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2008年5月25日 (日)

都江堰と信玄堤

甲府盆地は、果樹が豊富で、特に春の桃の花は見事である。遠くから見ると、地域全体が桃色に染まって美しい。戦国時代のヒーローの1人である武田信玄が勢力を張っていた地域である。
甲府盆地から流れ出る水は、最終的には富士川として駿河湾に注いでいるが、富士川の上流部は釜無川と呼ばれ、有名な暴れ川だった。「水を治める者は天下を治める」と言われるように、水を治めることは、地域にとって最重要課題であった。この暴れ川をうまく制御したのが武田信玄であった。

釜無川の「竜王の鼻」と呼ばれる地点が、治水上のポイントである。
甲府盆地の主要部は釜無川の扇状地であるが、その扇頂部に位置している。規模は別として、四川盆地における都江堰と似たような立地ということができる。
御勅使川が右側から、塩川が左側から合流し、大規模な氾濫が繰り返し起きてきた。
扇状地では、自然の状態では河川は扇頂部から扇状地面を無秩序に流れやすく、扇頂部は、水害防御のための要諦ということになる。

国土交通省甲府河川国道事務所のHPに、信玄の治水方策が解説されている。
その概要を以下に紹介する。(http://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/kai/kai_kawa/shingen/shingen_05.htm
2_2御勅使川の河道を安定させるために、A地点(白根町築山)に巨大な「石積出し」を作って扇頂部における乱流を抑止する。
B地点(白根町有野)とC地点(韮崎市竜岡)に「将棋頭」という分流構を設けると共に、D地点(堀切橋付近)を開削して新たに河道を作り、流れを二分させて水勢を弱める。
E地点(韮崎市御座田)に16の巨石を置いて、釜無川との合流を調整し、さらに釜無川の主流がF地点「高岩」に突き当たる流向とする。
その下流の左岸には、竜王の鼻に山付けしたいわゆる信玄堤を築造する。堤防を直接洪水が襲わないように、「出し」を前面に置き、二重の備えとする(G地点)。
万一にも堤防が決壊して洪水が氾濫した場合には、H地点「飯喰」と「臼井」に霞堤の開口部を作っておき、氾濫水を川に戻すことが図られた。
霞堤というのは、連続した堤防ではなく、「八」の字を逆さにして何段も重ねたような形状をした堤防である。
信玄の治水方策は、急流河川に対する優れた治水策であり、甲州流と呼ばれて江戸時代には各地で適用された。
力で自然を制するのではなく、自然の力を利用しながら治めようとするところに特徴があり、今日的にいえば、「自然との共生のシステム」ということになろう。

こうして完成させた治水施設を永久に護り維持するために、信玄は、竜王河原宿の人々に対し、堤防をはじめとする管理を命じ、一方で税を免除して人心を掌握する措置をとった。
また、甲府盆地を横断して一宮町の浅間神社から信玄堤のある三社神社まで、神輿が練る「御幸さん」の水防祭りを盛大に挙行して、領民に治水の重要性を周知させた。現在でもこの伝統は引き継がれ、毎年出水期の前の4月15日に、日本一の水防祭り「御幸さん」が行われている。
信玄は、中国の史書『史記』を参照したといわれる。『史記』には、成都の治水と利水において重要な役割を担う都江堰のことが記されているという。和田一範『信玄堤』山梨日日新聞社(0212)から、『史記』の関連部分を引用する。

蜀では太守冰が、乱流する離確(現在の都江堰地域)の岸を削って広げ、洪水の被害を避けるようにさせた。さらに二江を成都の中に開削した。これらの水路は船が行き来でき、余裕があれば田畑を潤し、農民たちはその利益を享受した。ことにこの溝の通過する地方では、あちこちでその水を引き、さらに田畑の小水路にまでそそぎ入れたので、その利は万億を以って計るほど多くなって、数え切れないのであった

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