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2008年5月16日 (金)

「日本国」誕生

白村江で破れた余豊璋は、高句麗に逃げたとされているが、その後の足取りは不明である。
倭軍はほうほうの態で撤退し、博多にひき返した。逃げ場を失った百済軍も倭軍を追って博多に押し寄せた。
白村江敗戦直後、倭と百済敗残軍は、2つの課題に当面した。
1つは、唐軍の追撃上陸であり、もう1つは、倭京の情勢である。

『日本書紀』は、中大兄の身分を、「素服称制」(白い服喪の服装で、即位せずに朝政を聴く)としている。
林青梧氏は、この状況を、九州の一角で、朝政を聴いたということであるが、北九州にいただけなのか、倭京の政治のことなのかはっきりしないが、明快に記述できないような混乱状態にあったことを示しているのではないか、としている。
葛城は倭京に戻り、大海人皇子に詔して、増位増官を行なう。
九州から飛鳥になだれ込もうとしてる百済の流亡貴族たちを迎え入れるための措置であった。
しかし、廷臣扱いされた大海人の怒りを誘い、大海人と葛城の対立の要因となる。

「天智暗殺説」については既に触れた(08年1月27日の項)。
井沢元彦氏が「天智暗殺説」を小説化した『隠された帝―天智天皇暗殺事件』祥伝社(9702)は、『扶桑略紀』という平安時代に書かれた史料の、以下のような記述をベースにしている。
山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。それで、その沓が落ちていたところを陵にした。その後も、天智の遺体は発見されていない。

林氏は、中大兄は、葛城皇子と余豊璋の2人が合成された人物像で、暗殺されたのは葛城皇子の方だったのではないか、としている。
『日本書紀』では、山科の里で、太皇弟(大海人)、藤原内大臣(鎌足)、群臣らがお供をして薬狩りをした、とされている。
天智は、鎌足と盟約を結んだのも脱げた履沓がきっかけであり、暗殺されたときも履沓を残している。
『日本書紀』編纂時に、中大兄を必要としたのは、この時暗殺された人物を、その後も生きていて即位するというストーリーとするためであったのではないか。
つまり、葛城と余豊璋の2人を合わせて中大兄としたのであり、葛城暗殺後の中大兄は豊璋のことである、ということになる。

豊璋は、博多に残留していたが、葛城行方不明(暗殺)を聞くと、飛鳥を金多遂(大海人)らの新羅系に押さえられているのを奪回すべく、ただちに飛鳥に入ることを周辺に諮る。
そして、飛鳥では補給線も確保できないことから、琵琶湖畔の南岸がいいという周辺の意見を聞き、近江に遷る。
葛城が処分されたのとほぼ同じ頃、九州に唐軍が進駐する。

(天智4年)
九月に二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わしてきた。--等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰をいう。全部で二百五十四人。七月二十八日に対馬着。九月二十日、筑紫につき、二十二日に表函をたてまつった。
冬十月十一日、盛大に菟道で閲兵をした。

天智8年のこの年条に、「大唐が郭務悰ら二千余人を遣わしてきた」とあり、天智10年11月10日条に、「唐の使人郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七艘に乗って比知島に着いた」というような記述があって、『日本書紀』の記述も整理しきれていないような印象を受ける。
それはともかくとして、林氏は次のように解説する。

退却する倭・百済連合軍を追撃して郭務悰軍が博多に上陸したとき、余豊璋の百済軍は、すでに九州を離れて畿内に乱入して、一気に琵琶湖畔大津地方を占領し、畿内に群居する百済人たちへ大津への移住を命じた。それを嫌う百済人は東国に逃げた。
郭軍は、菟道で閲兵した後、ひとまず筑紫に退き、九州の一角から倭ににらみを利かす。
近江に成立した政治体は、周辺豪族の制圧と併合にとりかかる。

三月十九日、都を近江に移した。
……
八月、皇太子(天智)が倭の京(飛鳥)におでましになった。

林氏が指摘した闇に包まれた古代史の謎の1つの「京が2つあったのか?」という疑問である。
余豊璋は、倭の古京の飛鳥に赴き、大海人と調停を結んで、新朝廷を樹立し、国号を「日本」とする。
『旧唐書』の記す「日本はもと小国にして、倭国を併合す」である。

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コメント

ここにこのようなものを掲載してよろしいか、判断保留のまま、載せてみました。
もし不都合であれば即刻削除願います。
iPSの話題から、それならば歴史も新しい歴史ストーリーが出来るはずと考えて、インターネットにある歴史のDNA分析も1300年記念の年で完成、歴史断片の中から、初期化する要素情報を捜すことにしました。さまざまに研究され分析され尽くされた中から、幸いにも4個の初期化する要素事実を取り出すことが出来ました。吉備津国、高句麗、若光、鉄製造
私は、次のような仮説を立てました。
大山の西は、690年に統一された。徳川が関が原で勝ったときのような意味ですが。まだ、大阪城は残り各地に支持勢力がいます。吉備津国が713年分割され、美作国がヤマトのものとなり、この分国と鉄製造の提案者 百済の何とか が国司として早速派遣された。
685年 白鳳寺院を各地に作らせる 高句麗の勢力あるところに白鳳寺院あり
689年 飛鳥浄御原令の発布をもって備前国、備中国、備後国に分割
    それから遅れること二十数年後、713年吉備津国滅亡、美作分割と丹波分割、出雲です
690年 撰善言司
711年には藤原の宮が焼失、(出張 二条城) ついに大阪城落城です。
712年 大長年号が終了する。
713年 好字令
703年 若光に王の姓が与えられる。
716年 各地の高句麗人が高麗郡に追い出される
724年 王若光 高麗郡司に初任  武蔵国司初任(百済)
731年 甲斐国司初任、諏訪国は廃止、信濃に併せる。
大山の東の山深い山中のなまよみの甲斐 蝦夷にヤマトの田辺国司初任。いよいよヤマトは東北地方に本格的に侵攻する。
日本が日本となったのは大山の西が統一されたとき、690年、それから日本とはっきり意識するまでには、ヤマトが大和と表記され、日本がニホンと読まれるようになるまでやや若干の時間が掛かった。
令制国とは一応、大山の西の統一された国々。
王若光は高句麗人で吉備津国の鉄製造の中心人物だった。だから特別待遇された。
甲斐には福徳がいた。それが追い出されて東の武蔵、高麗郡に移った。酒折の翁はその人である。 吉備津国の朝鮮の王子温羅伝説は、若光のこと。
温羅の話はそんな感じで、現代史をそのままに書くことができないので、忠臣蔵とも同じ。
国内は高句麗派とヤマト派の大きく二つの国に分かれていた。しかし渤海が成立して、高句麗派の朝鮮半島回帰の意味を失い、支持基盤が失われ、新羅との同盟から、親唐に意識が変わっていった。だから、吉備津国敗北と同時に、遣新羅使から遣唐使に変わり、白鳳時代は終わった。唐で遣唐使が日本と言って、710年平城京に移る。日本史が初期化したつもりです、歴史ストーリーに利用を期待しています。

投稿: 稲田麻緒 | 2012年11月 3日 (土) 05時36分

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