任那日本府
藤井游惟氏や室伏志畔氏などが、日本の王権のルーツだとする「伽耶」は、朝鮮半島南部にあった小国家群のことである(『歴史誕生12』角川書店(9110))。
かつては、任那と呼ばれるこの地は、倭が「任那日本府」を置いて統治していた、と考えられていた。
『日本書紀』の欽明紀2年に次のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』(8808))。
夏四月、安羅(任那の一国で慶尚南道咸安の地、日本府のあった所)の次旱岐(官職名か)夷呑奚・大不孫・久取柔利・加羅(任那の一国で慶尚北道高霊の地)の上首位古殿奚。率麻の旱岐、散半奚の旱岐の子、多羅の下旱岐夷他、斯ニ岐の旱岐の子、子他の旱岐らと任那の日本府の吉備臣とが百済に行って、共に詔書をうけたまわった。
つまり、任那の役人と日本府の人間が、百済に集められて、日本の天皇の詔が伝えられた、ということである。言い換えれば、この日本府は、朝鮮半島における日本の出先機関であったと解釈できる記述である。
任那は、『日本書紀』の崇神紀が初出で、以下のように説明されている(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈上〉』(8806))。
六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。
また、『日本書紀』における任那の最終記事は、大化二年条の次の記載である。
九月、小徳高向黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差出させるとともに、新羅から任那の調をたてまつらせることを取止めさせた。--黒麻呂の別名玄理。
つまり、『日本書紀』は、神話的存在の崇神天皇の時代から、七世紀に至るまで、任那と呼ばれる国に強い権力を振るっていた、と記述しているわけである。
『日本書紀』以外にも、朝鮮半島北部にある高句麗の都の集安にある巨大な石碑-広開土王碑に、4世紀末に、倭が百済や新羅を破って高句麗と激しく戦った、と解釈できる文章がある。
朝鮮半島における倭の勢力がそれだけ強大なものであれば、それを支える出先機関があって然るべきだろう、というように理解されてきた。
また、奈良県石上神宮に伝わる七支刀の銘文を、百済が倭王のために献上品として贈ったものと解釈されていた。
これらから帰納できる倭国のイメージは、朝鮮半島に大きな影響力を持った強大な国である。
その出先機関として、「任那日本府」があったというわけである。
『日本書紀』の記す「任那日本府」という言葉からは、整った官僚機構が存在したかのような印象を受ける。
とすれば、何らかの遺構が存在するに違いない。
日露戦争後に東アジアに勢力を伸ばした日本は、1910年に朝鮮総督府を設置し、朝鮮半島の植民地化を進めた。
その過程で、伽耶地方の発掘調査を行い、「任那日本府」の物的証拠を探索した。
それは、帝国主義的侵略を、歴史的事実を踏まえたものとして合理化しようとするものだった、といえる。
しかし、結局は「任那日本府」と呼べるような遺構は見つからなかった。
「任那日本府」が存在しなかったとしたら、『日本書紀』にはなぜ、大量の任那関連記事を載せているのか。
果たして、南部朝鮮支配のための「任那日本府」は存在したのか、しなかったのか?
それは日本国家の起源に関するイメージにどう影響するのか?
伽耶は、6世紀に新羅に滅ぼされ、歴史から消えた。
「任那日本府」の実像の理解は、わが国古代史理解の1つの鍵のようである。
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