくばエクスプレス:TX」が05年8月に運行を開始し、秋葉原は都心と筑波研究学園都市を結ぶ同路線のターミナル駅となった。
この沿線の開発が現在急ピッチで進められているが、私もこの2年余りの間、同線の利用者の1人だった。
東京大学といえば、多くの人が、本郷か駒場という地名を連想するだろう。
しかし、東京大学は千葉県柏市に第3の極を形成している。
学部学生を持たない純粋の研究拠点である。その東大柏を訪問するために、「柏の葉キャンパス駅」までTXを利用した。

そんなこともあって、秋葉原駅を利用することが少なからずあった。秋葉原という街の変容も自分なりに感じるものがあった。
秋葉原が、ラジオ少年の聖地から、いわゆるオタクたちの聖地に変わったということも、知識としては知っていた。メイド姿の若い娘たちを見かけることもあった。
通り魔・加藤が、秋葉原を選んだのも、そういうことが関係していたのだろう。

「2チャンネル」での盛り上がりは、加藤のような事件(犯罪)を実行はとてもできないが、心情的には同調する人間が少なからず居る、ということを示している。
確かに、「勝ち組」「負け組」という言葉が普通に使われているし、通り魔・加藤は、自分で考えるほどの「負け組」かという気もするが、「勝ち組」には分類されないだろう。
そういう状況の中で、私などの年齢になると、「人生は勝ち負けではないよ」などと呟いて見たい気がするが、それすらも「負け組」の独り言のように受け止められるのがオチだろう。
通り魔事件の一方で、年間の自殺者が10年連続で3万人を超えている、と報じられている。
何か根源的な部分で、価値観の転換が必要なような気がするのだが。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2008年6月21日 (土)

光明立后

長屋王の変のあった天平元(729)年の『続日本紀』の記述である(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

六月二十六日 熒惑(ケイゴク:火星)が太微宮(天子の宮廷に当る星座)の中に入った。
七月二十四日 月が東井(いまの双子座の東方部)に入った。

このような讖緯説的な記事のあと、次の記事がある。

八月五日 天皇が大極殿に出御して、次のように詔した(宣命体)。
現御神(アキツカミ)として天下を統治する倭根子天皇(ヤマトネコノスメラミコト:聖武天皇)が仰せられるお言葉を、親王たち、諸王たち、百官の人たち、および天下の公民はみな承れと申しのべる。
……
京職の大夫・従三位の藤原朝臣麻呂らが、文字を背に記した亀一匹を献上すると奏していると聞き、驚き怪しんだが実際にそれを見て、歓びめでたく思って考えることは、たしかに天皇である朕の政治がよいために出現したのであろうか。これは太上天皇の厚く広い徳を蒙り、高く貴い行ないによて現れてきた大瑞の物である、と仰せられるお言葉を、皆承れと申し告げる。
……

背中に文字を記した亀などというものが自然に存在するはずはないので、誰かがが工作したものと考えるべきだろう。
もちろん、亀を献上した藤原麻呂が係わっていたはずである。
それを祥瑞として、「天平」に改元された。亀の背中の文字が、「天王貴平知百年」と書かれていたのだという。
天平は、奈良時代の最盛期と位置づけられる。
その改元の5日後である。

八月十日 天皇は詔して正三位の藤原夫人(光明子・安宿媛)を皇后に立てた。

八月二十四日 五位の官陣と諸司の長官を内裏に呼び入れて、知太政官事・一品の舎人親王が天皇の勅を次のようにのべた(宣命体)。
天皇のお言葉であると、親王たち、また汝ら諸王たち、臣下たちに語ってやれと仰せられるには、天皇である朕が高御座に初めて就いてから、今年に至るまで六年を経た。この間、天皇の位をつぐべき順序の皇太子があった(神亀四年九月二十九日出生)。
これによりその母であられる藤原夫人を皇后と定めた。このように定めるのは天皇である朕の身にも年月が重なってきた。天下の君主として長い年月の間皇后のいないのも、一つのよくないことである。また天下の政にあっては、一人で処理すべきではなく、必ず後の政(内助のはたらき)があるべきである。これは特別なことではない。天に日月があり地に山川があるように、天皇と皇后が並んであるということは、汝ら王臣たちもよく見知っていることである。
……
然しながら朕の時のみではなく(皇族でない者を皇后にすること)、難波の高津宮にあって天下を統一された大鷦鷯天皇(仁徳天皇)は、葛城の曽豆比古(ソツヒコ)の娘、伊波乃比売(磐之媛)を皇后として結婚され、この国の天下の政をお治めになり執り行なわれた。それ故今さら珍しく新しい政ではなく、昔から行なってきた先例のあることであるぞ、と仰せられるお言葉を皆承れと申し告げる。

回りくどくて、弁解がましい表現であるが、それは安宿媛(光明)が皇女ではないことが問題であることが認識されていたからである。
遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903)は、光明立后は聖武天皇が自身を起点とした皇統を創り出すために行なったとみる。そのために、藤原氏をパートナーとして選んだのであって、長屋王の排除も聖武天皇の主導という見かたである。
それは言うまでもなく、藤原氏の側にとっても好都合なことであった。
聖武天皇と藤原氏のどちらに主導権があったのか?
笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)は、岸俊男氏の以下の説(「光明立后の史的意義」『日本古代政治史研究』所収)を紹介している。
合理的な説明だと思われる。

安宿媛の生んだ皇子が早世した年、天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積親王を生んだ。藤原氏は安積親王が皇太子に立てられることを恐れ、天皇の執政権を代行しうる皇后の地位に着目して、令の規定に反して臣下である藤原氏出身の夫人安宿媛を皇后に冊立しようとはかった。そしてこれに反対する皇族の長屋王を陰謀によって政界から排除したものと考えられる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月20日 (金)

某王立太子とその死

安宿媛(光明子)が出産した聖武天皇の皇子は、室町時代の『本朝皇胤紹運録』には「基王(モトイオウ)」とあるPhoto_2が、『続日本紀』にはこの名前は載っていない。
「基」は「某」の誤りであろうとされている(栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109))。
この某王は、生まれて直ぐといっていい時期に立太子した(08年6月14日の項)。
乳児の皇太子である。

この異例の立太子には、栄原上掲書によれば、二重の意味があった。
第一は、草壁嫡系の皇位継承という意味である。
これは、長屋王に対する牽制である。
長屋王は、太政官のトップの座にあったが、系譜的には、高市皇子の子どもであるから、草壁皇子の子どもの文武天皇(聖武天皇の父)に匹敵するとみることもできる。
長屋王には、皇位継承の可能性があったと考えられるが、草壁嫡系に対しては傍系である。
某王の立太子は、傍系の長屋王の皇位継承を認めない、という意志の表れとみることができる。
それは聖武天皇の意志であり、元正太上天皇の意志であり、藤原氏の意志であった(栄原:上掲書)。3_2

某王立太子のもう1つの意味は、藤原氏の血である。
聖武天皇は、藤原氏の血統を引くという意味で、藤原氏にとって待望久しい天皇であった。
聖武天皇が、生母宮子に「大夫人」の称号をおくる勅を出し、それに長屋王が難色を示したことは既に述べた(08年6月13日の項)。
長屋王の言い分は、勅が令と矛盾するというものであった。

勅と令のどちらを優先すべきか?
結果的には勅が撤回されたのであるから、令が優先すると判断されたことになる。
しかし、即位したばかりの聖武天皇は、出鼻を挫かれたということになるだろう。
長屋王の妻の吉備内親王は、草壁皇子と元明(阿閉皇女)の子で、文武・元正と同父母の姉妹だったとされる(直木孝次郎『万葉集と古代史 』吉川弘文館(0006))。
長屋王は元明女帝の娘婿ということになるから、彼女に引き立てられたという面もあったであろう。

元明太上天皇の死は、長屋王にとって二重の意味で影響を及ぼしたと考えられる(栄原:上掲書)。
第一は、義理の母という庇護者の喪失である。
それは、長屋王の基盤を弱めたであろう。
第二は、元明女帝に託された首皇太子(聖武天皇)の擁護者という立場からの解放である。
そういう状況の中で、宮子の尊号をめぐるトラブルが起きたのであって、首皇太子や藤原氏が、長屋王に対する警戒感をさらに強めていったのであろう。

聖武天皇には、安宿媛のほかに、県犬養広刀自という夫人がいた。
聖武の皇太子時代に夫人となり、井上内親王、不破内親王、安積親王の三子をもうけた。
某王立太子の時点で、広刀自が妊娠していたとしたら、皇子出産の可能性がある。
複数の皇子が皇位継承争いをする可能性も十分に考えられることである。
聖武天皇は、はやく皇位継承者を決定して、このような争いを未然に防ごうとした意志があったのではなかろうか。
そして、聖武天皇は、自分と同じ藤原氏の血を引く某王を皇位継承者2_5に選んだ。

某王を皇太子とすることによって、聖武天皇と藤原氏は一安心したであろう。
しかし、乳児の立太子という強引な手法が貴族層の反発を招いたであろう。
神亀5(728)年5月ごろ、反藤原氏と目されていた中納言大伴旅人が、大宰帥として大宰府に赴任させらている。
また、8月には、授刀舎人寮を改組して、より強力な中衛府を設け、初代長官に藤原房前が起用された。
そうこうする中で、9月に某王が亡くなってしまった。

この時点で、皇位継承の可能性を持つのは、長屋王と安積親王ということになる。
安積親王は、聖武天皇の唯一人の皇子であるから、最有力の候補者である。
しかし聖武天皇は、藤原系の天皇をめざし、安積親王の皇位継承を認めようとしなかった。
とすると、長屋王の皇位継承の可能性がさらに高まることになる。
それを封じるために、光明子の立后という手段が考えられた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月19日 (木)

長屋王邸

2_7長屋王の邸宅跡が、1986年から発掘され、大量の木簡が出土した(写真は、栄原永遠男『天平の時代』集英社(9109)。
木簡は、邸宅内の各役職の間で交わされていた伝票や書類、荷札などである(上野誠『万葉びとの生活空間―歌・庭園・くらし』はなわ書房(0011))。
長屋王が急襲されて、一気に機能が停止したことが、おびただしい木簡を残すことになった。
これらの木簡は、長屋王邸の規模や日常生活などを推察するための貴重な史料である。

長屋王邸の推定復元図を示す(千田稔『平城京遷都―女帝・皇后と「ヤマトの時代」』中公新書(0803))。
奈良国立文化財研究所は、1999年に、長屋王邸の西南隅に、帯状の蛇行する石敷きの遺構を発見し、それを「曲池」の跡と発表した。
『懐風藻』に収載されている田中朝臣浄足の漢詩に以下の2ようなものがある(上野:上掲書)。

五言。場集長王が宅にして宴す。一首。
苒々秋云に暮れ、
飄々葉已に涼し。
西園曲席を開き、
東閣珪璋を引く。
水底に遊鱗戯れ、
厳前に菊氣芳し。
君候客を愛づる日、
霞色鸞觴に泛かぶ。

この詩の「西園」が、長屋王邸の西に位置した庭園で、そこに池があって宴を催していたことが実証されたことになる。
長屋王邸には、藤原宇合や山田三方などの当代一流の文人たちが集い、文雅のサロンを形成していた。
この詩苑のメンバーでもあった藤原宇合が、長屋王の変においては、長屋王邸を包囲する役割を担っているのであり、虚々実々のサロンだったのであろう。

ところで、『懐風藻』収載の漢詩の題詞には、「長王宅」「作宝楼」「宝宅」という表現が出てくる(上野:上掲書)。
長王は長屋王のことであり、作宝楼は、佐保にある高殿の意である。
佐保は、奈良市北部の法蓮町・法華寺町あたりであり、奈良盆地の北辺ということになる。

この「長王宅」と「作宝楼」とは同一の宅なのか、別々の宅なのか。
長屋王邸跡の発掘を担当した寺崎保広氏は、木簡に記された内容等を分析して以下のように結論づけている(上野:上掲書)。
①左京三条二坊一・二・七・八坪の発掘地は和銅三年の遷都以来の長屋王宅であり、この地は佐保宅ではない。
②長屋王が大臣となる養老末年ないし神亀初年頃に、佐保宅が新たに造営された、と推定できる。
③その地は、以前から「佐保御薗」とも称すべき所領として、長屋王家が所有していた場所である。

庭園として整備された佐保の宅は、政権の首班としての長屋王が、政治家・文人・外国の賓客などを迎えるゲストハウスとして機能していたと推測される。
佐保の地は、大伴家の佐保宅があった場所であり、『万葉集』にとっても重要な舞台の1つである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月18日 (水)

長屋王のシンパたち

長屋王が「左道を学んで国家を傾けようとしている」という密告があったとして、もちろん左道についての理解にもよるが、それが直接的に国家を傾けることになるとは、当時ですら誰も思わなかったであろう。
長屋王は最高執行官である。現代でいえば、内閣総理大臣か?
当然、長屋王は、根も葉もないこととして、密告の内容を否認したと想像される。

長屋王の任官と叙位の閲歴をみてみよう(上野誠『万葉びとの生活空間―歌・庭園・くらし』はなわ書房(0011))。
704(慶雲元)年:無位から、正四位上に叙位
709(和銅2)年:宮内卿となり、従三位に叙位
710(和銅3)年:式部卿となる
716(霊亀2)年:正三位に叙位
718(養老2)年:大納言となる
720(養老4)年:藤原不比等が薨じ、大納言として実質的に政府のトップになる
721(養老5)年:右大臣となり、従二位に叙位
724(神亀元)年:左大臣となり、正二位に叙位

神亀元年というのは、聖武天皇の即位の年である。
その年に、長屋王は、新生・聖武政権の首班となった。
その長屋王に悲劇が突然にやってきたのだった。妻の吉備内親王、子どもの膳夫王らの諸王子も共に死んだ。

『万葉集』に、次の歌がある(佐々木信綱『新訂 新訓・万葉集〈上〉』岩波文庫(2709))。

  神亀六年己巳、左大臣長屋王の賜死し後、倉橋部女王の作れる歌一首
大君の命恐(ミコトカシコ)み大あらきの時にはあらねど雲がくります  (巻3-441)

  膳部王を悲傷ぶる歌一首
世間(ヨノナカ)は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち闕けしける (巻3-442)
  右の一首は、作者はいまだ詳らかならず。

倉橋部女王については、詳しいことは分からないらしい。しかし、「あらき」というのは殯のことで、それに「大」を冠しているのは、天皇に準じた表現になる。
大君=天皇の命により、それを作るべき時ではないが……、という感懐は如何なる心情を表現しようとしたのか?
442番では、世の無常は人力を超えたものであり、何とかその無常を受け入れることにしよう、というような気持ちが窺われる。
長屋王一族への愛惜の心の表現だと思われるが、納得し難い気持ちが残っているということだろう。作者未詳ということだが、敢えて名前を伏せたという可能性もあるのではなかろうか。

『続日本紀』の天平十年に次のような記載がある。

七月十日 左兵庫少属・従八位の大伴宿禰子虫が右兵庫頭・外従五位下の中臣宮処連東人を刀で斬り殺した。子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る好遇を受けていた。たまたまこの時、東人と隣合わせの寮の役に任じられていた。政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立てて東人を罵り、遂に刀を抜いてこれを斬り殺してしまった。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である(天平元年二月十日の項)。

子虫は、長屋王の事件が、東人らの誣告だったことを知り、長屋王が無実の罪で死んだことを知って、東人を斬殺したということだが、『続日本紀』という正史自体が、「事実を偽って告発した人物」と書いているのだから、長屋王が無実だったことは、多くの人が感じていたのだと思われる。
天平10年というのは、長屋王が死んでから9年後のことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月17日 (火)

長屋王の変

続日本紀』は、漆部造君足と中臣東人の密告(08年6月14日の項)の後、次のように記す(宇治谷孟現代語訳/講談社学術文庫)。

天平元年(七二九)
二月十日
……
天皇は、その夜、使いを遣わして三関(鈴鹿・不破・愛発)を固く守らせた。またこのため式部卿・従三位の藤原朝臣宇合・衛門佐の従五位下の佐味朝臣虫麻呂・佐衛士佐の外従五位下の津嶋朝臣家道・右衛士土佐の外従五位下の紀朝臣佐比物らを遣わして、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸を包囲させた。
二月十一日 太宰大弐・正四位上の多治比真人県守、左大弁・正四位上の石川朝臣石足、弾正尹・従四位下の大伴宿禰道足の三人を権(カ)りに参議に任じた。巳の時(午前十時前後)に、一品の舎人親王と新田部親王、大納言従二位の多治比真人池守、中納言正三位の藤原朝臣武智麻呂、右中弁・正五位下の小野朝臣牛養、少納言・外従五位下の巨勢朝臣宿奈麻呂らを長屋王の邸に遣わし、その罪を追求し訊問させた。
二月十二日 長屋王を自殺させた。その妻で二品の吉備内親王、息子で従四位下の膳夫王・無位の桑田王・葛木王・鉤取王らも長屋王と同じく自ら首をくくって死んだ。そこで邸内に残る人々を皆捕えて、左右の衛士府や兵衛府などに監禁した。
二月十三日 使いを遣わして長屋王と吉備内親王を生馬山(生駒山)に葬った。

素早いというしかない対応だった。宇合らが長屋王邸宅を包囲したのが密告の翌日、さらにその翌日には長屋王は自ら命を絶っている。
享年54歳。おそらく、長屋王は事態の状況が掴めないまま、自裁せざるを得なかったのではなかろうか。
妻や息子たちも道連れである。かくして長屋王の一族は消滅した。

長屋王を死に追い込んだ左道とは何か?
仏呪ではない道術や符禁のたぐいが、仏教側から邪道として左道と表現され、具体的には道教の方術であったと考えられている(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
長屋王が、儒教と共に、大陸伝来の道教を学んでいたことは十分に考えられることである。
しかし、道教を学んでいたとしても、それが国家や天皇を倒そうとすることとは、直接には結び付かない。
糾問されて、長屋王はどう抗弁したのか?

国家や天皇を倒そうとしたということについては、否定したであろう。しかし、道教を学び、方術を知っていることについては否定する必要性を感じなかったのではないか。
長屋王には、罪の意識はなかったのかも知れないが、弾劾しようとする側にとってはどうにでも証拠は捏造できる。

あるいは、長屋王の行為は、皇太子の死と結び付けられて考えられたのかも知れない。
聖武天皇は、長屋王が皇位に対して無欲ではなかったことを感じていたのであろう。
その心情を衝いたのが房前を含む藤原氏であった。
密告者の一人、中臣東人は、藤原氏の同族であった。
藤原氏の浮沈をかけた謀議の実行者の人選は、難しい問題だったであろう。
藤原氏の直接の同族では疑われるであろうし、他氏の者であれば秘密が漏洩する可能性がある。
東人は、そのような微妙なポジションにいた。
誣告から、長屋王が自殺するまで、わずかに二日である。
有間皇子や大津皇子の場合と同じような、手際の良さということができる。
そして、関係者に対する寛大な処分が、この事件が仕組まれたものであったことの傍証である。

しかし、遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903)は、藤原武智麻呂や宇合らは、長屋王追及のお先棒を担いだだけで、主導者は聖武天皇自身であったとする。
宮子の尊称事件以来、長屋王は聖武天皇に睨まれていたということである。
その背景には、聖武天皇の血統の意識があったのではないか。
聖武天皇の父の血統は、文武天皇であるから申し分がない。しかし、母は、不比等の娘の宮子であったから、皇女ではなかった。
長屋王の父は高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、聖武天皇の血統意識を刺激するに十分だったともいえる。
遠山氏は、聖武天皇が安宿媛の生んだ皇子を、直ちに皇太子に立てたのは、自分を起点とする皇統の樹立という意識があったのではないか、とする。

長屋王の体制はあっけなく崩壊した。
この事件によって、天皇を相手側にまわす者の脆弱な姿を世の中に知らしめることになった。
天皇と結び付くことの重要性が再認識され、天皇権力の強化に結び付いたことになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月16日 (月)

自然ダムの脅威

「岩手・宮城内陸地震」では、大規模な土砂の崩落が起きている様子が、メディアで報じられている(写真は産経新聞080616)。
2そして、崩落した土砂が谷を埋め、水を堰き止める「自然ダム」ができていることが確認されている。
自然ダムでは、水位の調節機能がないから、時間が経過すると共に水位が上昇し、ある段階で崩落した土砂が水圧に堪えられなくなって決壊する可能性がある。
もし、そういう事態になれば、深刻な二次災害となる。

四川大地震でも、巨大な堰き止め湖ができたことが報じられた。
北川県付近の唐家山にある堰止め湖は、水深が40メートル以上になって、決壊が警戒され、下流域の住民24万人に避難勧告が出された。
その後、人工の排水路によって水位が低下し始め、決壊危険警報が解除されたようだ。

2003年の新潟県中越地震でも、旧山古志村地区で、自然ダムによる新湖が出現した。
継続した雨で決壊が心配されたため、やはり下流域の地区に避難勧告が出され、住民たちは一時的な避難生活を強いられた。

歴史的には、弘化4(1847)年の善光寺地震が多くの山崩れをもたらしたことが知られている。
以下はWIKIPEDIA(08年5月21日最終更新)からの引用である。

1847年5月8日(旧暦弘化4年3月24日)、信州(現長野県)の善光寺平を震源とし、直下型で発震、付近に多大の損害をもたらした地震である。地震規模を示すマグニチュードは推定で7.4。発生周期は、1,000年に一度とされている。この地震のために生じた小松原断層と善光寺断層は長野市西部に残っている、これら断層を総称し、長野盆地西縁断層とも呼ぶ。名前から受けるイメージで、善光寺周辺の狭い地域の地震として考えてしまいがちであるが、長野盆地全体から飯山に渡り大きな被害をもたらした。
……
地震とともに山崩れを生じたところも多く、松代藩領内で42,000ヶ所、松本藩領内では1,900ヶ所に及んだ。中でも犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)の崩壊は史上最も大きな地形変動となって恐るべき大被害をもたらした。まず、崩壊した土砂が50メートルもの高さをもつ巨大な堤防となって河川の流れを変え、ふもとの岩倉村・孫瀬村の両村に川水を招き入れ2村は完全に水没してしまった。下流においては押し流されてきた土砂が高さ30メートルにして面積50平方メートルという巨大な丘となって藤倉、古宿の2村に襲いかかり、間もなく地下に埋没させた。上流においては、流水量が減じたため平地部一面に深さ60メートル(諸説有る)、現在の明科付近まで達する巨大湖が現出し、数村が湖底に沈み十数ヶ村が浸水した。さらに地震から20日後の同年5月28日の夕方、今度は先述の巨大堤防が大崩壊をおこし、急流と化した水は川中島まで押し寄せ、31ヶ村に浸水被害をもたらした。

一昨年の夏に、曽遊の地というような思いで、若い頃テントを担いでキャンプした笹ヶ峰や戸隠高原を訪れた。
その際に、やはり善光寺にも詣らなければ、と考え、善光寺を訪問したのだが、その時には、善光寺そのものに対する関心が余りなく、聖徳太子と関連が深いとされていることなど、認識の外だった。
善光寺の由来等について、古代史の流れの中で把握し直してみたいと思う。
また、善光寺地震についても、聞いたことがある、という程度で、二次災害の大きさなどについては全く不案内だった。
幸いにして、江戸時代とは土木作業の機械化のレベルが全く異なっている。
自然ダムが増水しないうちに、排水路を設けて、二次災害の発生が未然に防げることを願う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月15日 (日)

岩手・宮城内陸地震と中山間地域

四川大地震(08年5月24日の項)から約1ヶ月、今度は日本の東北地方で震度6強の地震が起きた。
震源地は、岩手県内陸部で、震源の深さは約8キロメートル。地震の規模は、マグニチュード7.2と推定されている。
気象庁は、「岩手・宮城内陸地震」と名づけた。
被災地は、中越地震の山古志村(現長岡市)と同様の、いわゆる「中山間地域」である。

中山間地域とは、、「都市的地域」及び「平地農業地域」以外を指す言葉である。
具体的には、都市や平地以外の、中間農業地域と山間農業地域の総称である。
中山間地域は、自然と一体的に生活が展開されてきた空間である。
旧山古志村の風景写真は、私たちに「懐かしさ」の感覚を呼び起こす。それは人間の社会が、生態系の一部であったことの名残だと思う。
文明は、生態系と乖離する方向で進んできた。
そのこと自体は止むを得ないことだとは思うが、いくら文明が発展したとしても、究極的には自然とまったく関係のない形で生存できるわけではない。

2_3いま、日本の社会は、文明史的ともいうべき大転換期にある。
それは日本列島における人口の推移の予測図をみれば明らかである(07年8月17日の項)。
2006年をピークとして、日本列島の人口は急速に減少していくものと予測されている。人口は、最も精度の高い未来予測であり、この人口減少社会の姿は、P.F.ドラッカーの『すでに起こった未来―変化を読む眼』ダイヤモンド社(9411)である。
この人口変化の影響がもっとも深刻な形で現れるのが、中山間地域である。

中山間地域では、人口構成の高齢化が、他の地域よりも先行する。
つまり、高齢化と過疎化が同時進行することになる。
必然的に、コミュニティの機能も失われていき、最終的には生活の継続が困難になってくる。
人口の50%が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落を「限界集落」と呼ぶ。つまり、共同体として生きてゆくための「限界」ということである。
限界集落には、就学児童より下の世代が存在せず、独居老人やその予備軍のみが残っている集落が多い。

このような地域を自然災害が襲った。
携帯電話も圏外の地域が多いから、情報も十分には伝わらない。
限界集落は、いずれは消滅してしまう。つまり、消滅集落の予備軍である。限界集落の手前には、準限界集落が、限界集落の予備軍として存在している。

「食料・農業・農村基本法」(平成15年施行)では、中山間地域の振興が次のように規定されている。

 (中山間地域等の振興)
第三十五条 国は、山間地及びその周辺の地域その他の地勢等の地理的条件が悪く、農業の生産条件が不利な地域(以下「中山間地域等」という。)において、その地域の特性に応じて、新規の作物の導入、地域特産物の生産及び販売等を通じた農業その他の産業の振興による就業機会の増大、生活環境の整備による定住の促進その他必要な施策を講ずるものとする。
2 国は、中山間地域等においては、適切な農業生産活動が継続的に行われるよう農業の生産条件に関する不利を補正するための支援を行うこと等により、多面的機能の確保を特に図るための施策を講ずるものとする。

人口減少社会の中で、旧山古志村のような「懐かしい」風景、私たちの原風景を、どう保全して行くのか。きわめて難しい課題だと思う。
今回の地震では、東北新幹線には脱線事故等が起きなかった。警報システムの進歩の成果なのかどうか分からないが、わずかにホッとさせられた気がする。
しかし、東海道新幹線の範囲で同規模の地震が発生したらどうなのだろうか、ということが直ぐに気にはなるのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

聖武天皇の継嗣問題

聖武天皇に、皇子が誕生する。

神亀四年
閏九月二十九日、皇子が誕生した(母は光明子)。

十月五日 天皇が中宮に出御し、皇子誕生を祝って、大辟の罪(死罪)以下の罪を免じた。また百官の人らに物を賜わり、さらに皇子と同日に生まれた者すべてに、麻布一端・真綿二屯・稲二十束を賜わった。
十月六日、親王以下、左右の大舎人・兵衛・授刀舎人・中宮舎人・雑工舎人・太政官家の資人・女孺(ニョジュ:下級の女官)に至るまで、身分に応じて物を賜った。

十一月二日、天皇は中宮に出御された。太政官と八省は書状を進めて皇子の誕生を祝賀し、あわせて皇子のために玩具を献じた。この日、文武百官から使部(宮司の雑務に服する下僚)に至るまで、朝堂院において宴を賜わった。五位以上の者には身分に応じて真綿を賜わった。代々の名家の嫡子で五位以上の位を帯びる者には、別に絁十疋を加増した。
……
天皇は次のように詔した。
朕は神祇の助けにより、また宗廟の霊のおかげを蒙って、久しく皇位の神器をお守りしており、新たに皇子の誕生にめぐまれた。この皇子を皇太子に立てることとする。このことを百官に布告して、すべての者に知らせよ。

Photo_4皇子はまだ生後1ヶ月だった。つまり、皇太子には摂政的な意味合いは全く失われ、皇嗣としての意味だけとなった。
聖武天皇は、自分の体験を顧みて、皇嗣をめぐる争いを未然に防ぐための最も有効な方法を選択しようと考えたのであろう。
そこには、長屋王の即位の可能性を防ごうとする藤原氏の意向も反映していた可能性もある。

聖武天皇の皇太子・基皇子は、夫人の実家すなわち不比等の邸宅で養育されていた。
基皇子は病弱であった。

神亀五年
八月二十一日、次のように勅した。
皇太子の病が日を重ねても癒らない。三宝(仏法僧)の威力に頼らなければ、どうして病気をのがれることができようか。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体をつくり、あわせて観音経百七十七部を写し、仏像を礼拝して経典を転読して、一日行道(ギョウドウ:経をとなえながら仏像や仏殿のまわりをめぐる行)を行ないたいと思う。この功徳によって皇太子の健康の恢復を期待したい。

ところが、「九月十三日、皇太子が薨じ」てしまう。
さらに藤原氏を困惑させたのは、聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が皇子を出生したことである。
安積親王である。
藤原四兄弟は、安積親王の立太子を阻止すべく、対応策を協議したであろう。
生母の犬養広刀自は、藤原四兄弟にとっては継母にあたる犬養三千代の一族であるから、厄介である。
そこで考えられたのが、夫人の安宿媛を聖武天皇の皇后に立てられないか、ということであった。

安宿媛は、また皇子を出産する可能性もある。
広刀自と差別化しておくことが必要だし、たとえ皇子が生まれなくても、皇后になっていれば、即位の可能性も生まれてくる。
問題は、夫人の立后が可能かどうか、ということである。
皇后として立った者は、今まですべて皇女だった。
令制においても、妃は四品以上として皇女に限定していた。この規定を破ることは、宮子を大夫人と称することに比べられないほどの大問題である。
長屋王が承知するはずのない問題であった。
藤原四兄弟の謀議は、必死だったであろう。

天平元年(七二九)
二月十日 左京の住人である従七位下の漆部造君足と、無位の中臣宮処連東人らが「左大臣・正二位の長屋王は秘に左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月13日 (金)

藤原宮子の大夫人尊号事件

藤原不比等が、養老4(720)年8月に亡くなると、元正天皇は、舎人親王を「知太政官事」に、新田部親王を「知五衛及授刀舎人事」任じて、行政権と軍事権を分離して新体制の編成に臨んだ。
長屋王の処遇について、『続日本紀〈上〉』(宇治谷孟現代語訳:講談社学術文庫(9206))は、和銅7(714)年の条で次のように記す。

春正月三日、二品の長親王・舎人親王・新田部親王と、三品の志貴親王には封戸をそれぞれ二百戸、従三位の長屋王には百戸を増した。これらの封戸の租は、すべて封主に給される。食封の田租を全額封主に賜ることは、この時から始まった。

長屋王の邸宅跡から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土しているが、その解釈はともかく、長屋王が親王並みの扱いであったことが分かる。
この年の6月25日に、皇太子(聖武天皇)が元服する。
霊亀2(716)年春正月1日、従三位の長屋王は正三位に叙せられ、養老2(718)年には大納言に任じられる。
廟堂において、長屋王は不比等に次ぐ位置を占めるに至っていた。
したがって、不比等が没すると長屋王が中心になって体制が組まれた。
長屋王を首班とする新体制は、養老5(721)年正月に、長屋王が右大臣に任じられて成立した。

長屋王の政治は、儒教の政治理念にもとづく律令の運用であった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。
長屋王は、『懐風藻』や『万葉集』に作品を残し、中央における文雅の中心的存在で、佐保の山荘は文人のサロンだった。
長屋王の志向した儒教政治は、被治者を愚民とみる貴族主義的独裁主義であった。文人長屋王は、儒教の教義を、支配階級が支配欲を満足させる手段として、政略的に濫用したと見ることができる(中川:上掲書)。
長屋王の独裁的傾向は、次第に人心を離反させていった。

首皇子が即位(聖武天皇)したのは、神亀元(724)年2月4日のことだった。
両眼の赤い白亀が養老7(723)年に献上されると、元正天皇はこれを祥瑞として改元すると共に、譲位した。
天武直系の皇位継承が守られたわけである。

二月六日、天皇は勅して正一位の藤原夫人(宮子)を尊び、大夫人と称することにした。

これに対し、長屋王は次のように対応した。

三月二十二日 左大臣・正二位の長屋王らが奏言した。
うやうやしく今年二月四日の勅を拝見しますと、藤原夫人を天下の人々はみな大夫人と称せとあります。しかし、私ども謹んで公式令を調べますと、皇太夫人と称することになっています。先頃の勅号に依ろうとすれば、皇の字を失うことになり、令の文を用いようとすれば、違勅となることを恐れます。いかに定めればよいかわかりませんので、伏してお指図を仰ぎたいと思います。
次のように説明があった。

文書に記す場合は皇太夫人とし、口頭では大御祖(オオミオヤ)とし、先勅での大夫人の号を撤回して、後の名号(皇太夫人と大御祖)を天下につうようさせよ。

宮子を大夫人と称することにする勅は、内臣に任じられていた藤原房前が中心となって発案されたものであるが、勅令取り消しという事態によって、房前の面目は丸つぶれとなった。
聖武天皇の即位に伴って、妃であった安宿媛は夫人に昇格したのであるから、聖武天皇の母を大夫人と呼ぶことは、必ずしも藤原氏の強引な押し付けとは言えない。
しかし、長屋王は、巧みに令の文言を用いて、藤原氏に揺さぶりをかけたということができる。
この尊号事件が、長屋王と藤原氏とが対立する直接の要因となった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月12日 (木)

長屋王

平城遷都から10年後の養老4(720)年8月1日、藤原不比等が病床に就く。
廟堂(政府・体制-大宝律令により整備された。大宝2(702)年に参議制度が創設される)の第一人者であったから、病気平癒のためのさまざまな努力が行なわれた。
しかし、その甲斐もなく、8月3日に不比等は63歳の生涯を終える。その権勢からすると、あっけない死であった。
不比等が没したとき、4人の息子の中で廟堂に入っていたのは、次男の房前(フササキ)が参議になっていただけであった。
嫡男の武智麻呂は正四位下東宮傅、三男の宇合は正五位上常陸守、四男の麻呂は、従五位に叙せられたばかりだった(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。

不比等のあとをうけて政治を担当したのが長屋王である。
笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)の記述を見てみよう。

七二○(養老四)年、政界の中心人物であった右大臣藤原不比等が病死すると、翌年、皇族の長屋王が右大臣に任じられ、政治の実権を掌握した。王は高市皇子の子で、元明上皇の姉御名部皇女を母としており、上皇のあつい信頼をうけていた。王は、七二二(養老六)年に良田百万町の開墾計画を立て、翌七二三(養老七)年には三世一身法を施行するなど、律令制を維持するための思い切った土地政策を実施したが、七二一(養老五年)に元明上皇が没し、さらに七二四年(神亀元)年首皇子が即位して聖武天皇となると、故藤原不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の勢力が伸張し、王は次第に孤立した。

Photo_2長屋王については、1988年に、邸宅跡とされる場所から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土している。
「親王」という呼称は、「天皇の兄弟か、あるいは天皇の男の子」を指すから、長屋親王と墨書された木簡が出土している以上、長屋王の父親は、天皇だったというのが自然の推論である。
つまり、長屋王の父の高市皇子は天皇だったはずである(08年2月7日の項2月17日の項)。
ところが、史学会では、そういう考えが大勢になっていないらしい。

それはともかく、長屋王の父の高市皇子は、草壁皇子の没後、持統朝で太政大臣の任に就いていた。
太政大臣の職権は、皇太子の職権のバッティングする部分があった。壬申の乱も、大友皇子と大海人皇子のの職権の抵触が一因であったともいえる。
高市皇子のように、皇太子が没した直後に就任した場合には、皇太子のようにみられた。
また、高市皇子が没した後、軽皇子がすぐに立太子したことも、皇太子的地位にあったと推測される材料である。
高市皇子の太政大臣は、律令の太政官制が成立しようという段階で、聖徳太子以来の「皇太子摂政制」が、「皇族太政大臣制」と「皇太子皇嗣制」に分離する過渡期であった(中川:上掲書)。

長屋王が最初に叙位にあずかったのは、大宝選叙令に規定された皇親陰位制の最初の適用者として、規定よりも三階も上位の正四位上としてであった。
それは、皇太子的存在とみられていた高市皇子の嫡男としての処遇によるものとされる(中川:上掲書)。
もし、高市即位論(08年2月7日の項2月8日の項)が成立するとすれば、長屋王の別格扱いは当然ということになるだろう。
長屋王の最初の任官は、和銅2(709)年の宮内卿であり、廟堂は不比等が仕切っていた。
したがって、長屋王が、反不比等的な立場で政界へ登場したとは考えがたく、不比等によって取り込まれたとみる方が自然である。

長屋王の正室は、草壁皇子の皇女吉備内親王だったが、不比等の娘長娥子も嫁している。
ということも含めて、親不比等的色彩が濃かったと考えられる。それは不比等の深謀遠慮でもあっただろう。
文武が崩じたとき、首皇子はまだ立太子していなかったから、長屋王立太子さらには即位の可能性もあると考えられたのではなかろうか。
そこで、不比等は保険をかけたとも思われる。
不比等の動きは、皇親側も警戒するようになっていたであろうが、長屋王には緩衝役としての役割も期待されたのであろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年6月11日 (水)

秋葉原通り魔と心の闇

余りにも衝撃的である。
6月8日に、25歳になる自動車部品製造会社への派遣社員が、白昼、歩行者天国で賑わう秋葉原の路上で、レンタカーのトラックを暴走させ、さらに福井市内のミリタリーショップで購入した殺傷力の高いナイフを用いて、7人を殺害し、10人に重軽傷を負わせるという事件が起きた。
おそらくは意図してのことであるのだろうが、7年前に、大阪教育大付属池田小に包丁を持った男が侵入し、8人を殺害し、15人に重軽傷を負わせた事件と、同月同日である。
被害者にとっては、まったくの不条理であると言わざるを得ない。

報じられているところでは、容疑者は、静岡県裾野市在住。
昔は典型的な農村だった。トヨタ自動車が東富士研究所を設置したのを契機に、自動車製造産業のメッカに生まれ変わり、ハイテク産業の研究開発拠点としての性格も持つようになった。
県外からの流入者も多い。
容疑者は青森市の出身とのこと。ワンルームマンションでの独り暮らし。
結局「よそ者」の感覚が抜けないままだっただろう。
古い要素と新しい要素が、並存しているが融合はしていない。

裾野市を出てから、秋葉原で凶行に及ぶ間、携帯電話の掲示板サイトに書き込みをしていたという。

「秋葉原で人を殺します」
0521:車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら
0534:頭痛が治らなかった
0535:しかも、予報が雨 最悪
0544:途中で捕まるのが一番しょぼいパターン
0600:俺が騙されているんじゃない 俺が騙しているのか
0602:いい人を演じるのには慣れている みんな簡単に騙される
0603:大人には評判の良い子だった 大人には
0603:友達は、できないよね
0604:ほんの数人、こんな俺に長いことつきあってくれてた奴らがいる
0610:使う予定の道路が封鎖中とか、やっぱり、全てが俺の邪魔をする
……
0948:神奈川入って休憩 いまのとこ順調かな
……
1145:秋葉原ついた
1145:今日は歩行者天国の日だよね?
1210:時間です

行動報告と心情の吐露とが入り混じりながら、7時間弱の間に、書き込みは30回に及んだという。
最後の書き込みから20分の後、容疑者は歩行者天国にトラックで突っ込む。
そして、殺傷力の高いナイフで通行人らを刺している。
計画的な行為であったことは間違いないが、しかし、何か計画の根本にあるべきものが欠如しているような気がする。
計画とは、合理の行為ではないのか?
容疑者の行為は、狂気そのものだろう。

容疑者は、両親と弟の4人家族だという。
教育熱心な両親で、容疑者が子どもの頃は、そろばん教室や水泳教室に通わせていたという。
父親は地元の金融機関勤務だという。
地元の中学を卒業後、県内トップクラスの進学校の青森高に進学したという。
高校時代は目立たない、ごく普通の生徒だったという。

どこにでもあり得るごく普通の風景だろう。
自分自身をそこに置いたとしても、さしたる違和感はない。
デ・ジャヴュ?

あるいは、「全て俺の邪魔をする」という容疑者の被害意識も、分からなくはない。
例えば、自分の期待していない事象をウラメとして、それが起きる確率が2分の1だとする。
10回連続してウラメが出たとすれば、「全て俺の邪魔をする……」と思ってしまうかも知れない。
しかし、そういうことも1000回に1回程度は起こり得るのである。
その程度の「不幸なケース」は、1000人に1人程度の人が遭遇すると考えれば、決してレアだとも言えないだろう。
日本全体でならば、12万人にもなる。
「そんなものだ」と割り切ることも必要なのではないだろうか。

あるいは、そういう「不幸なケース」に遭遇する人がそれなりの数いるとしても、そこから無差別殺人の実行までには、越えるのが困難な高いバリアがあるだろう。
普通は、何かが、それを抑制させる。

その抑制のタガを外すのは何なのか?
これから先、生きていても、いいことなど起きるはずがない、という絶望感か?
IT化の進展によるネット社会の仮想現実の影響か?
あるいは、自分もやってみたいと思うような類似の事件の発生か?
加藤容疑者は、宅間死刑囚に触発されたのか?
とすれば、今回のケースを真似るような事件が続く可能性もあるということか?

??????

曰く不可解。
しかし、それが心の闇というものなのだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月10日 (火)

「時の記念日」の夢幻と湧源

今日、6月10日は、「時の記念日」である。
大正9(1920)年に、欧米なみの時間を尊重する意識を持つことを願い、生活改善同盟会という組織が、『日本書紀』の記述をもとに選定した。
先ず、斉明天皇6年5月条に、「皇太子、初めて漏剋を造る。民をして時を知らしむ。」とある。漏剋というのは水時計のことで、そのレプリカが、三島市の蓮沼川に設置されていることは、すでに紹介した(08年3月10日の項)。
なお、蓮沼川に隣接している源兵衛川は、先ごろ選定された「平成の名水百選」に選ばれている(http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=9797)。

『日本書紀』には、次いで、天智10年4月25日に大津宮に漏剋が設置され、宮中に時が告げられるようになった、と記されている。
2_2大津宮における「時の管理」業務は、左図のようなイメージで考えられている(http://www.little-hp.net/jikoku.htm)。
漏剋を管理していたのは、陰陽寮という役所で、交替で水の量をチェックして、鐘や太鼓で時報を鳴らしたとされている。
重要な仕事として位置づけられ、業務を怠った場合には、厳しく罰せられたらしい。

「白村江の敗戦」の後、中大兄(天智天皇)は、唐・新羅の脅威に対抗するため、軍や官僚を、従来以上に組織的に運用することが必要になったと考えられる。
そこで、日時計などに比べれば遙かに高い精度をもつ水時計が導入されたのだろう。
タイム・マネジメントは、組織的な活動の最も基礎的な条件である。

昭和15年に、天智天皇を祀るために大津市に建立された近江神宮では、毎年、6月10日に「漏剋祭」が行われている。
中大兄皇子は、667年3月に都を大和飛鳥から、近江の志賀に遷した。
翌668年正月、それまで20年以上も皇太子のままでいた中大兄は、正式に即位した。しかし、そのわずか4年後の671年12月には、46歳で崩御する。
天智の最後については暗殺などの疑惑も推測されているが(08年1月27日の項)、いずれにしろ672年には「壬申の乱」が起きて、近江京は灰燼に帰したのであり、わずか数年の首都であった。

柿本人麻呂の次の歌は、『万葉集』の中でも著名なものと言えるだろう(高木市之助他校注『萬葉集一』岩波書店(5705))。

  近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人磨の作る歌  (巻1-29)
玉襷(ダスキ) 畝火の山の 橿原の 日知(ヒジリ)の御代ゆ(或は云ふ、宮ゆ) 生(ア)れましし 神のことごと 樛(ツガ)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを(或は云ふ、めしける) 天(ソラ)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え(或は云ふ、空みつ大和を置きあをによし奈良山越えて) いかさまに 思ほしめせか(或は云ふ、おもほしけめか) 天離る 夷(ヒナ)にはあれど 石走る 淡海の國の 楽浪(サザナミ)の 大津の宮に 天の下 しらしめしけむ 天皇(スメロギ)の 神の尊の 大宮は 此處と聞けども 大殿は 此處と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧(キ)れる(或は云ふ、霞立ち春日か霧れる夏草か繁くなりぬる) ももしきの 大宮處 見れば悲しも(或は云ふ、見ればさぶしも)

  反歌 
ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ  (巻1-30)
ささなみの志賀の(一に云ふ、比良の)大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(一に云ふ、逢はむと思へや)  (巻1-31)

柿本人麻呂の活躍した持統朝には、既に草に埋もれた廃墟になってしまっていて、ここだと明確に示せないような状態になってしまっていた、ということだろう。
一時代を画した天智天皇の都ですら、まことに夢幻のようなものに過ぎないのだ、という感懐を禁じ得ない。
しかし、同時に、1300年余を経た後に、「時の記念日」として人々に意識されているという事実は、イノベーションをもたらした湧源性の力が、時代を超越することを示しているとも思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 9日 (月)

藤原不比等と平城遷都

『日本書紀』によれば、天智8(669)年、病気で衰弱した中臣鎌足の家を、天智天皇が見舞う。

冬十月十日、天皇は藤原内大臣(鎌足)の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。しかし衰弱が甚だしかった。それで詔して、「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。積善の家に余慶があるというのに、そのしるしがない筈はない。もし望むことがあるなら何でも言うがよい」といわれた。鎌足は、「私のような愚か者に、何を申し上げるこtがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗をさすか)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」云々とお答えした。
時の賢者はほめて、「この一言は昔の哲人の名言にも比すべきものだ。大樹将軍(後漢の馮異(フウイ))が、賞を辞退したという話と、とても同じには語れない」といった。
十五日、天皇は東宮太皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授けられた。姓を賜って藤原氏とされた。これ以後、通称藤原内大臣といった。十六日藤原内大臣(鎌足)は死んだ。

これが藤原氏の始まりということになる。
鎌足の死後、天武朝では一時勢力を失っていたが、鎌足の子の不比等が藤原の姓を継ぎ、持統女帝の皇権強化に協力して右大臣になった。
不比等については、正史での記述は限られているため、その果たした役割についてはさまざまに推測されている(07年9月1日の項9月7日の項9月15日の項08年5月18日の項等)。
不比等の功績は、大宝律令撰定の中心となったことと、養老律令の撰定にある(中川収『奈良朝政争史』教育社(7903))。つまり、律令体制確立の中心人物だったということだ。

不比等のもう1つの側面が、自分の子女を皇室に入れて、宮廷に外戚の地位を確保したことである(系図は、中川:上掲書)。
2娘の宮子が文武天皇の夫人となってのちの聖武天皇を生み、宮子の妹の安宿媛(アスカベノヒメ:光明子)が聖武天皇のもとに入り、後に立后して孝謙天皇の生母となった。
安宿媛は不比等と県犬養橘三千代の間の子である。
三千代は、美努王(栗隈王の子で、壬申の乱の勃発時に、父と共に大友皇子の軍兵徴集の要求を拒否している)の正室として、葛城王(橘諸兄)、佐為王(橘佐為)、牟漏女王の母であったが、美努王のもとを去って不比等の後妻になっている。
この間の事情についてはよく分からないことが多いが、林青梧氏の説を紹介したことがある(08年5月20日の項)。

三千代は、軽皇子(文武天皇)の養育にもたずさわり、後宮で大きな力を持ったと考えられている。
奈良時代の政争史の1つの側面が、藤原氏と橘氏との争いであることを考えれば、三千代の立場は複雑である。
文武天皇の死後、生母の元明(草壁皇太子の妃)が即位した。
嫡子の首皇子はまだ7歳だったから、文武が成人するまで持統が即位したことに倣ったとされる。
首皇子はまだ立太子していなかった。首皇子が皇后の所生でなく、舎人、長、穂積、新田部らの天武直系の皇子たちに対する遠慮があったからではないか、ともいわれる。

文武は、母の元明に後事を託すと共に、不比等にも協力を要請したと想定される。
不比等は廟堂において、左大臣の石上麻呂に次ぐ位置であったが、石上麻呂はすでにに70歳であったから、20歳若い不比等が実権を握っていた。
武蔵国から銅が産出されたことを瑞祥として、和銅と改元された(708年)。そして平城京への遷都が決定され、和銅3(710)年に平城に遷都し、奈良時代が幕を開ける。
平城の宮城の東側に不比等の邸宅があり、宮城の東側を張り出して隣接させ、その部分に東宮院を設けて、首皇子の擁護を目論んだ。
石上麻呂が、平城遷都の際、藤原京留守司に任ぜられているのと対照的である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 8日 (日)

大伴家持とその時代

大伴家持は、『万葉集』の編纂に関与したことが確実とされる人物である。
『万葉集』の最後を飾っているのは、家持の次の歌である(高木市之助他校注『萬葉集四』岩波書店(6203)。

  三年春正月一日、於因幡國廰賜饗國郡司等之宴謌一首
新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
 右一首、守大伴宿祢家持作之。

  三年春正月一日、因幡國の廰にして、饗を國郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新しき年の始め初春の今日降る雪のいや重け吉事 
 右の一首は、守大伴宿禰家持作れリ。

ちなみに現代語訳は、以下のようである。

新しい年のはじめの新春の今日降る雪のように、ますます重なれ、よいことが。

3_4『万葉集』がこの歌で閉じられていることは、『万葉集』編纂の意図と係わっているものと思われる。
大伴家持は、旅人の子で、大伴氏宗家の長男として、養老2(718)年に生まれた(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))。
実母の名前は不明で、弟に書持(フミモチ)がいる。妻は大伴坂上大嬢(サカノウエノオオイラツメ)で、妻の母坂上郎女は旅人の異母妹で家持にとっては叔母にあたる。
通説では、養老2(718)年に生まれたとされる。父旅人が、大宰帥(ダザイノソチ)だった幼少期には、大宰に下った。

大伴氏は、武門の家であり、系図は以下の通りである(小林惠子『本当は怖ろしい万葉集 完結編 大伴家持の暗号―編纂者が告発する大和朝廷の真相 』祥伝社(0611)。
家持は、『万葉集』では、天平10(738)年から天平16(744)年まで 内舎人(天皇や皇族の身のまわりの世話をし、護衛も兼ねる私的な雇人)とあり、17年正月に従五位、18年3月に宮内少舗、6月越中守に任命され7月に赴任した。
上掲の『万葉集』最後の歌は、天平宝字3(759)年正月の因幡の国庁での歌である。

家持が歌人として活躍したのはおよそ20年間ということになる。
「青丹(アオニ)よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」と詠われた奈良時代は、また政争の時代でもあった。
以下、奈良時代の略年表をみてみよう。
710:平城京に遷都
712:『古事記』編纂
718:養老律令なる
720:『日本書紀』撰上
724:聖武天皇即位
727:渤海より使者が来る
729:長屋王の変
730:薬師寺東塔建立
737:藤原四兄弟病没
------------
740:藤原広嗣の乱
743:紫香楽宮で大仏造立の詔
744:安積親王変死
756:聖武天皇の死
757:橘奈良麻呂の変
------------
764:藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱
769:宇佐八幡宮神託事件
782:氷上川継の乱
784:長岡京遷都

どうも奈良時代の政変は目まぐるしく、頭に入り難いが、家持は、まさに政争のただ中で歌人として歌を残したことになる。
文学としての歌という面以外に、史料としての面も興味を惹かれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 7日 (土)

『万葉集』の編纂過程

『万葉集』が編纂された経緯については諸説があるが、櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407)によれば、これまでの研究により、次のことが確認されている。
①長い時間をかけて、複数の人びとによる、数次の編纂を経て完成した
②完成するのは早くても宝亀2(771)年以後である
③編纂にかかわった有力メンバーとして、大伴家持がいた

『万葉集』が完成するまでの道筋は、以下のように推測されている。
Ⅰ.揺籃期
巻1と巻2が編纂された時期。この2巻は、雑歌(巻1)と相聞・挽歌(巻2)の三大部立からなり。歌は標目を立てて、時代順に並べられている。
標目は、両巻の巻末の「寧楽宮」以外は、「○○宮に天の下知らしめしし天皇の代」となっていることから、「寧楽宮」以下は後で書き加えられたものと推測されている。
伝承期の歌を別とすれば、巻1は舒明朝以後、巻2の相聞は天智朝以後、挽歌は斉明朝以降の歌が収録されている。
標目が立てられていないのは孝徳朝であり、舒明以後の系譜において、孝徳が舒明の皇統から外れていることから、巻1と巻2は、舒明朝の皇統を祝福して編纂されたのではないか、と推測されている。

また、巻1は、藤原宮への遷都(694年)までの歌を目途に、持統天皇の宮廷で編まれ、巻1の補遺と巻2の編纂が元明天皇の宮廷で行なわれたのではないか、とされる。
つまり、『万葉集』の編纂は、持統天皇の意思を介して行なわれたのではないかとみられている。
通説的には、壬申の乱に勝利した天武天皇は、近江大津宮から大和の地に回帰し、即位した。持統朝は天武朝とひと続きであり、天皇を神の後裔であって神に準じる存在であるとする「現(アキ)つ神=この世に姿を現している神」とする思想が生み出されていった時代である。
『日本書紀』の天武4(675)年の条に以下の記述がある(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808)

二月九日、大倭(ヤマト)・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張らの国に勅して、「管内の人民で歌の上手な男女、朱儒・伎人(ワザビト:俳優)を選んでたてまつれ」といわれた。

この勅は、宮廷への服属のしるしを求めたもので、中央集権的な律令国家をめざす施策の一環として理解される。
持統朝を代表する柿本人麻呂は、こうした時代背景の中で登場するものであり、宮廷やその主である天皇を賛美した宮廷讃歌が中心をなす。
『万葉集』は、このような動向の中で、宮廷伝来の歌をもとにして、持統天皇の時代に編まれはじめ、天武の父・持統の祖父の舒明天皇の皇統を祝福賛美する歌集としてまとめられたのではないか、とされる。

Ⅱ.編成期
『万葉集』の編纂の過程の画期として、天平17(745)年、18年が指摘されている。
巻16までの中で年代の分かる最も新しい歌は、天平16(744)年7月の作(巻3-481~483)であり、巻17以降(大伴家持の歌日誌的な体裁)で、天平18年の正月から始まる。
こうしたことから、天平17、8年ごろに、家持+αの人たちによって、巻16までの編纂が行なわれたのではないか、と考えられる。
この時期は、聖武天皇が、天平12(740)年に起きた藤原広継嗣の乱のあと、「彷徨五年(伊勢、美濃、近江、山背、難波)」を経て、天平17年9月に平城京に回帰した時期に重なる。
こうした事情から、元正太上天皇や聖武天皇を取り巻く人々によって、宮廷の安泰と永遠を願いつつ、平城遷都までの歌について編纂されたのではないか、とされる。
家持は、天平18年6月21日に越中守に任命されているので、天平17年9月26日の平城還都からそれまでの9ヶ月間というのが有力である。
左大臣橘諸兄や家持と親しかった市原王などが関係したとみられている。
紫香楽宮跡から出土した木簡(08年5月26日の項)が捨てられたのは、この編纂の時期の直前ということになり、『万葉集』に収録されている「安積山の歌」が、既にかなりの範囲で流布していたことを示すものと考えられる。

Ⅲ.完成・公表期
『万葉集』の巻末の歌は、天平宝字3(758)年正月に詠まれた家持の作品である。家持は前年に因幡国(鳥取県東部)の守に任命されているが、この後延暦4(785)年までに、さまざまな政治的事件の渦中にあったとされる。
家持の歌が軸になっている巻17以降の4巻は、家持の死の直前辺りに編纂されたが、家持は、死後も藤原種継暗殺事件に連座しており、家持の罪が許されるまでは、『万葉集』は公表されなかったのではないかとされる。
家持の罪が許されるのは延暦25(806)年3月17日、桓武天皇が崩御した日であった。『万葉集』が公のものとなるのは、桓武天皇の後の平城天皇の時代以降ということになる。
『古今和歌集』真名序には、『万葉集』が「平城天子」に命によって編まれたとされており、「平城天子」が誰を指すのかについての議論があるにしても、平城天皇と解釈して矛盾はない。
平城天皇は、嵯峨天皇に譲位して、大和の平城の古京で過ごしており、大和への思い入れが大きかったと推測される。
『万葉集』は、天武・持統天皇、聖武天皇、平城太上天皇と、ほぼ70年周期での3回の大和回帰と連動しつつ、編纂が進んだ、ということになる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月 6日 (金)

『万葉集』とは?…②日本という国の青春期

『万葉集』は、全20巻から成り、巻1~巻16(第1部)と巻17~巻20(第2部)に大別される(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))。
第1部は、おおむね時代順に配列され、「雑歌」「相聞」「挽歌」等の部立てによって分類されているのに対し、第2部は、大伴家持個人の歌日誌の色彩が濃い。また、第1部は、「柿本朝臣人麻呂歌集」などの個人の歌集や、山上憶良の『類聚歌林』『古事記』『日本書紀』などの諸本による注記や校合がみられるが、第2部にはまったくみられないなど、第1部と第2部は、構成、編纂の上で明瞭な差異がある。
こうしたことから、『万葉集』は、数次の編纂を経て現在のような形に整えられたと推測される。

『万葉集』の時代区分は、一般に次のように考えられている。
Ⅰ.伝承期
仁徳朝~推古朝
『古事記』下巻に重なる時代。歌の内容・形式とも記紀歌謡を脱していない。
磐姫皇后(仁徳天皇の后)、雄略天皇、聖徳太子などが作者とされているが、実作者ではなく伝承歌と考えられている。

Ⅱ.第1期(開花期)
舒明朝(629~641年)から壬申の乱(672年)までの期間。
天智天皇の近江朝廷は、唐風文化を摂取して漢詩文が開花した。しだいに個の自覚による文学意識が芽生え、躍動的な調べ、みずみずしい抒情の世界がきざし始めた時期。

Ⅲ.第2期(最盛期1)
壬申の乱の平定後(672年)から平城京遷都の和銅3(710)年までの期間。
皇室関係も多いが、柿本人麻呂が代表歌人。
柿本人麻呂の登場によって、長歌の長大化と形式の整備が完成した。

Ⅳ.第3期(最盛期2)
平城京遷都から天平9(737)年までの期間。
『古事記』『日本書紀』がなり、『風土記』撰進の詔が発せられ、律令の撰定が行なわれた。
笠金村、山部赤人、大伴旅人、山上憶良、高橋虫麻呂らが代表的で、個の自覚がいっそう進んだ。

Ⅴ.第4期(爛熟期)
天平10(738)年から天平宝字3(759)年までの期間。
天平8、9年には悪疫の流行で、藤原房前、麻呂、武智麻呂、宇合の四兄弟が次々と病死し、橘諸兄政権が成立した。
天平12(740)年に藤原広嗣が反乱を起こし、聖武天皇は奈良の都を去って、流離すること5年。
天平15(743)年には、墾田永世私有令が発布され、律令体制が綻びをみせはじめる。
大伴坂上郎女、湯原王、聖武天皇、大伴家持らが代表的歌人で、繊細・艶麗な世界が表現されてくる。

『万葉集』最後の歌は、大伴家持の次の歌である。

  三年春正月一日、因幡国庁にして、饗を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新しき年の始の初春の今日降る雪の いや重(シ)け 吉事(ヨゴト) (20-4516)

藤井游惟氏が、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)において、日本史上における「文書」作成量が、663年の白村江の敗戦以後急速に増大する、と指摘している(08年4月17日の項)が、それは上記のⅢ、Ⅳの時期に相当し、まさに『万葉集』の最盛期に一致する。
『万葉集』が古代韓国語で読める、という説がある。朴炳植『日本語の悲劇』学研M文庫(0203)などが代表的であるが、『万葉集』を表記したのが百済等からの渡来人が中心だったとすれば、あながち奇想天外な説ではないのかも知れない。

また、紫香楽宮跡で出土した木簡が捨てられたのは、744~745年と推測されている(08年5月26日の項)。
つまり上記Ⅴ(爛熟期)の真っ盛りであって、その頃には、後に『万葉集』に収められることになる「安積山の歌」が、既に広く知られていたことが裏付けられたわけである。
『万葉集』に収められた歌が詠まれた時代は、まさに日本という国のアイデンティティが確立していく時期であった。
河上徹太郎の「青春は感受性の形式を確定する時期」という言葉(08年5月27日の項)を援用すれば、『万葉集』の書かれた時代は、日本人の「感受性の形式が確定する」青春期に相当する時代だった、ということになるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年6月 5日 (木)

『万葉集』とは?

『雲の墓標』(5月27日の項)の主人公たちが学んでいた『万葉集』とは、どういうものだろうか?
『万葉集』の名前は、日本人ならば誰でも知っている、と言ってもいいだろう。しかし、具体的に、それがどういうものであるのか、ということになると、明快に説明でできる人の数はぐっと少なくなるのではなかろうか。
櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407)によって、その概要を見てみよう。

先ず、『万葉集』は、現存するわが国最古の歌集である、ということになる。
『古事記』や『日本書紀』には、歌謡や民謡が記載されているが、それらが和歌として形式的な完成を見せるのも、『万葉集』ということになる。
ところで、不思議なことであるが、これだけ有名な『万葉集』について、その名前の由来や成立の事情について、『日本書紀』にも『続日本紀』にも、記載がない。
記載がない、という事実が、これらの正史と『万葉集』との関係の一端を示していると考えられるが、その関係については諸説があって、いまだに定説とされるものはないようである。

成立の事情について、上掲書は、収載されている歌の性格をもとに、以下のように考察している。
1.歌の詠まれた時代
『万葉集』には4516首の歌が収められており、作者の総数は約450名である。
作者として最も古い時代の人は、巻2の冒頭に次の4首が載る磐姫皇后である。

君が行き日(ケ)長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにしか待たむ (85)
かくばかり戀ひつつあらずは高山の磐根し枕(マ)きて死なましものを (86)
ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに (87)
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何處邊の方にわが戀ひ止まむ (88)

磐姫皇后は、仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭の3天皇の母だとされる。
皇后の留守中に、仁徳天皇が八田皇女を召し入れたことを最後まで許さず、史上最も嫉妬深い皇后ということになっている。
上記4首は、磐姫皇后の実作ではなく、それぞれ独立した歌を編者が、起承転結というような形で構成したものだろうとされる。
「あせり-高ぶり-静まり-嘆き」といった心の変化である。

作者がほぼ連続するようになるのは、舒明朝(629年即位)から、最後の大伴家持の歌が作られた天平宝字3(759)年までの、ほぼ130年間である。
『古事記』(712年成立)が、舒明天皇の1代前の推古天皇で閉じられていることが注目される。
『万葉集』の巻1・2は、歌が時代順に並べられており、それぞれの時代のはじめに、「何々の宮に天の下知らしめしし天皇の代」という標目が記されている。
例えば、上記の磐姫皇后の場合には、「難波高津宮に天の下知らしめしし天皇の代/大鷦鷯天皇諡して仁徳天皇といふ」というように書かれている。
『古事記』でも、「何々の命、何々の宮に坐しまして、天の下治めたまひき」とあることから、書式的に共通性があるといえる。

『万葉集』の後の時代の歌をもとにして編まれた『古今和歌集』には、平仮名交じりの「仮名序」(紀貫之)と漢文体の「真名序」(紀淑望)がある。
「仮名序」では、『万葉集』に入らない古い歌や撰者たちの歌を奉らせて、それらをもとにして編んだと説明され、「真名序」では、「家の集」と「古来の旧歌」を奉らせて「続万葉集」として、それらを分類して20巻にまとめたと説明されている。
つまり、『古今和歌集』は、家々の歌を集めた「家の集」と、『万葉集』に入っていない古くから伝わる歌をもとにして編まれたということになる。
一方、『古事記』の太安万呂の書いた序文では、『古事記』が完成するまでの経緯として、「帝皇の日継(帝紀)」と「「先代の旧辞(本辞)」をもとにしてできあがったと記されている。

『万葉集』には序文がないが、『古事記』と『古今和歌集』の序文には、編纂の際の資料についての対応関係があることになる。
「帝皇の日継」に対して「家の集」があり、「先代の旧辞」に対して「古来の旧歌」がある、という関係である。
前者は、歴代の天皇家の系譜と家々に集められた和歌、後者は、宮廷の周辺に伝来した物語と歌ということになる。
これを『万葉集』にもあてはめてみると、<家々の歌集>と<宮廷伝来の古歌>を資料として編まれたとみることができる。
つまり、『万葉集』の編纂資料として、<家々の歌集>ともいうべき多くの先行歌集があること、巻1の宮廷を祝福賛美する讃歌のような<宮廷伝来の古歌>があったということになる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 4日 (水)

「君が代」挽歌説

全く驚くようなこともあるものだと思う。
「賀」や「寿」という字のイメージに繋がる「君が代」が、実は挽歌だったという。
室伏志畔『方法としての吉本隆明 大和から疑え』響文社(0805)に紹介されている藤田友治氏の説である。
吉本隆明といえば、今では「吉本ばななの父」と紹介されたりすることもあるらしいが、私の学生時代には大きな影響力を持っていた。今でも、「戦後思想を代表する」というような形容句はよく使われている。
私の体験的には、詩、文芸時評、追悼文などは心に響いてくるものがあったが、『言語にとって美とはなにか』とか『共同幻想論』などの、いわゆる主著と呼ばれている著作については、原理志向が強すぎて、結果として難解であり、影響を受けるという感覚にはならなかった。

しかし、「方法としての吉本隆明」というタイトルには惹かれるものがある。特に、著者が、異端の史学ともいうべき古田武彦氏の系統の中で、さらに異端を自負する室伏氏であれば、である。
室伏氏の方法論は、自ら幻想史学と名づけている「幻視」を中心とするものであり、必ずしも普遍性を持たないと思われる。異端とならざるを得ない性格のものといえるだろう(08年4月25日の項)。
「幻視」については、阿川弘之さんの『雲の墓標』新潮文庫(5807)のモデルでもある大浜厳比古さんの『万葉幻視考』集英社(7801)が、まさに「幻視」を方法とするものであり、改めて対象にしたいと思っている。
室伏氏が紹介しているのは、藤田友治『「君が代」の起源―「君が代」の本歌は挽歌だった』明石書店(0501)である。

昭和19(1944)年生まれの私たちの世代は、「戦争を体験した」とは言い難い。
戦争中に生まれはしたものの、戦争の間はまったく無自覚であり、もの心ついたのは、戦争復興が本格化した頃からのことである。
だから、「君が代」を歌ったり聞いたりする機会も、学校の入学式や卒業式などの儀式、あるいは大相撲やオリンピックやワールドカップなどの場合が殆んどである。

従って、「君が代」について、斉唱を強制するようなものか、という思いはあったものの、その由来や起源などについての関心は、正直なところ殆んどなかった。
「君」は天皇もしくはオオキミのことであり、その御代が、「千代に八千代に」つまり末永く繁栄することを祈願したものだ、というふうに理解してきた。
「さざれ石の厳となりて」などというのは、まあ何となく悠久の時間のことを言っているのだろうという感じはしたが、余り深く考えてみたことはなかった。

だから、古田武彦氏らが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』であって、現在の天皇家とは無関係だ、ということを、動かし難いと思われるエビデンス(地名・神社名・祭神名等)をもって示したことで、先ず驚いたのだ。
藤田氏も、古田史学の中心的な推進者の1人だった(05年8月に亡くなられている)。
藤田説の大要は、以下の通りである。
①「君が代」の歌は、賀の歌よりも挽歌の先の天智天皇臨終の歌に近い。
②『万葉集』では、「巌」の語は、死と墓場を意味している。
③「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は、挽歌のテーマである死と再生(転生)が歌いこまれている。
④『梁塵秘抄』は、「君が代」を、「塵も積もれば山となる」の諺と結びつけ、霊魂が蓬莱山に積もる死後の世界ととらえている。
⑤「君が代」は、『万葉集』に収められている次の歌の本歌取りの可能性が高い。

妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に苔生すまでに  河辺宮人(カハヘノミヤヒト)
(小さな松が大きく成長して、そこに苔が生えるまで、貴女の名前は永遠に語り継がれるでしょう)

つまり、水死した乙女のための鎮魂歌である。この歌には、「姫島で若い女性の水死体を発見した作者は、その女性を哀れんで詠んだ歌」という前書きがついている。つまり、この歌は、「賀歌」ではなくて、「挽歌」だった。
現時点では、「君が代=挽歌説」は、一般に受け入れられているとは言えない。
まあ、本歌が挽歌であったとしても、一般の理解が賀歌であれば問題ないのかも知れないが、卒業式などで強制して歌わせることは、如何なものだろう。
通達で強制する前に、「君が代」の起源や来歴について、もっとオープンな議論が必要なように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 3日 (火)

「君が代」と九州王朝

「君が代」は、『古今和歌集』の詠み人知らずから採られた、というのが一般的な説明であり、理解である。
これに対し、古田武彦氏らの「九州王朝」論者は、博多地方の地名等から「君が代」が筑紫の地に因む歌であることを論証し、『「君が代」は九州王朝の讃歌』新泉社(9007)として纏めている。
その論拠を、古田武彦『古代史の未来』明石書店(9802)から抜粋してみよう。

「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、つまり博多湾岸とその周辺の地名・神社名・祭神名から成り立っている。
A 「千代」…福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」…前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」…前原市井原(いわら遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」…苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

「いわほ」は岩穂。つまり、岩が語幹で、穂(あるいは秀)は接尾語であり、「いわら」は「岩羅」である。「羅」も接尾語で、早良は沢羅、磯良は磯羅で、「そら」「うら」「むら」など、「ら」は古代日本語の原型のひとつだという。

もし、例えば、上記の「B」だけだとしたら、偶然の一致ということもあり得るだろう。しかし、A~Dがセットで一致することは、もはや偶然とは言えないだろう。
さらに、志賀海神社(福岡市)の「山ほめ祭」では、「君が代」が、「地歌」「風俗歌」として、禰宜によって以下のような台詞が語られるという。

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 厳となりて 苔のむすまで
……
あれはや あれこそはわが君のめしのみふねや
……
志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に
……
今宵夜半につき給う御船こそ たが御船になりにける
あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ

わが君は、対岸の「千代」(博多湾岸)から、こちら(志賀島)へ渡ってこられる、という設定である。
この台詞は、祭の神事の最後に船上を想定した筵敷の場で櫂を持って行われるものだという。
志賀海神社は、福岡市東区志賀島の南側に位置する神社で、龍の都とも呼ばれ、伊邪那岐命の禊祓によって出生した「底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)」「仲津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)」「表津綿津見神(ウハツワタツミノカミ)」の三柱(綿津見三神)を祀っている。
全国の綿津見神社の総本宮である。

「三種の神器」の分布する博多湾岸の伝統行事に「君が代」の歌詞があったということで、その歌詞の中に、この地域の地名や神社名や祭神名などが入っているのは、偶然ではない。
安曇の君とは、九州王朝の君主のことであり、「君が代」は、大和朝廷に先行する九州王朝の歌であったことを示している、と古田氏は結論づける。
『古今和歌集』を編纂した紀貫之は、そのことを知っていたので、題知らず、詠み人しらずとして収録したのではないか、という。

そして、この歌に読み込まれているのが金属材料ではない、岩等であり、さざれ石が岩に成長する様子が、わが君の永遠をお願いすることを示しているという。
石を神とするのは縄文時代の信仰だから、縄文に遡るものだろうと推測する。
「君が代」批判の一種に、小さな石が大きくなるというのが非科学的だ、というものがあるらしい。
普通の自然現象は、厳が崩壊してさざれ石になるというものだろう。いわゆるエントロピー増大の法則である。

しかし、この部分は、一種の比喩ではないか、という理解があるという。
あたかも、小さな石が大きな岩に成長するが如きの長い長い間、 ということを示している、のだとする解釈である。
ところが、実際に小さな石が大きな岩になるという説もある。
「さざれ石」とは、小さな石のスキマが炭酸カルシウムなどによって埋められ、大きな石の塊に変化したものだという。このような意味でのさざれ石は、結構多くの場所にあるらしい。
http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_021.htm

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年6月 2日 (月)

「君が代」論争

5月29日に、平成16(2004)年3月に、東京都立板橋高校の卒業式で、国歌斉唱の際の不起立を呼びかけ、式典の開始を遅らせるなどして、威力業務妨害罪に問われた元同高校教諭に対して、東京高裁が、罰金20万円を課す判決が下された。
この裁判は、一審の東京地裁の判決に対する被告側の控訴を棄却したもので、被告側は即日上告している。
なお、求刑は、懲役8月だったから、有罪判決ではあったものの、量刑的には原告側主張は受け入れられなかったとみることもできる。

この裁判は、「君が代」の内容が争われたわけではなく、被告の行為が「威力」に当たるか否かが争われたものである。
弁護側は「君が代斉唱を義務付けた都教育委員会の通達は民事訴訟で違憲と判断され、通達に反対する呼び掛けは正当防衛」と訴えた。しかし、須田裁判長は「外部に対する積極的な表現行為により円滑な進行を阻害した」として威力性を認定し、「憲法21条は表現の自由を無制限に保障したものではない」と述べた。
なお、元教諭は、来賓として卒業式に招かれていたものだ。

元教諭の行為によって、卒業式の開始が約2分間遅れたという。
率直に言って、2分程度の遅れだったら、さほど大騒ぎすることもないような気がする。「威力業務妨害」というのは、いささか大仰ではないだろうか。
同時に、来賓として招かれていたのならば、式典の主催者の意に背くような行為も如何なものだろうと思う。
「君が代」を起立して斉唱することに反対ならば、卒業式の場以外のところで訴えるべきではないだろうか。
しかし、最も問題にすべきは、「君が代」斉唱を義務付ける都教育委員会の通達であろう。

都教委の通達は、平成15(2003)年10月23日に出されたもので、以下のような内容である。

1 学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。
2 入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。
3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr031023s_2.htm

この通達に対しては、平成18(2006)年9月21日、東京地裁が違憲判決を下している。
原告にはさまざまな人が含まれていたが、教員である以前に1市民としての個人史を持っており、その個人史から、日の丸・君が代を強制されることを苦痛に感じたり、強制に抵抗せざるを得ない、というのが原告側主張の根幹だ。
裁判は継続中で、最終的に確定しているわけではないが、違憲判決が出ていることはきちんと受け止めるべきだろう。
私は、日常生活において、関心の対象外にあるものを、儀式の際だけに強制しようとするところにムリがあるのではないかと思う。

国旗・国歌を法制化しようという動きの直接の契機は、1999年2月28日に、広島県の県立世羅高校の校長が、日の丸掲揚・君が代斉唱をするかどうかで、県教育委員会と県教組との間で板ばさみになり、悩んだ結果、自殺した事件が起きたことだった。
法的根拠が曖昧であることが混乱を増幅させたとする意見が、法制化推進を後押ししたということになる。

私自身は、「君が代」を歌わなければならないような儀式に出席する機会は滅多にないが、式次第に「国歌斉唱」とあるような場合には、ためらわずに歌う。
それは、「君が代」の意味・内容などとは余り関係なく、その式典の主催者に敬意を表するというような意味合いにおいて、である。
しかし、正直な話、「君が代」のメロディは、いささか歌いづらいとは思う。

「日の丸」や「君が代」に対しては、東亜・太平洋戦争の経緯等から、中国などには極端な反発がある。
その代表例が、今回の四川大地震の被災者救援に、自衛隊の輸送機を使うことの是非論の中に出てきた意見だろう。
中国内には、自衛隊を、旧日本軍と重ねてみる見方がある。
それは、中国政府の「反日=愛国」のプロパガンダの影響が大きいだろうが、中国侵略の事実は否定できないのだから、根気よく対応するしかないのではないか。自衛隊機に付いている「日の丸」が、強いシンボル性になっているらしい。

震災の被害者にとっては、一刻も早い救援物資を待っているだろう。それに自衛隊機を使うかどうかは、政府の判断である。
今回の場合、日本の政府内には、過去の経緯に留意するよりも、自衛隊機を公認させるいい機会だと捉えた向きがあったようだ。
つまり、今回の救援活動で自衛隊機が使用されれば、中国政府が自衛隊批判をしづらくなるだろう、という判断である。
もし、自衛隊機派遣が、本当に日中の関係改善に役立つならば、それは結構なことだと思う。

中国との関係あるいは東アジア世界での日本のポジションは、古代史の時代からの重要テーマである。
靖国参拝を強行した小泉元首相とは違って、福田首相は基本的に親中派だという。しかし、今回の対応は、いささか姑息で、大局的な判断に欠けていたのではないだろうか。
どうも福田政権の打つ手にはチグハグなことが多いような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 1日 (日)

「君が代」とは?

「君が代」は、平成11(1999)年)8月13日に公布・即日施行された「国旗及び国歌に関する法律」によって、法的に日本の国歌として定められた。しかし、実体的には、明治時代から、国歌として扱われてきたものである。
「国旗及び国歌に関する法律」は、下記のように、きわめてシンプルというか味気ないものである。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO127.html

国旗及び国歌に関する法律
(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)

(国旗)
第一条
 国旗は、日章旗とする。
 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。

(国歌)
第二条  国歌は、君が代とする。
 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

この別記第二には、以下のように歌詞が示されている。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで

この歌詞の表記については、平沼赳夫元経済産業相を会長とする超党派議連「国語を考える国会議員懇談会=国語議連」の設立総会において、平沼氏が、「いわお」を「いはほ」と正したい、としたと、5月29日の各紙で報じられている。
私も、国語の問題は日本のアイデンティティを考える上で重要な問題と考える者の一人であり、大いに議論して頂きたいと思う。
もっとも、この議連に関しては、「ほのかに政局のにほひ」がするとの声もあるようで、それはそれで気になるところではあるが。

この「君が代」の歌詞は、一般的には、『古今和歌集』の詠み人知らず巻七の巻頭歌に基づくものとされている。しかし、『古今和歌集』では、初句は「わが君は」となっていて、現在の国歌と完全に一致する形ではない、ということである。
私はごく単純に「君が代」の「君」は、「おおきみ=天皇」のことだと理解していたが、どうも必ずしもそういうことではないらしい。
WIKIPEDIA(06年10月18日最終更新)によれば、「君が代」もしくは「わが君」の「君」については、以下の3つの解釈があるという。

①「わたしの恋しいあなたは……」と恋人の長生を祈る歌
②「こちらのだんなさまは……」と祝言を専門とする芸能者が門付けによってその家の主の繁栄と長生を祈る歌、またはそうした態度をまねてある人がある人の長寿を祝う歌
③「わが大君は……」と天子の千秋万歳を祈る歌

そして、WIKIPEDEAでは、次のように説明されている。
「わが君は」として考えた場合、
a 詠み人知らずの民謡的な歌であること
b 4首続けて詠み人知らずの後に、仁明天皇が僧正遍昭の長寿を祈る歌が掲げられていること
などから、②の解釈が最も穏当であろう。
そして、民謡的な歌であることを考えれば、テキストに異文があることは奇異ではなく、「わが君は」と「君が代は」の両様が行なわれていたのであろう。
ただし、上記は『古今和歌集』採録時においては、ということであって、それ以前もしくは原初的に、どのように解釈されていたかについては、まったく見当がつかない。
「君が代は」とした場合にも上記の①~③はあり得るが、「君が代」は祝・賀の歌によく用いられることから、①の線は薄くなる。
「君が代」の表現は、『和漢朗詠集』に見られるが、その配列からは、明確に③の解釈を与えられている。

テキストということでいえば、次のような異文もあるらしい。

イ 「千代に八千代に」(冷泉家系統)
ロ 「千代にや 千代に」(二条家系統)
これについては、「国旗・国歌法」の別記に示されているように、「イ」とするものが大勢ということであろう。

江戸時代になると、一般的な祝いの席で庶民の間で歌われるようになり、例えば婚儀の席で歌われるときは、「君」は新郎のことを指す、というように変わってきたらしい。
そして、明治時代になって、1869(明治2)年に、薩摩藩の大山厳(後の日本陸軍元帥)が、大山の愛唱歌だった薩摩琵琶歌からとって、国歌的な位置づけにしたということである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »