二冊の正史
日本古代史には、『古事記』と『日本書紀』の二冊の「正史」がある。
林青梧氏は、『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)において、「一国に正史が二冊あるのは変ではないか?」と疑問を呈する。
『日本書紀』にも『古事記』にも疑問点があるが、両書の疑問点に関連性はないのか?
『古事記』の冒頭には、天武天皇が、諸家が持っている『帝紀』と『本辞』が正実を失い、虚実のあることを憂慮し、それを正して後世に伝えるべく、稗田阿礼に勅語して『帝皇日継』(『帝紀』)と『先代旧辞』(『本辞』)とを誦習させた……、とあり、それを和銅4(711)年に太朝臣安万呂に勅して記録させた、とある。
これはどう理解すべきか?
諸家が『帝紀』や『本辞』を持っていたとすれば、すでに文字で記録されていた、ということである。それをなぜ、稗田阿礼に新しく暗誦させ、さらに文字に書き記したのか?
また、『日本書紀』によれば、蘇我氏は、多くの王室文書を保持していたが、乙巳の変の際に焼かれてしまった、とある。
稗田阿礼は、失われてしまっている古記録を自分の目で見て暗誦したわけではないとすれば、暗誦したということ自体が、潤色もしくは虚構ではないのか?
14世紀に著された北畠親房の『神皇正統記』などには、桓武天皇の統治年間に、朝鮮関係の諸記録が焼き捨てられた、という記述があるという。それは、それらの諸記録に、「皇室」の祖先が、新羅に討滅された百済人だとなっていたからだろうと言われる。
以来、新羅(朝鮮)に対する優位性を持とうとする強い志向が現れてきた。
『古事記』や『日本書紀』が木版で印刷されたのは16世紀末(1596年)であり、1699(寛文9)年の刊本が行き渡っていたのであり、『古事記』や『日本書紀』にも改変が加えられているのではないか?
林氏は、その糸口を以下の諸点に求める。
1.『古事記』上巻〔序文の第一段〕
人皇第一代の神武天皇は、「大和の国」にお出ましになった、とされている。
つまり、既に「大和の国」が存在したのであって、「倭」や「邪馬台国」というような記述はない。言い換えれば、『古事記』が対象としているのは、「大和」以降のことであって、「大和」をヤマトと読み、その音の中に、倭も邪馬台国も封じ込められてしまっているということになる。
とすれば、文字の「大和」は何に由来するのか?
2.〔序文の第二段〕
天武天皇は、壬申の乱で、赤い旗をたてて戦ったとあるが、なぜ中国風のことをしたのか?
天武天皇の有徳が、黄帝や周の文王にまさる、と書かれているのはどういうことか?
3.大己貴・少彦名神
『広辞苑』第2版の「からのかみ」の項に、「大己貴・少彦名二神の称。宮内省に祀られた」とあり、『古事記』冒頭では、「高御産巣日」の子として「少彦名」と妹二神が登場し、末娘の「三穂津媛」が「大己貴命」の妃となるとされている。
とすると、「天孫系」とされている「高御産巣日」は、朝鮮からの渡来人ということになるのだろうか?
4.大八島
「大八島」とは、淡路、二名島(四国)、隠岐、筑紫、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(本州)とされている。ここで登場する「倭」とは?
5.天岩戸事件
天岩戸事件において、「天照」を岩戸から連れ出す際の岩戸の前の諸神のお祭を仕切るのが「天児屋命」である。彼は、中臣氏(のちの藤原氏)の祖であり、「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の天孫降臨の際の最側近五神の筆頭者とされている。この五神は、いずれものちに「大王家」の重臣層を形成する人々の祖先とされている。
このことは、『古事記』編纂の目的が、当時の大王家と藤原氏の関係の絶対化であったことを示しているのであろう。
とすれば、『古事記』は国内向けの書であり、『日本書紀』は国外向けの書ということになるのではないか、というのが林氏の推測である。
林氏は、古代天皇の寿命について問題にしている。
〔第五章〕の木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の話の項に、「天の神の御子の御寿命は、木の花のようにもろく、おいでなさることでしょう」という記述がある。つまり、『古事記』編纂時まで、天皇の寿命は長くない、とされている。
しかし、『記紀』における古代天皇の寿命は、著しく長い。
通説では、神武紀元を紀元前660年に設定したため、古代天皇の寿命が引き伸ばされたということになっているが、『古事記』編纂の時点では実際に歴史を目撃した人びとがいたのであるから、実際に若くして死んだ「大王」たちがいた、と考えるべきだろう。
彼らは、韓から渡来したときの、金とか朴とかの名前を持っていたのではないか?
古代天皇家と韓人の関係を、『日本書紀』の記述に探ってみると、以下のような事項が目につく。
1.垂仁紀
天日槍(アマノヒホコ)来日記事がある。新羅の王族の一人が、王の身分を弟に譲って、日本に渡来定着した話であるが、天日槍は、但馬国(兵庫県)を居所と定めた。
天日槍はさまざまな物品を持参するが、その中に、熊の神籬(ヒモロギ)がある。
朝鮮では古来、熊は人間の天敵だったが、熊を征服することができず熊との協調・慰撫を考え、熊(コム)は神(カム)になった。
もし、日本神道の元が、この時新羅から伝来したとすれば、「神仏習合」の底流には、渡来韓国人の、新羅系と百済系の合流というような意味もあるのではないか、と林氏は推測している。
2.応神紀
応神紀には、三韓との交流が表面に出てくる。
14年春2月に、百済王が縫衣工女(キヌヌイオミナ)を奉っているし、弓月君が百済からやってきて、百済の人々が渡来するのを新羅が妨害して、加羅に留まっていると説明する。
日本の朝廷は、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を加羅に遣わすが、3年経っても戻ってこない。
16年8月に、加羅に平群木莬宿禰(ヘグリノツクノスクネ)と的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)を加羅に遣わし、木莬宿禰らは弓月の民と襲津彦と共に還ってくる。
22年秋9月に、天皇が淡路島などに遊びに行っているときに、御友別が来て、その兄弟子孫をもって天皇の料理番として仕え、その仕え方が良かったので、吉備6県を料理番たちに与えたとある。
「御友別」とは何か? この文章は何を説明しているのか?
韓国ソウル大学出版部刊行の文定昌『日本上古史』(1970)に、以下のような記述がある。
第一編「日本上古史の概要」の第四章「倭の新羅侵寇と倭王応神の降伏」の第四節「応神王の明石浦降伏」の箇所である。
応神王が難波朝を創設したのが、二七○年である。難波朝と新羅との間に戦闘状態が継続し、新羅軍が攻勢を取って、遠く日本本州の腰部である瀬戸内海まで、攻め入った。たまりかねた倭王応神が降伏して、吉備国、すなわち今日の岡山県地方六県を新羅軍に割譲した。このような事実を、韓・日両国文献は、次のように記録した。
つまり、新羅軍を御友別、戦争を奉饗、敗戦を悦情と置き換えたということである。吉備の六県は、数世紀の間、難波や大和政権に協同したり反抗を継続したとされているが、『日本書紀』の仁徳紀における川島河派の大乱や雄略紀の吉備上道臣田狭父子の謀反、清寧紀の王子星川の事件などが相当するのではないか、と林氏は推測する。
天日槍渡来については、『日本上古史』は以下のように記述している。
垂仁王年代に、後日、日本上古史上、至大娜な影響を及ぼした事件が突発した。それは垂仁三年のつぎの記事だ。
春三月、新羅王子天日槍来帰焉。
新羅王子天日槍は(三韓)東海岸のどこかの地方を去り、北九州に入り、伊都県すなわち、今の博多地方を占領して、また瀬戸内海に入り、播磨、すなわち今の神戸地方を占領し、さらにその前の淡路島を占領し、また莬道川、すなわち今の淀川を遡上して、京都地方を占領し、また近江国=滋賀県をへて、若狭国と但馬=福井県を占領し、敦賀地方に進出し、その本国と交流した。
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