「任那日本府」不存在論
山中順雅さんという弁護士が、『法律家のみた日本古代千五百年史』国書刊行会(9605)という本を著されている。
弁護士というのは論証の専門家であるが、深い霧に包まれて実相が良く分からない日本古代史は、彼らの論証欲を刺激する好奇の対象になり、職業で培った思考技術を適用してみよう、という気持ちにさせるものらしい。
例えば、「邪馬台国論争」に関して、弁護士の久保泉氏が『邪馬台国の所在とゆくえ』丸の内出版(1970)を出版されているし、同じく久保田穣氏が『邪馬台国はどこにあったか』プレジデント社(9709)を出版されている。
共に、論理の問題として、邪馬台国の所在地問題にアプローチしており、偶然かも知れないが、二人とも「大分説」が結論になっているのが興味深い。
山中氏の著書は、邪馬台国の位置論というような個別の問題ではなく、紀元前7世紀から紀元8世紀末までの、約1500年間の日本古代史の史実をマクロに捉えようとするものである。
奥付によれば、山中氏は1920年生まれであって、戦前・戦中の教育を受けて育った世代である。
自らの姿勢を、弁護士は現代社会の歪を正すことをミッションとしているが、現代の歪は古代の歪の延長上にあるから、古代の歴史の真実を明らかにしたい、ということである。
その1つとして、「任那日本府の不存在性」という項目がある。
「任那日本府」が存在しなかったことは、河内王朝の倭の五王の権限からしても理解できる、としている。
『宋書・倭国伝』によれば、日本列島内の王国のうち、最大・最強だったと考えられる「倭国」の国王・済(山中氏は、河内王朝三代目とする)は、443年に宋の文帝から、安東将軍・倭国王に除せられ、451年には使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の爵号を追加除授されている。
次いで、倭国王・武(河内王朝五代目)は、宋の順帝から、478年に、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除せられている。
武は、順帝に対し、「開府儀同三司」の官位を求めたが許されなかった。
持節とは、天子から賜った節(ハタジルシ)を持つことであり、古代の使者が命じられて地方かよその国に行く時の身分証明であり、使持節、持節、假節、假持節等があって、使持節は総督の意であるとされる。
武に与えられた官位は、総督として、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国のもろもろの軍事(軍隊、戦争等に関する事柄)を統括させ、安東大将軍、倭王に除する、ということである。
加羅は、金官加羅のことで、任那は金官加羅を除いた加羅諸国のことだとされる。つまり、任那・加羅で、加羅諸国の全部ということである。
秦韓は辰韓、慕韓は馬韓で、部族国家であり、倭国は河内王朝のこと、というのが山中氏の理解である。
上記からすれば、倭王・武が、中国皇帝から与えられたものは、中国皇帝の軍事権行使の代行で、朝鮮支配を認めるとか、六国の宗主権を有していた、というものではない。
中国皇帝の臣下の総督として、南朝鮮の当該国の紛争解決、平和維持のために、皇帝に代わって軍事権を行使する権限を与えられていた、ということである。
その意味は、倭国王・武は、日本列島内では、王の中の王、つまり大王として他の王国より優位の権威と権勢を認められ、南朝鮮では、百済を除いて軍事的干渉権を有していた、ということである。
『日本書紀』の編纂者らは、使持節という言葉から、任那を植民地とする「偽史」を作り出したのだろう、と山中氏は結論付けている。
倭王・武は、「開府儀同三司」を認められなかった。
開府とは、役所を設けて属官を置くことであり、宋の孝武帝は、463年に高句麗王を車騎大将軍・開府儀同三司に除している。
高句麗と対抗するために、同様の官位を求めたものと思われる。
開府は、最高指導者の三公(太宰、太傳、太保)、その下の三司(司馬、司徒、司空)にのみ許されていたが、将軍にも開府が許されることになって、三司に儀同(準ずる)という意味の「開府儀同三司」という官位が生まれた。
倭王・武は、「開府儀同三司」に除せられなかったのであるから、府を開くことができなかったはずである。
つまり、「任那日本府」は、『日本書紀』編纂者の創作であった、ということになる。
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