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2008年5月17日 (土)

壬申の乱…林青梧説

大海人皇子が、天智天皇の遺児の大友皇子の統括する近江朝廷への叛乱軍を組織し、実力によってこれを打倒し、皇位を獲得した「壬申の乱」は、日本古代史の中でも解釈が多様に分かれる事件といえるだろう。
既に、そのいくつかの側面について紹介しているが((ⅰ)研究史-08年1月21日の項(ⅱ)原因論争-22日の項(ⅲ)砂川史学-23日の項(ⅳ)国体論-24日の項)、林青梧氏の見解(『「日本書紀」の暗号』講談社(9009))を見てみよう。

林氏は、星野良作『研究史 壬申の乱・増補版』吉川弘文館(7801)に、「壬申の乱に戦い勝って、天皇となった天武は、古代貴族によって神と称され、現実的権力に、さらに超越的権威を付加して、律令体制の頂点に、確固とした地歩を築いたかに見える」としているのを、否定する。
・在位14年の間、大和から一歩も外へ足を踏み出すことのできなかった天武が、古代貴族たちから神と仰がれたというのは史実か?
・天武は、太政大臣も左右大臣もおかない「親政」を敷いたとされているが、それは律令体制の頂点に確固とした地歩を築いたこととどういう関係にあるか?
・『日本書紀』の編纂されていない時代に、「天皇制」などあったのか?

実力による皇位簒奪としての「壬申の乱」は、もちろん皇国史観においてはやっかいなシロモノであったが、すっかりタブーが取り払われたように思われる今日でも、明快な像が示されているとは言えないようである。
『日本書紀』の全30巻の中で、28巻は「壬申紀」といわれるように、ほとんどすべてが「壬申の乱」の記述で占められている。
それをどう解釈するかが、古代史の実像解明のカギであることは間違いない。
しかし、林氏は、例えば『日本書紀』の天武紀上の冒頭に、

天智天皇元年に、立って東宮(皇太子)となられた

という記述があるにもかかわらず、天智紀には、その記録がいっさいないのはどういうことか? と問う。
林氏の見方では、中大兄は、葛城皇子と余豊璋が合わさったものとされているが、のちの天智王となるのは、豊璋の方であるとする。
豊璋は、国情騒然とした中で、7年間も称制のまま施政に当たっている。
一般的には、皇太子のままの方が政治をしやすかった、などと解釈されているが、林氏は、国内情勢が危なくておいそれと王位につけなかったのが実状ではなかったか、と見る。
国内が騒然とした状況にあったことは、『日本書紀』が、近江遷都の後、出火が多かったことを記していることからも窺える。
有名な「法隆寺が一屋も残さず焼失した」とするのも、天智9(670)年4月30日の条の一文である。
これらの出火は、白村江敗戦後の、唐・新羅双方の間諜たちの攪乱工作と見られる。もう一人の中大兄である葛城皇子を暗殺したのも、大海人皇子と唐の合作ではないか、とする。白村江の敗戦後の日本は、唐の占領状態下にあったという鈴木治氏の見解(08年3月7日の項8日の項)に、林氏も賛意を表している。

新羅が唐に対して反抗的になると、唐は、日本に新羅系王朝を立てて、新羅を牽制しようとしていた。
天智が死んで大友が即位し、傀儡政権を樹立するチャンスがやってきた。
重篤な病床にある天智は大海人を呼んで、後事を託そうとする。そこに謀を感じ取った大海人は、出家して吉野に入る。
ある人が「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言った。
しかし、出家して吉野に入ることが、どうして「虎に翼をつけて野に放つようなもの」なのか?

大海人が決起する契機として、『日本書紀』は、次のように書く。

「朕が位を譲り世を逃れたわけは、独り病を養い、身を全くして長く百年を終えんとしたためである。然るにいま避けられない禍を受けようとしている。黙して身を滅ぼすことはできぬ」と言われた。

林氏は、次のように問う。
「朕が位を譲った」というのは、どういう意味か?
王位継承を辞退したという意味なのか? あるいは、近江京の日本国王余豊璋とは別に、大和京で即位したのを、日本国王に譲った(日本国は倭国を併合す)のか?
その前段に、「近江京から大和京に至るまでに、処々に監視人を置いている」という記述からすれば、近江京と大和京の2つの都があったのか?

この時、近江朝では、大皇弟(大海人)が東国に赴かれたことを聞いて、群臣は悉く恐れをなし、京の内は騒がしかった。ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れようとした。

この動揺ぶりには、攪乱工作の臭いがする。
瀬田川を挟んだ戦いの中で、近江軍の指揮をとったのは将軍智尊とされているが、智尊なる人物についての説明がない。林氏は、唐人か大海人側から送り込まれた工作員ではないか、としている。
また、近江側の将軍羽田矢国が突然に大海人側に寝返ったとされている。矢国は、山部王の率いる近江主力軍の将軍であったが、副将の蘇我果安と巨勢比等が山部王を殺したため、果安らを処分して大海人軍に投じた。それは、あらかじめ大海人側と打ち合わせていたのは間違いないのではないか。

林説は、中大兄は2人いたからこそ、暗殺と病死が両立するのであり、天智と天武は、百済人余豊璋と新羅人金多遂だったからこそ、容易に対立抗争に走ったとみる。そして、大友は、豊璋の子であったからこそ、大和の豪族や左右大臣から簡単に見捨てられたとする。
唐が日本に内政干渉したのは、韓半島で新羅が離反の動きを見せたため、それを牽制するために唐の実質的な支配下にある新羅系日本政府を作りだしておきたかったからで、そう考えれば、多くの疑問が解けやすい。

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コメント

古代史最大の乱といわれているので、それに当たるものとしては、山部、藤原、白壁の乱がそれにあたるとすると、天武を白壁、高市を山部とすれば、775年の事績をこの時代に移して残したのではないかと思うのですが。

投稿: いしやま | 2014年1月16日 (木) 05時06分

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