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2008年5月19日 (月)

持統天皇…林青梧説

持統天皇(鸕野讃良皇女)は、天智天皇と遠智媛の間の子供である(08年1月29日の項)。
大化元(645)年の生まれで、姉の大田皇女に次いで大海人の第二夫人となったが、姉が早く亡くなったため天武王の后となり、天武の後に称制期間を経て天皇に即位した。
大宝元(701)年に薨去しており、乙巳のクーデターから大宝律令発布までを生きたこの時代を象徴する人物ということになる。

鸕野讃良皇女はどこで出生したか?
河内国更荒郡(サラチゴオリ)鸕<偏・茲+旁・鳥>野邑(ウノノムラ)という地名があり、鸕野に因むのではないかと思われる。渡来人韓半島からの渡来人が多く居住していた。
林青梧氏は、中大兄の一人である余豊璋は、叔母の宝(皇極・斉明女王)を頼って倭京にやってきたあと、更荒地方を本貫としたのではないかと推測している。林説では、宝は、百済義慈王の妹であるが、倭国で舒明妃となった。
林氏は、中大兄のもう一方の葛城皇子は、葛木郡の出生と考えられるから、名前からしても、鸕野は余豊璋の娘ではないか、とする。

中大兄が、2人の人物の合成像であるとするならば、兄が弟に4人もの娘を差し出すという不自然さもある程度解消される。
葛城と豊璋の両者が大海人となる金多遂に2人ずつ娘を差し出して折り合いをつけようとした、ということではないか?
持統が豊璋の娘だとすれば、大王家の血脈の中に、横から割り込んだ形であり、外的には唐の郭務悰などから、内的には旧豪族たちから、たえず排斥除外されるかも知れないという恐れを抱いていたであろう。
その恐怖感は、持統に強い権力を志向させ、新しい国をつくろうとさせる原動力になった。
そこに、不比等と同一のベクトルがあった、と林氏はみるのである。

不比等が記録の上で登場した持統3(689)年2月26日の直ぐ後の4月13日に、持統の最愛の息子の草壁皇太子が病死した。
その直前に、「黒作懸佩太刀」が草壁から不比等に依託されている。
大津皇子の粛清に不比等が係わっていたのではないか、とする上山春平説について紹介したことがある(07年9月1日の項)。
上山氏は、この「黒作懸佩太刀」について、東大寺献物帳から由緒を引き出している。

右の刀は、草壁皇子が常に身につけていた刀であり、皇子はこれを不比等に与えた。不比等は、文武天皇即位のときに、これを天皇に献じ、天皇の崩御のとき、天皇はこれを不比等に与えた。そして不比等の薨去の日に、不比等はこれを、聖武天皇に献じた。

つまり、元明、元正の女帝の時には、太刀は不比等の手にあり、文武、聖武が立つと不比等から天皇の手に戻されていることになる。太刀は、男帝皇位の象徴である。
見かたを変えれば、男帝皇位が不安定であり、男帝の即位を嫌う外圧があったのではないか、とも考えられる。
そのような重大な太刀を、判事に任命されて間もない不比等が係わっていたとすれば、不比等は判事任命までに深く大王家に係わりを持っていたのではないか、と考えられる。

上山説のように、不比等が史書に登場する3年前の686年の大津皇子の謀殺事件に係わっていたとすれば、不比等と大王家との関係の深さが窺われるが、とすれば、その係わりの始まりはさらに以前に遡ることになる。
林氏は、それを天武9(680)年の頃だろうと推測している。不比等は21歳で、長男武智麻呂の生まれた頃である。
その頃、藤原京の薬師寺が、鸕野の病気平癒を祈願して発願された(薬師寺略年表は、08年2月24日の項)。
しかし、その頃鸕野が重病だったという記録はなく、名目上のことではなかったか?

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