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2008年5月 5日 (月)

古代韓日交渉史

朴天秀『加耶と倭/韓半島と日本列島の考古学 』講談社選書メティエ(0710)は、韓国と日本の考古学の最近の成果を踏まえ、古代における朝鮮(韓)半島と日本列島との係わりを展望している。
朴氏によれば、これまでの古代韓日関係史に関する研究は、文献史学によって多くの研究成果が蓄積されてきたが、それが今や限界に近づきつつある。
一方、韓半島および日本列島から出土した考古資料の質と量の増加は著しく、古代の韓日交流史研究に新たな地平が拓けつつある。

1980年代後半、陝川郡玉田古墳群の調査の結果、5世紀後半以後、日本列島全域に出現する金銅製の装身具、馬具などが、加耶内陸の大加耶で製作された事実が明らかになった。
これまで、金官加耶を中心とした沿岸地域に限られてきた研究を克服する契機になるものだった。
また、この時期に、大阪南部で、大庭寺遺跡が調査され、従来議論のあった初期須恵器の工人が、金官加耶とその周辺地域からの移住者であることが確認された。

1990年代前半には、金海市大成洞古墳群と良洞里古墳群で、倭人の特殊な呪術的文物と考えられてきた巴形銅器、紡錘車形石製品、鏃形石製品、玉杖と広形銅矛、鏡が出土し、日本列島産の威信財が、金官加耶の王墓の副葬品として移入されたことが明らかになった。
また、日本列島産と認識されていた筒型銅器が、金官加耶で日本列島より早い時期に多数製作されていたことが分かり、その起源について論議されている。

さらに、前方後円墳の発掘調査も開始され、咸平郡新徳古墳では、石室内部を赤色顔料で塗布した北部九州系の横穴式石室が確認され、光州市明花洞古墳と月桂洞古墳の調査で、日本列島にのみ分布するとされてきた埴輪が発見された。
韓半島南部で発見された前方後円墳は、栄山江流域を中心に、13基を数えるという。
その起源についても論議があったが、日本列島では3世紀中葉に出現すること、栄山江流域の前方後円墳が6世紀前葉に限定されることから、日本列島起源であることに疑念はない、と朴氏は結論している。

この前方後円墳が集中する栄山江流域は、日本の古代史研究者が、4世紀後半以降、韓半島南部を支配した拠点としてきた地域である。
この地域は、任那日本府の隷下にあった地域とされることから、日本の研究者の関心を集めてきた。
一方、韓国側の研究者には、逆の視点から、前方後円墳の存在を意図的に回避もしくは否定しようとする傾向があった。
しかし、栄山江流域の前方後円墳は明らかに倭人と関連する遺跡であって、正面から議論することが重要である。
この前方後円墳は、5~6世紀の韓日関係史や任那日本府の実体や性格を把握するための有力な端緒になるはずだ、というのが朴氏の意見である。

朴氏によれば、文献史学では、古代の韓日関係については百済を中心に把握されてきた。
しかし、実際には、3世紀から5世紀まで日本列島との交流の中心はあくまでも加耶であり、百済との交流が本格的に始まるのは6世紀からにすぎない。
また、文献史料に依拠して、敵対関係として把握されてきた新羅と倭の交渉が、考古資料では5世紀前半と6世紀後半に活発に行なわれていたことが明らかで、既存の文献史料に依拠した研究成果を、考古資料の面から再検討することが必要である。

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コメント

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投稿: つき指の読書日記 | 2008年5月 6日 (火) 15時03分

つき指さん、こんにちは。
「つき指」の由来は何でしょう?
つき指さんの読書範囲の広さに敬意を表します。Linksに追加させて頂きました。
今後とも宜しくお願いします。

投稿: 管理人 | 2008年5月 6日 (火) 15時41分

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