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2008年5月 7日 (水)

「任那日本府」不存在論②

朴天秀氏も、『加耶と倭/韓半島と日本列島の考古学 』講談社選書メティエ(0710)で、「『任那日本府』はなかった」とする章を設けている。
『日本書紀』では、4世紀から5世紀にかけて、百済と倭の親密な関係が記されている。
七支刀の伝来記事を裏付ける実物が、石上神宮に存在しており、両者間に交渉があったことは確かであるが、考古資料からみると、この時期の日本列島における百済の文物、百済地域における倭の文物は貧弱である。
つまり、5世紀代においても、日本列島との交流の主体は、地理的に近い加耶地域であった、と考えられる。

しかし、6世紀になると、日本列島における加耶系文物は少なくなり、百済系文物が増大してくる。
江田船山古墳の百済系副葬品や高野槙製の武寧王陵の木棺は、加耶地域と倭の日常的交易関係から、百済が対倭交易の主導権を握ったことを示している。
栄山江流域に前方後円墳が、突如出現することは、このような変化と相関していると考えられる。
百済と倭の交易が本格化するのは、6世紀初めからで、百済の文物は継体天皇と関連する地域に集中する。つまり、百済と倭の交易の本格化は、百済の復興と継体朝の成立によるものと想定される。
加耶勢力は、河内勢力と密接な関係にあったが、継体勢力は、加耶勢力を排して百済を交易の窓口とした。
それにより、河内勢力との差別化を図って、近畿の中での優位性を獲得していったのではないか、と推測される。

韓国南部の栄山江流域で発見された前方後円墳の被葬者は誰か?
各種の説があるが、以下のように分類できる。
1.在地首長説
2.倭人説
 1)倭からの移住者説
 2)倭系百済官僚説

2朴天秀氏は、栄山江流域の前方後円墳は、6世紀前半を中心にほぼ一世代に限定された時期に築造されており、かつそれらがまとまって中心勢力化したのではなく、基本的にひとつの盆地に一基ずつ分散して分布している。
1.「任那日本府」が成立し展開したという4世紀後半から5世紀代には、栄山江流域に前方後円墳は存在せず、撤退したと考えられている時期(512~532年)に突如出現している。
2.「任那日本府」という政治的な中心地の存在を示す古墳群を形成していない。
これらのことは、4世紀後半以降、韓半島の南部を支配したという「任那日本府」との係わりは想定できないことを示している。
朴氏は、「任那日本府」とは、6世紀前半、阿羅加耶に派遣された倭の外交使節団が一時的に滞在した「安羅倭臣館」を指すものではないか、としている。

朴氏は、栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、
1.周辺の在地首長系列とは無関係に突如出現する
2.墳形、埴輪形式、石室類型、副葬品など倭人固有の墓制を示す
ことから、在地首長ではなく、日本列島から渡来した倭人である、とする。
その出身地は、周防灘沿岸、佐賀平野、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域など、九州北部から有明海沿岸にかけた地域と想定される。

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コメント

朝鮮半島最古の歴史書である三国史記に、新羅の国王・脱解と宰相・瓠公が倭人だと明記されていますし、中国で発見された梁職貢図にも「新羅は倭に属していた」と書かれています。
また、広開土王碑も徐建新教授の拓本の研究で改竄が否定されましたから、任那日本府を否定する証拠はないでしょう。

投稿: ライダイハン | 2015年2月18日 (水) 18時26分

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