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2008年5月23日 (金)

修史事業の骨格

鸕野称制女王と藤原不比等は、天武の殯の3年数ヶ月の期間に、百官を呼び入れて忠誠を誓わせ、天皇の神格化を推進した。
神格化した天皇を国家のしくみの中でどう位置づけるか?
そこに修史事業の眼目があった。
「日本建国」の基本方針は、非革命国家組織を固定化することであった。つまり、「天皇」自体が、「天命」の体現者であるとすることが必要であった。
そのために、天神の子孫が、天から降臨したことにするアイデアが出された。
林青梧氏は、それを百済系渡来人の太安万呂だとしている。
安万呂は、金官加羅国の首露王伝説を持ち出す。

金官加羅国では、首露王は、天から雲間を降臨したと信じられているのであります。その先導をつとめたのが、三韓のカラス(鵲:カササギのこと)であります。カラスが先導したという話になっておりますが、事実は、カラスの南下する路を、北から下ってきたということでしょう。首露王の軍勢は、途中で休止いたしました。その時、金色のトビが天から舞い降りてきて、首露王の弓の先にとまり、金色の強い光を、四海に放ちました。

天孫降臨から神武東征に発展する神話の骨子が定まった。
次の課題は、紀元の問題をどう定めるか、である。
天孫降臨に相応しい由緒ある年であることが条件であった。
中国では、「辛酉甲子」説が言われていた。「辛酉の年に革命となし、甲子を革令とす=辛酉には革命がおこりやすく、甲子の年には政治的大変革がおこる」という考え方である。
干支が一巡する60年が一元、21元が一蔀(ホウ)である。
日本に暦法の入ったあと最古の辛酉は、推古9(601)年であり、それより一蔀前の辛酉が日本紀元とされ、渡来大王をそこにはめ込むことにした。
しかし、5世紀頃にはじまる倭国の大王を、この紀元にあてはめたことにより、神武以下仁徳までの16人中の13人が100歳をこえる高齢者になってしまうことになった。

推古朝を基準にして紀元が定められたことにより、国内向けの史書は推古までとされた。
鸕野女王に繋がる大王家を天皇家と呼ぶことにし、その周囲に、渡来系各氏族を配置することにした。そのために、天皇家とその係累を皇別とし、天帝に発する万世一系の血脈とすることにして、天孫と共に天から下ってきた従者たち、つまり神別の子孫として、飛鳥地方とその近辺に本貫をもつ諸豪族が存在することにした。

対外向けの史書は、推古朝以降に重点が置かれることになった。
第一のポイントは、大化の政変で、蘇我氏の否定と鎌足の顕彰が図られた。そして、そこに至るまでの仏教伝来や唐の干渉などを正史の中に取り込むことが必要条件であった。
仏教の受容を史実に溶け込ませるために、厩戸皇子が使われた。悉達(シツタル)太子(シャカ)にあやかって、聖徳太子の名が付けられた。
計画中の律令制定へつながる気運醸成のために、太子によって憲法の原型のようなものが制定されたことにした。

第二の正史で最も重点が置かれたのは天武紀であった。というのは、天武朝は実質的には唐の傀儡政権で、最も弱いものであったが、大王家の絶対化のためには天武朝を強調することが必要だったわけである。
そのため、天武紀には2巻があてられ、「天皇親政」という観念がつくり出された。
「天皇親政」という言葉を、文字通り天皇が直接手を下すと考えれば、そんなことが実際にできるはずがない。
昭和期には、「天皇親政」の言葉の下に、「統帥権」が独走して、国家存亡の危機を招いた。
不比等の意図は、「天皇親政」の名で、天武弱体政権を粉飾して、国民の団結を促し、対外抵抗力を強めることにあった。
対外的に認めてはならないことは隠蔽された。垂仁朝の天日槍による日本侵略や応神朝の淡路から兵庫一帯にかけての新羅による占領や吉備6国の割譲などが隠されるべき史実であった。

律令制定事業が完成したのは、大宝元(701)年であった。
翌年、律令制定の主要メンバーで、不比等の腹心の粟田朝臣真人を正使とする遣唐使が組織された。大宝律令の唐による承認を求めるためであった。粟田真人らの一行は、3年間も唐に滞在した。
大宝律令として出発した律令が養老律令として発効する間の事情について、大宝律令に唐側でさまざまな検討が加えられ、17年後の718年に日本に返還されて養老律令になったのではないか、と林氏は推測する。
真人たちは、大唐による平城遷都の要求を持ち帰った。日本が、韓半島やその他の周辺国に出兵する余力を持ち得ないようにするための経済的制裁の一面を持っていた。
和銅3(710)年3月に、平城京に遷都した。

あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり(万葉集 3-328)

とその仏教文化が華咲く様が謳われたが、実態は、平城京築造のために全国から徴用された多くの壮丁が、官給米が不足するなどして行路使者を出すなど、はなはだ悲惨な状況であった。

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