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2008年5月31日 (土)

唯物論と唯幻論の分水嶺

粕谷一希氏は、『二十歳にして心朽ちたり―遠藤麟一朗と「世代」の人々』洋泉社(0711)の中で、次のように述べている。

世代という言葉にはどこか甘美な響きがある。それは青春を共有する人々を指す歴史の言葉だが、人間誰しもある世代に属することを免れることはできない。それぞれが自分たちを待ちうけていた時代の児として生れ、その時代に参与しながら生きてゆく。その時間の流れに逆うことも超えることもできない。その人間の営みと仕事は、世代という宿命から離れることはできない。

世代論が意味を持つのは、青春を共有するからである。その共有された関係の中で、「(激しい)自己鍛錬を行い」「感受性の形式を確定」する。
粕谷氏の言葉を続けよう。

生の一貫性という視点からいえば、青春時代の旧友は、自らを確認し、確証するこよなき相手であろう。どのような栄耀栄華を得ようが、若き日の旧友の眼に耐えられない人生は空しい。どのように蹉趺の人生であろうと、語りうるひとりの旧友が、耳を傾ける旧友が存在する者は幸福である。

全くその通りだと思う。
その故に、学徒出陣によってその青春の途上で、生を断ち切られることになった阿川弘之『雲の墓標』新潮文庫(5807)の世代のようなことが、再びあってはならないと思う。
生き残った大浜厳比古氏や吉井厳氏などが、どのような思いで戦後史を眺めていたのか、もちろん知る由もないが、大浜氏が「書く為に飲み、書き了えては次の連載迄休息の為に飲み」といった風だった、という心情も、何となく理解できる気がする。

ところで、人は何のために酒を飲むのか?
昨日も、ゴルフの仲間と先日のコンペの反省会と称して飲み会があった。飲酒運転を避けるため、反省会は別の日に行なうわけで、まあ飲む機会を増やしているようなものでもある。
酒を飲めば酔う。あるいは酔うために酒を飲む。特に、青春期の交友は、私などの場合、飲酒と不可分だったように思う。
そして、酔いつつ果てしない議論を続ける。周りから見れば、ほとんど無意味なことのように感じられるだろう。しかし、その無意味の中に、何か重要なカギが潜んでいるのではないか、というのが私自身が酒飲みだということもあるが、「飲酒の効用」ではないかと弁護しておきたい。

「酔い」は、自然科学的には、個体としての人間に起きるアルコールの生化学的な反応ということになるだろう。
しかし、人間は、必ずしも生化学的に存在しているだけではない。精神的な作用も、もちろん生化学に還元される部分もあるのだろうが、現段階では、質的な差異を考える方が妥当だと思う。
その意味で、酒の向精神的作用は、生化学的な「酔い」だけでは捉えられないのではなかろうか。
人間が他の動物と異なることの1つは、人間が観念によって行動することである。観念を生み出す精神的活動(想像力)こそ、人間を人間たらしめる最も大きな要因である。
精神的活動は、物理的な現実とは相対的に独立した意味や象徴の体系(幻想)を形成する。すなわち文化である。

有名なA.H.マズローの「人間の欲求の発展段階説」によれば、人間は、生理的欲求や安全に対する欲求など基本的な欲求が充足されることを条件として、より高次の自己実現欲求などが顕在化してくる。つまり、「衣食足りて礼節を知る」ということである。
このような発想をもう少し定量的に説明するのが、年収1万ドルが社会心理や消費行動における一種の分水嶺となる、とする説である(笹川厳『ハト派の論理』PHP研究所(8009))。

平均的にいって年収が1万ドル位までは人間はマルクスの世界(=唯物論)に生きている。衣食住のミニマム生活水準を確保するための“生きる闘い”が行動原理である。
年収1万ドルを超えるあたりから,人は唯物論ではなく「唯幻論」(『ものぐさ精神分析 』中公文庫(9601)など)よって行動するようになる。
つまり、1人当たり所得が年収1万ドルを超えると、社会心理や消費行動に質的な差異が現れてくる、ということだ。
年収1万ドルが、唯物論から離脱して、唯幻論的世界に移行する分水嶺ということになる。

日本の社会がこの分水嶺を越えたのが、1985年のことであった。
電通や博報堂などの広告代理店のマーケッターが、日本の消費者が、「大衆」として一括りにできなくなっている現象を示す言葉として、「少衆」とか「分衆」と言い出したのも、ちょうどこの頃のことであった。
つまり、生活の必需的要素を満たす欲求は画一的であるが、より高次の欲求=精神的あるいは文化的欲求は、画一的には捉えられないということであろう。
その意味で、1万ドルの分水嶺は、「大衆」が「少衆」や「分衆」に分解していく分かれ目でもあった。
酒は世界中のどこの国にも古くから存在するポピュラーな向精神剤(精神に異常をもたらす薬剤や食物)であるが、1万ドルを超えた世界においては、ますます重要な意味を持つのではなかろうか。

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コメント

粕谷一希氏の文を調べていたら、こちらのブログに辿り着きました。共感し、引用させていただいたので、トラックバックさせて頂きます。

投稿: こうせつ | 2013年6月26日 (水) 22時29分

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