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2008年5月12日 (月)

韓神と紀元節と古代史の闇

韓半島と天皇家の関係について、林青梧『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)は、驚くべき事実を指摘している。
それは、ある座談の席でのことである。林氏が、紀元節の起源について、次のような意見を述べた。
紀元節の始まりは、後醍醐天皇が、宮中に祀った「韓神」を自ら祭った儀式にある。建武2年2月11日のことで、それは上代における日韓関係の重要性を物語るものだと思われる。紀元節の復活論議は、それを説明した上で行なわれるべきだ。

紀元節といっても、私などは言葉として知っているだけで、体験しているわけではないが、それが現在の「建国記念の日」の祝日の前身であり、『日本書紀』が神武天皇が即位した日を元にして定められた、という程度の認識はある。
しかし、「韓神祭」などというものは、言葉としても知らない。
その座談に居合わせた人の大半もそうだったようだ。「本当か?」と問う人たちの前で、林氏は、その部屋にあった『広辞苑』で調べてみせる。

ところが、その『広辞苑』には、「韓神(カラカミ)」という項目は載っていない。昭和46年5月16日刊の第2版第1刷の『広辞苑』だった。
林氏の記憶では、確かに収録されているはずの「韓神」がない。林氏は、「からのかみ」が載っていること、さらに「からのかみのまつり」として、「〔韓神祭〕宮内省内に祀ってあった韓神の祭。古くは二月と十一月とに行なわれたが、中世以後衰え廃絶した」という説明があることを確認する。
しかし、2月11日という肝心な日付に関する記述は欠落している。

林氏の自宅の『広辞苑』では、「からかみ」の項目に、「〔韓神祭〕上代において二月十一日に行なわれた、宮内省の内にまつられてある韓神社の祭。中世以後衰え廃絶した」という説明があり、「からのかみのまつり」という項目はない。
第2版の『広辞苑』において、「からかみ」を消して「からのかみ」の項目を設け、2月11日を消す、という変更が加えられたことになる。
これが第3版では、「からかみ」が復活し、「からのかみ」に同じ、という説明があって、「からのかみ〔韓神〕」には、「朝鮮から渡来した神の意か」が追加され、「からのかみのまつり」の説明は、第2版と同じであった。

林氏は、上記の改変は、「2月11日と韓神の関連を断ち切る」ということだと推論する。
しかし、誰が、どういう判断によってなのか?
そのことに問題意識を持った林氏は、2月11日と朝鮮とのかかわりを追求すべく古代史探究の旅を始めることになる。

林氏は、古代史に関する疑問点(闇)として、以下のような項目を挙げる。
1.「倭」とは?
『魏志倭人伝』等に出てくる「倭」を、日本人の多くは、一個の独立国のように理解しているが、それは正しいか?
「倭」は、宗主国魏の冊封を受けた周辺従属国として位置づけられているのではないか? つまり「倭」は、「魏」の一部として認識されていたのではないか?

2.天智天皇と天武天皇の正体は?
「天智・天武非兄弟説」が注目を集めているが、それでは、天智や天武の正体は何か?
代々の天皇は可及的速やかに即位しているように見えるのに、天智はなぜ長期の「称制」をしたのか?
在位期間中に大和から一歩も出なかった天武の「天皇親政」とは、どんな政治だったのか?
つまり、「称制」とか「天皇親政」の実体・実像はどういうことだったのか?
さらには、天武の「殯」の異常な長さは何を意味するのか?

3.「大君」という呼称をどう考えるか?
一般的に、「大君」は「大いなる君」、つまり臣下の立場から天皇に捧げる尊称と考えられているが、それは只しか?
大臣(オオオミ)や大連(オオムラジ)という言葉があることを考えれば、「君」の筆頭が「大君」だったとは考えられないか?
つまり、もともとは、「君・臣・連」という氏姓制があって、君姓(キミカバネ)の中で最有力になった一家が「大君」となり、それが天皇と呼ばれるようになって氏姓制を離れ、氏名を消して神格化されたのではないか?

4.誰が入鹿を殺したか?
「乙巳のクーデター」に関して、『日本書紀』の記述に、古人大兄が「韓人鞍作を誅す」と言ったとある(08年3月19日の項08年3月24日の項)。
この韓人とは誰のことか?
「韓人が鞍作を誅した」のか「韓人の鞍作」が誅されたのか?
大兄が長男という意味とすれば、葛城皇子が中大兄という通称で呼ばれたのは、どういう意味か?

5.京(ミヤコ)は2つあったのか?
『日本書紀』の天智称制6年(即位の前年)8月の項に、《皇太子倭京に幸す》という記述がある。
皇太子とは誰か? 倭京とはどこか?
「××に幸す」というのは、行幸つまり都から地方に赴くことである。とすれば、どこの京から倭京(飛鳥?)に行幸したのか?
皇太子がのちの天智で、近江京から倭京に赴いたとすると、天智の即位は翌年なので、この時点では、天皇は不在で、近江と飛鳥の両方に京(ミヤコ)があったのか? 
つまり、二国が対立もしくは並立していたのか?

6.国号の変遷をどう考えるか?
『旧唐書』に「日本はもと小国にして、倭国を併合す」という記述がある。
倭国と日本は、別個のものなのか? とすれば「大和」はどう位置づけられるのか?
『日本書紀』では、「日本」「大和」「倭国」がヤマトと呼ばれている。
それは、ヤマトという音で呼ばれていた地域に対する諸勢力の呼び名の違いではないのか?
「日本」という国号や天皇制の発祥をどう捉えるべきか?

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