「任那日本府」と内なる皇国史観
「任那日本府」をどう捉えるかは、日本古代史に対する見方のポイントの1つのように思われる。
例えば、1919年に慶尚南道に生まれ、10歳のときに渡日し、日本大学を卒業して日本で敗戦を迎えた金達寿の『日本古代史と朝鮮文化』筑摩書房(7601)に、「わが内なる皇国史観/「任那日本府」をめぐって」という一文が収載されている。
そこで、金氏は、日本読書新聞に掲載された、在日朝鮮人に対する「第三国人」という言葉に関する「謝罪文」に触れつつ、日本人(および一部の指導的韓国人)の日本列島と朝鮮半島の関係史に関する「意識」を問う。
金氏によれば、在日朝鮮人のことを「第三国人」と書いたということなどは、実は余り大したことではなくて、もっとシリアスな問題がある、という。
例えば、平気で、豊臣秀吉による「朝鮮征伐」と書く文芸評論家がいる。
これに関して、「広辞苑」が「朝鮮征伐」という項目を外すというエピソードが紹介されているが、それについては、秀吉が朝鮮に侵攻したという歴史的事実はあったのだから、まだいい方だろうとする。
金氏が取り上げているのは、高校教科書『新日本史』の次の記述である。
紀元三世紀ごろ、朝鮮半島の南部には韓民族がそのころの日本と同様に小国家群を作り、馬韓・辰韓・弁韓の三つに分かれていたが日本の統一と相前後し、四世紀の前半ごろ、馬韓・辰韓はそれぞれ百済・新羅という二つの韓民族の国家に統一された。四世紀にはいると、大和政権の勢力は朝鮮半島に進出し、小国家群のままの状態にあった弁韓を領土として、ここに任那日本府を置き、三九一年には、さらに軍隊を送って百済・新羅を服属させた。半島南部を征服した大和政権は、半島の冨と文化を吸収して、その軍事力と経済力を強化し、国内統一はこれによって著しく促進された。
この三省堂版『新日本史』の著者は、教科書裁判で、政府・文部省と検定の是非を争った家永三郎(元東京教育大学教授)である。
教科書裁判については、最高裁において、「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分は退けられたが、個別の検定内容については、家永氏の主張が認められている。
この教科書裁判によって、家永三郎という名前は、進歩的・反権力といったイメージと結び付いている。
しかし、上記の教科書の記述はどうであろうか?
金氏は、そもそも「日本」という呼称ができたのは660年代末であるとしているが、それは別として、そもそも4世紀はじめに「大和政権」といえるものがあったのかどうか、それがあったとして、朝鮮半島にまで軍事的進出ができるほどのものであったのかどうか、と問う。
そして、上記の家永三郎氏の文中にすら、「半島の冨と文化を吸収して、その軍事力と経済力とを強化し、国内統一はこれによって著しく促進された」としているのであり、それは、当時の「大和政権」が軍事力も経済力もまだ弱く、冨も文化もたいしたことはなかったことを示しているのではないか、とする。
金氏は、家永三郎の上記のような「大和政権」が「半島南部を征服した」とする見かたを、侵略史観であり皇国史観であるとする。
家永の認識の根拠は『日本書紀』だから、それは『日本書紀』史観でもある。
日本の歴史学者が、『日本書紀』に基づく皇国史観に呪縛されている例として、井上光貞『飛鳥の朝廷』講談社学術文庫(0407)が上げられている。
金氏は、『飛鳥の朝廷』の元版の小学館版「日本の歴史」の「月報」の座談会で、井上光貞が、「(任那を、今まで考えられていたように、日本の領土とは考えないが)、任那と呼ばれる地域は、弁韓の諸国の連合というような形で存在していたが、日本人がそこにいろんな権益を持っていたので、日本の勢力が軍事的に及んでいた」という趣旨の発言をしているのを、「明治時代の外務卿の井上馨のいった言葉だとしたら不思議ではないが」と皮肉っている。
ちなみに、井上光貞は井上馨の孫にあたる。
この『飛鳥の朝廷』で、金氏は、『日本書紀』が「任那」といっている加羅諸国がさいごに滅びたのは、562年のことであった、としているにも拘わらず、推古30(622)年に、新羅征討の議がもちあがり、数万の兵が新羅に発向することになって、任那に集結して新羅をおそった、と書いている井上光貞の矛盾を指摘している。
それは、結局、『日本書紀』史観、皇国史観から抜け出ていないからではないか?
話題を呼んだ『新しい歴史教科書―市販本 』扶桑社(0106)では、「大和朝廷の外交政策」の「朝鮮半島の動きと日本」で以下のように記述されている。
古代の朝鮮半島や日本列島の動向は、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された。220年に漢がほろびてから、589年に隋が中国を統一するまでの約370年間、中国は小国が並び立つ状態で、朝鮮半島におよぼす政治的影響力がいくらか弱まった。
急速に強大になった高句麗は、313年に、このころ中国領土だった楽浪郡を攻め滅ぼした。中国を中心とした東アジア諸民族の秩序にはゆるみが生じ、大和朝廷もこれに対応して、半島への活発な動きを示した。
高句麗は、半島南部の新羅や百済を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援をあおいだ。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流をもっていた。そこで、4世紀後半、大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵した。大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。
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コメント
日韓の学者は、任那日本府の関連の議論で完全に抜け落ちているのは、中国との関係である。
西暦478年に、倭王武は、中国から、朝鮮半島諸国の軍事を監督する官位を貰っている。
これに関しては、中国という第三者の歴史書に登場するのという事実が非常に重い。
実は、この時代においても、朝鮮半島情勢においても、中国皇帝の権威というのは非常に重く、倭の任那日本府(任那倭府)も、倭国王が中国皇帝の臣下の位に任命されて、それを元に認められたものだった。
倭が朝鮮半島に軍事介入したのは、西暦4世紀であり、高句麗がこれを非難し、複数、軍事衝突があったことが認められる。
その後、西暦5世紀になると、倭国が中国に朝貢し、中国から朝鮮半島を軍事的に管理する官位に任命してくれるよう要求し始める。
ただ、当初は、中国は、倭の要求を無視した。
しかし、西暦478年に、中国が倭国王に、朝鮮半島を軍事的に指揮する官位を与える。
そして、ちょうどこの頃、朝鮮半島南部に、日本起源の前方後円墳が出没するである。
投稿: Q | 2009年5月22日 (金) 11時07分
Q様
コメント有り難うございます。
この辺り(だけではないのでしょうが)の歴史については、解釈が錯綜していて、そこが面白いところだとも思います。
私自身の見解といえるようなものは未だ確立できていませんが、少しずつ考えをまとめていければと考えています。
今後とも宜しくお願いします。
投稿: 管理人 | 2009年5月31日 (日) 11時11分