白雉の政変
大化改新否定論者の原秀三郎氏が「白雉惟新」を唱えていることは既に紹介した(08年4月5日の項)。
それは、孝徳朝の実体は白雉以降であり、その記録が大化年間に集中的に集められたのではないか、とするものである。
原氏は、「白雉惟新」論の具体的内容を以下のように想定している。
第一に「評制」が施行された。
第二に、白雉改元をした。
第三に、白雉2年に難波遷都を行った。これに伴い、畿内制を施いた。
第四に、653年と654年に遣唐使を派遣した。
これらの孝徳の新政は、儒教に基づく理想主的な政治であったため、現実面の経済政策や土地政策でぬかりがあり、中大兄と対立関係になった。
林青梧氏は、白雉改元は、日本列島における新羅系と百済系の主導権争いの1コマだとする。
新羅の武列王から、倭の孝徳王への肩入れを命じられて、大化5年に、金多遂が倭を訪れた。しかし孝徳朝は崩壊寸前で、金多遂も手の打ちようがなかった。
『日本書紀』では、翌年(大化6年)の1月1日から、突然に「白雉」に年号が変わっている。その理由は説明されていない。
2月9日の条で、白雉が現れたことを瑞祥とみる、という説明がある。
白雉出現の意義を問われて答えているのは、百済君豊璋である。
つまり、孝徳王に代わって、豊璋が百済系の斉明(皇極・宝)女王の復活を図った政変だった。
冬12月の晦日の条に、この年、新羅の朝貢使知万沙飡が、(唐の服を着て筑紫に来たため)追い返され、巨勢大臣が、「今新羅を討つべし」と上奏した、というような記述がある。
文定昌『日本上古史』(1970)は、この時期、倭朝は、新羅系孝徳王の大和国と、百済系白雉朝の併立王朝だった、としている。
白雉朝の遣唐使派遣は、新羅系を一掃した百済系王朝が、唐の反応を確かめるためのものであった。
新羅系の高向玄理は、翌年の遣唐使に加えられ、唐に追放されて唐で死去する。僧旻は、病に倒れる。僧旻を病床に見舞った孝徳は、「もし法師が今日亡くなれば、自分はお前を追って明日にでも死ぬだろう」(宇治谷孟訳)と言った。
そして、皇太子の「倭京に遷りたい」という奏上を孝徳が拒否し、皇太子は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮に遷ってしまうことになる。
皇極上皇と記されているが、この時代に上皇という呼び名はない。
ここで林青梧氏は、大海人皇子の登場を重要なこととして指摘する。
乙巳のクーデター時にも、孝徳王の政権にも、全く影も形も現さなかった大海人皇子が、白雉王朝になって突然に姿を現した。
大化5年以前に倭にいなくて、それ以後倭にやってきた人物で、政治的に重要な人物は誰か?
林氏は、新羅王が倭に派遣した金多遂こそ大海人皇子であった、とする。
金多遂は、孝徳からの援軍要請に応えて来倭したのだったが、孝徳王をテコ入れできるような情勢ではなかった。
林氏は、大海人を、海の向こうから渡来し、新しく余氏に加わった大切な人物、というような意味ではないか、と解している。
この時期、韓半島では、高句麗、百済、新羅が、三つ巴の激闘を繰り返していた。
655(百済義慈王15、斉明元)年、百済、高句麗、靺鞨が同盟して新羅に総攻撃をかけ、三十余城を攻略した。
新羅の武列王(金春秋)は、「先滅百済、後討高句麗」を唐に提案し、唐の高宗はこれに同意した。
660年に、唐は蘇定方を帥として13万の大軍を発し、新羅軍5万が加わって、百済軍を一気に攻略して、百済は敗亡した。
斉明女王は、百済からの救援要請に応えて、豊璋を百済王に任じ、百済再興を図る。
ちなみに、林氏は、『日本書紀』において後に天智天皇となる中大兄皇子とは、葛城皇子と余豊璋の合体したものとしている。
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