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2008年5月18日 (日)

鎌足と不比等

藤原不比等は、斉明5(659)年生まれだとされる。百済から出兵要請のある前年である。
白村江の敗戦のあと、倭・百済連合軍が九州に撤退し、近江大津を占拠したときには4歳であった。
不比等の父鎌足は、百済軍と在郷諸豪族との調停であった。その象徴的なシーンが、『藤氏家伝』に記されている「近江浜楼事件」である(08年1月20日の項)。

帝(天智)、群臣を召して、浜楼に置酒したまふ。酒酣(タケナワ)にして歓を極む。是に、大皇弟長き槍を以て、敷板を刺し貫きたまふ。帝、驚き大きに怒りて、執害(ソコナ)はむとしたまふ。大臣固く諌め、帝即ち止めたまふ。大皇弟、初め大臣の所遇の高きことを忌みたるを、茲(コ)れより後、殊に親ぶることを重みしたまふ。

林青梧氏は、この事件を、天智こと余豊璋と大海人こと金多遂の対決と、鎌足の調停とみる。
倭京の巨勢氏や大伴氏など、白村江出兵に反対した豪族たちは、大海人を担いだ。大海人は、豊璋と雌雄を決する覚悟で浜楼に臨んだが、豊璋も大海人を追い詰めて殺害してしまうつもりでいた。
その情報を得た鎌足は、自分の手兵に百済の軍装をさせて待機させた。
果たして会談で、豊璋は大海人に無理難題を浴びせて挑発した。
大海人が槍の穂先の鞘を払った瞬間、鎌足の手兵が大海人を包囲した。
余豊璋も、鎌足を責めることはできなかった。

鎌足は、天智8(669)年10月16日に死んだ。
その前日、天智(豊璋)は、鎌足に大織冠と藤原の姓を与えた。
鎌足は、新羅系による大化改新を主導した一人だった。律令制度導入において、新羅の方が百済よりも先進的であったからだが、孝徳王や大海人などの新羅系のリーダーは、実績を上げることができなかった。
皇極廃王一派の反撃を招き、白村江出兵の敗北まで招くことになってしまった。亡国百済軍ですら、倭の古京の諸豪族族の連合勢力を凌駕するものがあった。

不比等の名前が登場するのは、『日本書紀』の持統称制3(689)年2月26日の判事任命記事である(07年9月1日の項)。
その時31歳で位階は直広肆だった。その後右大臣にまで進むが、その事績は殆んど残されていない。それを林氏は、「あえて残すまいとした」のではないか、とする。
その隠されている不比等の事績と、「日本建国」の歴史が抱き合わせになっているのではないか。
不比等が出仕した時期も不明であるが、長男武智麻呂の生まれた天武9(680)年の直前の頃ではないかと推測される。とすれば20歳頃ということになる。

統一に向おうとしてしていた倭国は、中国に端を発した韓半島の動乱に連動して、滅亡した百済を背負い込み、国号を変更せざるを得ない結果となった。
そして、唐の介入によって、列島自身が動乱の渦を引き起こす場となってしまった。
林氏は、三韓を中心とする多種多様の渡来人とそれらのもたらした雑多混合の文化を、肥沃な日本列島の中で安定的に自立した国として統一するためには、これらの要素と条件を切り回し、配置し、新しい意識とイメージを誕生させる演出者が必要だった、とする。
それこそが藤原不比等に求められた役割であった。
そして、その重大な役割を不比等は見事にこなし、自らは歴史の地表から消えた。

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