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2008年5月 3日 (土)

伽耶とはどういう国だったのか

仁徳天皇陵のような巨大な古墳は、巨大な権力の存在を想像させるが、応神天皇や仁徳天皇が果たして実在していたのかどうか、そして現在伝えられている古墳の被葬者だったのかどうか、本当はよく分かっていないようである。
『記紀』の記述に疑わしい部分が多いことは否定できないし、中国の史書には日本列島の状況に関して、空白の時期がある。
4~5世紀の日本は、謎の時代と言われている。

1990年7月、韓国釜山市の北西近郊にある金海市大成洞古墳群で、金官伽耶国の王墓と思われる遺跡が発見された(『歴史誕生12』角川書店(9110))。
大陸と古代日本を結ぶ朝鮮半島の玄関口として栄え、当時の先進的な技術・文化を花咲かせていたと伝えられる金官伽耶国については、それまで実体がベールに包まれた謎の存在だった。
そのベールが、ようやく剥がされつつある。

大成洞古墳群は、金海市の中心部の標高20m余りの細長い丘陵地にあり、丘陵の頂上部から、長さ8m余りの大型の木槨墓が多数発見された。
二号墳と称される木槨墓は、主槨全面に支配集団が使うとされる朱が塗られており、副葬品として、巴形銅器、筒型銅器などの青銅器、150枚の鉄鋋、甲冑・鉄剣・鉄鏃などの武具・武器・馬具が大量に出土した。
副槨からは、丸底長頸壺などの土器も多数発見され、この墓が4世紀末から5世紀はじめのものであると推定された。
この木槨墓は、伽耶で発見された古墳の中で最大規模であり、首長墓として時期が古く、金官伽耶国の王墓に間違いないとされる。

伽耶は、朝鮮半島では珍しく、豊かな森林があり、洛東江という大河が肥沃な土地を育んだ。
伽耶は、小国家の連合体だったと推定されているが、それぞれが独立的に他の朝鮮半島の国々や中国と外交を行い、それぞれの小国家が国力を保持しうる独自の力を持っていたとされる。
つまり、当時の伽耶は、新羅よりも先進的だったと想定されている。
しかし、統一されずにいたことから、結局は強大な隣国に圧迫され、6世紀に滅びた。

2_2日本では、この伽耶地域が、大和政権の支配下にあり、「任那日本府」が置かれたという見方がある。
一方で、韓国の教科書には、任那という言葉は一切登場しないし、日本府が置かれて倭がこの地域を支配したという記述は全くないという。
また、日本で任那とされている知己は、加耶とされ、その領域は狭い範囲とされている。

大成洞古墳群は、伽耶の建国説話の宿る北の亀旨峰と南の金海貝塚に挟まれ、すぐ東南に、建国の始祖とされる金首露王の王陵がある。
注目されるのは、出土品の鉄製品が、騎馬民族の習俗を受け継いだものであり、かつその豪華さからして、金官伽耶が、鉄の武器を持つ強力な軍隊に支えられていたのではないか、と推定されることである。
そして、従来、日本にしかないと思われていた巴形銅器が発見されたことである。
有名な吉野ヶ里遺跡から巴形銅器の鋳型が発見されているが、大成洞遺跡の発掘で、日本のものの2倍の大きさの巴形銅器が発見されたことで、その製作地についても再考を迫ることとなった。
また、筒型銅器も多数出土し、これまで日本製であるとされてきた朝鮮半島の筒型銅器も、伽耶製ではないかと見直されている。

上記の発掘成果は、鉄にしても土器にしても、青銅器にしても、伽耶が当時強大な力を持ち、高度な技術力を持った国であったことを窺わせるものである。
その伽耶と古代日本はどういう関係にあったのか?

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