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2008年5月10日 (土)

三王朝交替論

天皇家は、果たして神武以来万世一系として存在したのだろうか?
言い換えれば、日本には王朝交替はなかったのだろうか?
騎馬民族征服王朝説と並んで、戦後の古代史学に大きな反響を呼んだのが、1952年に提唱された水野祐氏の「三王朝交替説」だった。

別冊歴史読本『古代史論争歴史大事典』新人物往来社(0101)所収の小林敏男『王朝交替説』を見てみよう。
水野氏は、大化改新以前に血統を異にする三つの王朝が更迭されたとする。
崇神王朝たる「古王朝」(呪教王朝)、仁徳天皇の「中王朝」(征服王朝)、継体以後の「新王朝」(統一王朝)の三王朝の交替説である。
水野氏は、「『古事記』の崩年干支」「『記紀』の和風諡号」「『日本書紀』の空位の検討」に基づいて、王朝交替の結論を得た。

三王朝交替説を支持する論者は多く、議論が深められていった。
崇神王朝は、三輪山をシンボルとする「三輪王朝」であり、崇神・垂仁天皇とその皇子女に「イリ」の名辞が含まれるものが多いことから、「イリ王朝」とも呼ばれる。
仁徳王朝については、水野説は、南九州に在った狗奴国が河内に進出した、とするものであったが、河内に自生した勢力が三輪王朝を征服したとする「河内王朝」が盛行した。
水野説が、仁徳天皇を始祖としたのに対して、出自や系譜などから一代前の応神天皇を始祖とする「応神王朝」とする説や、「イリ王朝」との対比で「ワケ王朝」と称する説が登場した。
継体王朝は、その出自を越前とみる(『日本書紀』)越前王朝説と、近江とみる(『古事記』)近江王朝説に分かれる。

王朝交替説は、直木孝次郎、上田正昭、井上光貞などの堅実な実証主義的史家によって継承されたので、史学界でも受容者が多い。
しかし、「王朝」概念をどう捉えるかという点に関しては、異論も少なくない。
普通には、全国的な統一政権(王権)というような意味で使われるのであろうが、そういう意味での「王朝」という認識が成立したのは何時なのか?
例えば、奈良時代の天武系から、光仁・桓武の天智系に王統が交替したときではないか、というような議論がある。

また、三輪王朝とか河内王朝という場合の「王朝」という場合、支配体制との関係をどうみるのか?
つまり、政権と王朝はどう異なるのか?
支配体制には変化があったのか、なかったのか?
天皇を補佐する大臣や大連は、武列から宣化の間で一貫していて、武列と継体の間に断絶があることは覗えない、とする説もある。

焦点の1つが、継体天皇である。
日本書紀〈上〉』(宇治谷孟訳)は、継体天皇について、以下のように系譜を記す。

男大迹天皇(オオドノスメラミコト)--またの名は彦太尊(ヒコフトノミコト)--は、応神天皇の五世の孫で、彦主人王の子である。母を振媛という。振媛は垂仁天皇の七世の孫である。

笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)は、「傍系の皇族が畿外から迎えられることは異例のことであり、継体天皇の即位は、事実上新王朝の創始を意味していた」とする。
事実上の新王朝の創始とはどういう意味だろうか?
形式上は、前王統を継承しているが、実際は簒奪者としての性格を持っていたということだろうか?
「五世の孫」の中間の系譜が不明のため、議論が分かれるところである。

そもそも、「五世の孫」の血統をどう考えたらいいのだろうか?
血統性が、一世経るごとに1/2になるとすれば(実際は、他の要因もあるから最大で1/2ということだろうが)、(1/2)の5乗は1/32である。
それでも万世一系ということなのだとすれば、どの程度の血統性まで許容されるのか、という疑問が湧く。

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