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2008年5月

2008年5月31日 (土)

唯物論と唯幻論の分水嶺

粕谷一希氏は、『二十歳にして心朽ちたり―遠藤麟一朗と「世代」の人々』洋泉社(0711)の中で、次のように述べている。

世代という言葉にはどこか甘美な響きがある。それは青春を共有する人々を指す歴史の言葉だが、人間誰しもある世代に属することを免れることはできない。それぞれが自分たちを待ちうけていた時代の児として生れ、その時代に参与しながら生きてゆく。その時間の流れに逆うことも超えることもできない。その人間の営みと仕事は、世代という宿命から離れることはできない。

世代論が意味を持つのは、青春を共有するからである。その共有された関係の中で、「(激しい)自己鍛錬を行い」「感受性の形式を確定」する。
粕谷氏の言葉を続けよう。

生の一貫性という視点からいえば、青春時代の旧友は、自らを確認し、確証するこよなき相手であろう。どのような栄耀栄華を得ようが、若き日の旧友の眼に耐えられない人生は空しい。どのように蹉趺の人生であろうと、語りうるひとりの旧友が、耳を傾ける旧友が存在する者は幸福である。

全くその通りだと思う。
その故に、学徒出陣によってその青春の途上で、生を断ち切られることになった阿川弘之『雲の墓標』新潮文庫(5807)の世代のようなことが、再びあってはならないと思う。
生き残った大浜厳比古氏や吉井厳氏などが、どのような思いで戦後史を眺めていたのか、もちろん知る由もないが、大浜氏が「書く為に飲み、書き了えては次の連載迄休息の為に飲み」といった風だった、という心情も、何となく理解できる気がする。

ところで、人は何のために酒を飲むのか?
昨日も、ゴルフの仲間と先日のコンペの反省会と称して飲み会があった。飲酒運転を避けるため、反省会は別の日に行なうわけで、まあ飲む機会を増やしているようなものでもある。
酒を飲めば酔う。あるいは酔うために酒を飲む。特に、青春期の交友は、私などの場合、飲酒と不可分だったように思う。
そして、酔いつつ果てしない議論を続ける。周りから見れば、ほとんど無意味なことのように感じられるだろう。しかし、その無意味の中に、何か重要なカギが潜んでいるのではないか、というのが私自身が酒飲みだということもあるが、「飲酒の効用」ではないかと弁護しておきたい。

「酔い」は、自然科学的には、個体としての人間に起きるアルコールの生化学的な反応ということになるだろう。
しかし、人間は、必ずしも生化学的に存在しているだけではない。精神的な作用も、もちろん生化学に還元される部分もあるのだろうが、現段階では、質的な差異を考える方が妥当だと思う。
その意味で、酒の向精神的作用は、生化学的な「酔い」だけでは捉えられないのではなかろうか。
人間が他の動物と異なることの1つは、人間が観念によって行動することである。観念を生み出す精神的活動(想像力)こそ、人間を人間たらしめる最も大きな要因である。
精神的活動は、物理的な現実とは相対的に独立した意味や象徴の体系(幻想)を形成する。すなわち文化である。

有名なA.H.マズローの「人間の欲求の発展段階説」によれば、人間は、生理的欲求や安全に対する欲求など基本的な欲求が充足されることを条件として、より高次の自己実現欲求などが顕在化してくる。つまり、「衣食足りて礼節を知る」ということである。
このような発想をもう少し定量的に説明するのが、年収1万ドルが社会心理や消費行動における一種の分水嶺となる、とする説である(笹川厳『ハト派の論理』PHP研究所(8009))。

平均的にいって年収が1万ドル位までは人間はマルクスの世界(=唯物論)に生きている。衣食住のミニマム生活水準を確保するための“生きる闘い”が行動原理である。
年収1万ドルを超えるあたりから,人は唯物論ではなく「唯幻論」(『ものぐさ精神分析 』中公文庫(9601)など)よって行動するようになる。
つまり、1人当たり所得が年収1万ドルを超えると、社会心理や消費行動に質的な差異が現れてくる、ということだ。
年収1万ドルが、唯物論から離脱して、唯幻論的世界に移行する分水嶺ということになる。

日本の社会がこの分水嶺を越えたのが、1985年のことであった。
電通や博報堂などの広告代理店のマーケッターが、日本の消費者が、「大衆」として一括りにできなくなっている現象を示す言葉として、「少衆」とか「分衆」と言い出したのも、ちょうどこの頃のことであった。
つまり、生活の必需的要素を満たす欲求は画一的であるが、より高次の欲求=精神的あるいは文化的欲求は、画一的には捉えられないということであろう。
その意味で、1万ドルの分水嶺は、「大衆」が「少衆」や「分衆」に分解していく分かれ目でもあった。
酒は世界中のどこの国にも古くから存在するポピュラーな向精神剤(精神に異常をもたらす薬剤や食物)であるが、1万ドルを超えた世界においては、ますます重要な意味を持つのではなかろうか。

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2008年5月30日 (金)

「君が代」をめぐって

とぼけた作風で多くのファンを持つ寒川猫持さんに、次の作品がある(『猫とみれんと―猫持秀歌集 』文春文庫(0308))。

「学校で君が代習ったことないの」それって自慢することなのか

この歌に示されているように、私なども含めて、東亜・太平洋戦争後の世代は、概して「君が代」には冷淡である。その意味するところが余りピンと来ない、というのが素直な感想だろう。
サッカーの元日本代表の花形選手だった中田英寿氏が現役時代に、「君が代」について、「ダサイ。戦意が喪失する」などと発言して、右翼の強烈な怒りをかったことがある。しかし、中田氏の言葉に心の中で同感した人も多かったのではなかろうか。

国旗・国歌が法制化されたのは、1999年の小渕内閣時代のことであった。
別に法律で明文として規定しなくても、慣習が確立されていればいいではないか、という考え方もあり、私もそう思う。しかし、「日の丸」を掲揚したり、「君が代」を演奏することに対し、「法的根拠がないから」という反対意見もあったらしいから、法的に定めておくことにも必要だったということだろう。
まあ、憲法19条の「思想及び良心の自由」を持ち出すまでもなく、「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱は、強制されてするものだろうか、とも思うが。
特に、「日の丸」は、他国の国旗に比べ、デザイン的にもシンプルで優れたものだと感じるが、「君が代」については、言葉であるから意味の示す内容が問題になってくる。

「君が代」の「君」とは何か?
もちろん、○○クンという「君」ではないし、Youの「君」でもない。
私は、「『君』は天皇を、『君が代』はその御代を指す」というのが素直な解釈だと思う。
これに対し、政府見解は以下の通りである。

「君」は日本国及び日本国民統合の象徴で主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指す。「君が代」は象徴天皇のいる日本のことを指す。

この説明は、日本国憲法の冒頭の次の規定を踏まえたものだろう。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

しかし、「『君が代』は象徴天皇のいる日本のことを指す」というのは、いかにも苦しい説明だろう。右翼にも左翼にも気を使うと、訳の分からない説明になってしまう。
「象徴」とは、一般には、あるものを、その物とは別のものを代わりに表象することによって、あるものを間接的に表現し、知らしめるという方法である(08年4月26日の項)。
「象徴」をこのような一般的な意味で理解した場合、日本国憲法の規定-ある人間が国家の「象徴」で、その地位は世襲されなければならない-という論理は、正直に言って私には理解できない。

しかし、国旗や国歌が「象徴」だというのならば、理解できる。オリンピックなどの国家を単位とするイベント等において、日本のアイデンティティを示すための「象徴」として機能していると思う。
また、私は、そのような場合に、国旗が掲揚されたり、国歌が演奏されたりすることに違和感があるわけではない。というよりも、国旗の掲揚や国歌の演奏を積極的に応援したいという気持ちも持っている。

評論家で麗澤大学教授の松本健一氏は、日本の国歌を「君が代」から「海ゆかば」に変えたらどうかと提言したことがある(産経新聞正論欄:990914)

海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て

大伴家持の歌から作られた「海ゆかば」については、人によって受け止め方に大きな差異があるだろう。
戦争中の暗い、悲劇的な思い出に直結して拒否反応を起こす人もいるだろう。
しかし、松本氏は、「あの戦争における死者の悲しい記憶につながっている。日本人の心に血をふきださせる歌、といってもいい。」「民族の戦争を忘れないために、いや戦争における死者を忘れないために、日本は『海ゆかば』を国歌としたらいい。」と説いていた。
一理ある主張だとは思うが、実際の情勢としては、「君が代」を変えるということは、あり得ないことだろうとも思う。

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2008年5月29日 (木)

『言うなかれ、君よ別れを』

一昨年に亡くなった久世光彦さんがプロデュースしたTVドラマに、『言うなかれ、君よ別れを』という作品がある。
脚本を向田邦子さんが書き、岸惠子さんが主演したもので、DVD化されている(『言うなかれ、君よ別れを』)。
あらすじは以下の通りである。

昭和20年1月、日を追うごとに激しくなる空襲に、東京・目黒に住む朝比奈家も不安の日々を送っていた。軍医だった父は戦死し、長女の真琴をはじめとする三姉妹は母親の絹江と女ばかりの四人暮らし。ある日、父親と同じ部隊で世話になったと話す男・壇吉が現れて絹江は歓迎するが、戦地のこととなると話をごまかし、肝心なことは何も言わない壇吉を真琴は信用できずにいた。しかし、貴重な白米を持ってきたり、絹江たちを守るのが自分の使命だと話している…。そんな壇吉がある日空き巣まがいのことをした。現場を目撃した真琴は出て行けと怒鳴るが、絹江は壇吉をかばい続ける。一体壇吉は何者なのか…。

久世さんは、このドラマの最後に、『海ゆかば』という軍歌を用いた。
『万葉集』の巻18に収められている大伴家持の「陸奥國より金を出せる詔書を賀く歌一首/短歌を併せたり」という詞書のある歌(4094)の一部に、昭和12(1937)年に信時潔が曲を付けた。

海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の 邊にこそ死なめ 顧みは せじと言立て

WIKIPEDIAによれば、以下のような使われ方をした。

これは当時の日本政府によって国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲としてNHKが信時に嘱託して完成されたもので、出征兵士を送る歌として愛好された(やがて若い学徒までが出征するに及び、信時は苦しむこととなる)。1937年11月22日に国民歌謡で初放送。本来は国民の戦闘意欲を昂揚せしむるべく制定された曲であるが、この曲を大いに印象づけたのは、「玉砕のテーマ」として、則ち大東亜戦争(太平洋戦争)末期にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)の際に、その内容が玉砕である場合、番組導入部のテーマ音楽として用いられたことである。

久世さんは、この歌が詞・曲共に美しいものだという、いわば確信犯としてこの曲を使ったのだろうが、上記のような事情が記憶されていることからすれば、かなりリスクのある選択だったとも言える。
久世さんの『みんな夢の中』文藝春秋(9711)という書によれば、放送終了後の反応は以下のようであった。

--そして八月十五日、青空を見上げる岸惠子さんの目の裏に、軍医の夫が死んだ紺青の海が浮かび、壇吉の吹いた『海ゆかば』が耳に蘇る。茫然と空を見ている母と三人の娘たちの姿を撮りながら、私は阿川弘之の『雲の墓標』のエピグラムを思い出していた。--《雲こそわが墓標/落暉よ碑銘をかざれ》
放送が終わった後、私たちのところへ驚くほどの数の手紙が届いた。一言で言えば、『海ゆかば』に泣いたというのである。
私は『海ゆかば』の彼方に日本の山河を見る。紅に染まって昏れてゆく、日本の海を見る。そして、朝靄の中に明けてゆく、美しい私たちの山河を護るために、死んでいった従兄たちの面影を見る。

ちなみに、「言うなかれ、君よ別れを」は、大木惇夫さんの『戦友別盃の歌』という詩の一節である。

言うなかれ 君よ別れを 世の常を また生き死にを
海原の はるけき果てに 今やはた 何をか言はむ
熱き血を 捧ぐる者の 大いなる 胸を叩けよ
満月を 盃に砕きて 暫しただ 酔いて勢へよ
わが往くは バタビアの街 君はよくバンドンを突け
この夕べ 相離るとも 輝やかし 南十字星を いつの夜か また共に見ん
言うなかれ 君よ別れを
見よ空と 水うつところ 黙々と 雲は行き雲は行けるを

森繁久弥さんの愛唱詩だということを読んだ記憶がある。
なお、『雲の墓標』は、1957年に松竹で映画化されている。キャスティングは、田村高広(吉野次郎)。田浦正巳(藤倉晶)、渡辺文夫(坂井哲夫)等であり、『風の盆恋歌』新潮社(0306)の作者の高橋治が、監督の堀内真直と共同で脚本を書いている。

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2008年5月28日 (水)

『世代』と遠藤麟一朗

河上徹太郎氏は、「青春は感受性の形式を確定する時期」という。
感受性というのは、外界からの信号・情報を受け止めるセンサーの感度のことだろうから、ちょっと考えると、受動的な感じがする。しかし、人間という生物は、その受け止めた信号・情報を咀嚼して、自らの判断や行動の指針に変容する。言い換えれば、感受性というのは、能動的な作用を持っているということだ。

例えば、音感という感受性について考えてみよう。
楽器を習う人は、音感が向上するに連れ、自分の欠点が気になるのだという。それがさらなる向上への原動力となるわけであるが、音感もさらに向上するから、よりレベルの高い欠点が気になるようになる。
かくして、音感とスキルはスパイラルに向上していくわけである。
このようなメカニズムは、すべての事象について当てはまるだろう。「感受性の形式」というのは、何に対してどの程度鋭敏か、ということだと思う。
河上氏の言葉は、青春期とは、目鼻だちのはっきりしない混沌の状態から、自らのアイデンティティをはっきりさせていく過程だということだろう。

人は独りだけでは生きていけない。
どんなに人間嫌いであっても、何らかの集団に帰属している。そして集団において、個体同士が相互に影響を及ぼし合う。
その相互的影響関係は、もちろん物理的な面もあるが、情報的な面もある。情報的な、ということは、時間と空間を越えた相互作用が可能だということである。
しかし、直接的に触れ合う関係は、もちろんより濃密な影響を及ぼし合うだろう。青春期における交友とは、まさにこの直接的な影響関係が、ある意味で無制約的に行なわれる場である。
その意味で、青春期における交友は、人生において決定的な重要性を持っているということになるだろう。

青春を共有するということは、同じ世代に属するということである。
古代のエジプトだかの遺跡に落書きがあって、「最近の若い者は……」と読解されたという話を聞いたことがある。
「最近の若い者は……」という言葉は、次の2つのメッセージを持っているだろう。
・今も昔も、世代間のギャップの感覚は同じようなものなのだ(時代を超えた共通性)
・同じ時代に生きていても、世代間のギャップは超え難い(同時代における差異性)

「世代」という言葉で思い出されるのは、『世代』という雑誌のことだ。
中央公論の名編集長として名を馳せた粕谷一希氏に、『二十歳にして心朽ちたり―遠藤麟一朗と「世代」の人々』洋泉社(0711)という著書がある(元版は、新潮社0811刊)。
サブタイトルが示しているように、『世代』という雑誌の初代編集長を務めた遠藤麟一朗という人を中心に、「『世代』の世代」の人間像を描いたものである。

東亜・太平洋戦争の敗戦によって、戦前・戦中に抑圧されていた文化欲求を満たすべく、「雨後の筍の如く」数多くの雑誌が生まれた。その大半は、「3号雑誌」だった。つまり、創刊して3号ほどで休刊や廃刊するものだった。
同じような意味で、「カストリ雑誌」という言葉がある。カストリというのは、粕取りのことで、酒粕を搾り取ったものだが、敗戦後にはメチルアルコールなどが加えられた密造酒の別名として使われていたらしい。
子どもの頃、メチルは、「目をつぶす」というように言われていたような記憶がある。カストリ酒は、どんな酒豪でも3合も飲めば倒れるということで、「カストリ雑誌」は3ゴウで倒れるという意味である。

そういう中にあって、『世代』は稀有のクオリティを保持していたらしい。
全国大学高専生機関誌と銘打って創刊された。
加藤周一、中村真一郎、福永武彦といえば、戦後文学史を代表するビッグネームということになるが、彼らが「マチネ・ポエティック」同人としてデビューするきっかけを与えたのが、遠藤麟一朗編集長が『世代』に用意したコラム欄だった。
学生投稿者からは、いいだもも、吉行淳之介、中村稔、八木柊一郎らの錚々たるメンバーが輩出した。
そのようなクオリティを保持しえたのは、遠藤麟一朗編集長の力量による。

遠藤麟一朗氏は、友人たちから「われわれの青春のシンボルだった」「桃の花 と春の風みたいな爽やかさ」「絹糸のような繊細な神経」「匂うような美少年」などと評されている。
何となく、ブントを創始した島成郎氏(07年10月12日の項)を評する言葉と通じるものを感じさせる。
エンリンこと遠藤麟一朗氏は、東大卒業後住友銀行に入社、労働組合運動に参加後に5年半の左遷時代を経て、アラビア石油に入社した。志願してクエートの砂漠にあるカフジ基地に11年勤務した後、本社に戻って昭和53年に胃潰瘍のため死去した。
アラビア石油時代のエンリン氏は、『世代』の頃の華やかさからすれば、驚くほど自己抑制的だったようだ。
原油価格が急激に高騰している現在、2000年に失効したアラビア石油の採掘権が保持されていれば、と思う。

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2008年5月27日 (火)

偶然か? それとも……③『雲の墓標』

阿川弘之さんの『雲の墓標』新潮文庫(5807)は、文学史上屈指の青春文学ではないかと思う。
京都大学で『万葉集』を学んでいた4人の同級生(吉野、鹿島、藤倉、坂井)が、既に戦局に明るい見通しを持ち得なくなっていた昭和18(1943)年12月に学徒出陣によって応召する。
4人の考え方はそれぞれで、その個性の描き分け方が、日記や手紙の書き方に反映していて、作品の構成を立体的なものにしている。戦争に対して最も大きな疑問を抱いていた藤倉は、昭和19年3月に飛行訓練中に事故死し、主人公格の吉野次郎は、昭和19年7月に特攻死する。
タイトルは、吉野が最後に生き残った鹿島に宛てた次の遺書の文章による。

 雲こそ吾が墓標
 落暉よ碑銘をかざれ

わが旧き友よ、今ははたして如何に。共に学び共によく遊びたる京の日々や、其の日々の盃挙げて語りし、よきこと、また崇きこと。大津よ山科よ、奥つ藻の名張の町よ。布留川の瀬よ。軍に従いても形影相伴いて一つ屋根に暮したる因縁や、友よ、思うことありやなしや。されど近ければ近きまま、あんまり友よしんみり話をしなかったよ。なくてぞ人はとか、尽さざるうらみはあれど以て何をかしのぶよすがとなせ。
 友よたっしゃで暮らせよ。

私は、吉野次郎が死んだ昭和19年7月の直後の8月にこの世に生を享けている。つまり、20年ほど早く生まれていれば、同じような立場に立っていた可能性は十分にあるということだ。
何が機縁だったのかは忘却の彼方であるが、高校時代に読んで大きな感銘を受けた。
この書を読んだことが、京都の大学で学びたいと思った一因であるから、人生を決めた一書ということにもなるだろう。
諸般の事情で、吉野たちの文学部ではなく、工学部という実務的な学部を選んだのではあったが、学生生活を京都で過ごしたことは、やはり私の原体験の一部になっていると思わざるを得ない。
『雲の墓標』は、吉野たちの青春を描いているという意味で文字通り青春文学の傑作なのであるが、青春期において最も影響を受けたという意味でも、私にとっては青春の書なのであった。

青春とは何か?
河上徹太郎が的確な言葉を残している。『私の詩と真実』講談社学芸文庫(0706)の一節である。

人は、その青春にあたって先ず情熱を注ぐことは、激しい自己鍛錬によって自分の感受性の形式を確定することである。そしてこの形式の独自性の中に、初めてその人の個性とか資質と呼ぶべきものが芽生えるのだという風に私は考えている。

河上徹太郎は、小林秀雄、中原中也、大岡昇平らとの交友の中で、「激しい自己鍛錬によって」「感受性の形式を確定」していった。
私も、「激しい自己鍛錬」であったか否かは別として、「感受性の形式」が青春期に形成されたのだと思うし、河上徹太郎のように煌びやかな交友関係ではないにしても、幸いにして多くの優れた友人たちに恵まれた。

『雲の墓標』の冒頭部分に、応召の直前の11月の末、最後の万葉集の演習が終わって、図書館裏の大きな橿の木の下でしゃべりあった時、鹿島が詠んだものとして次の歌が掲げられている。

真幸くて逢はむ日あれや荒橿の下に別れし君にも君にも

この歌を、私は、ずっと作者の阿川さんが創作したものだと思っていた。いかにも万葉集を学んでいる学生の詠みそうな感じであり、さすがに作家の力量というものは違うというように感じてもいた。
最近、ようやくという感じで、大分前に東京駅八重洲地下街の古書店で購入し、そのまま積ん読状態だった大浜厳比古『万葉幻視考』集英社(7801)を、読了することができた。
そして巻末の坂本信幸さんの「解説」を読んで驚いた。
上掲の歌は、大浜氏が学徒徴集の際に詠作したものだという。
そして、『雲の墓標』は、大浜氏の友人の万葉学者・吉井厳氏の日記をもとにした作品とのことだ。
日本古代史への興味から、『万葉集』に関連した書を読み始めたところであった。
今まで積んでおいた大浜氏の著書を、読了できるまでには好奇心のポテンシャルが上昇したということだと思うが、思わぬところで青春の書の背景に触れえたことになる。
「序」は梅原猛氏が書いているが、大浜氏は、かの高橋和巳氏に似た飲みっぷりだったらしい。亡くなったのは56歳だった(1977年2月)とのことであるが、大浜氏にとっては、生き残った戦後の生は、ある意味でオマケのような気がしていたのではないか、と思う。

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2008年5月26日 (月)

紫香楽宮跡から出土した木簡に万葉歌

5月23日の各紙は、滋賀県甲賀市の紫香楽宮跡から出土した木簡に、万葉仮名で書かれた歌が記されていた3_4ことが判明したことを報じている。(写真は静岡新聞)
紫香楽宮は、742年に離宮として造営が始まり、745年までの短い期間の宮都だった。聖武天皇の時代で、天皇はここに廬舎那仏を造営することを発願した。
今回の読解は、既に1997年に、「難波津の歌」が記されていたことが知られていた木簡の反対面に、「安積山の歌」が記されていたことを再発見したというものである。

発見したのは大阪市立大学の栄原永遠男教授である。
「難波津」の歌の記されている例は30以上に上り、この木簡もそのようなものの1つと考えられてきた。
栄原教授は、2006年に、大阪市中央区の難波宮跡から、和歌とみられる万葉仮名の木簡が出土して以来、「歌を書くための木簡=歌木簡」があるのではないかと考え、全国の「歌木簡」とみられる木簡を調べてきた。
そしてこの「難波津の歌」の木簡を裏返してみたところ、「安積山の歌」と見られる万葉仮名を見つけ、赤外線写真で確認し、今回の発表となった。

今回の発見が反響を呼んでいるのは、両面に書かれている歌が、『古今和歌集』の紀貫之の仮名序に引用されている歌で、手習いの最初に使われる歌とされるものだからである。
ちなみに、仮名序の当該部分の現代語訳は以下の通りである。(http://www.kotono8.com/history/tosa/09050418.html

こうして、花を愛で、鳥をうらやみ、霞に心動かし、露をいとおしむ心、言葉は多く、さまざまな歌になりました。遠い所へも、出発する足元から始まって年月を経、高い山も、麓の塵・泥からはじまって、天雲たなびくまで盛り上がるように、この歌もそのようになったのでしょう。難波津の歌は、帝の御世の初めのものです。安積山の言葉は、采女が戯れに詠んだもので、この二首の歌は、歌の父母のようなもので、手習いをする人の初めにならいました。

この木簡は、同じ箇所で年号入りの木簡が出土していることから、天平15(743)年秋から745年春にかけて捨てられたものであると推測されている。
今回の再発見は、『万葉集』成立以前、『古今和歌集』の仮名序をさらに160年ほど遡る時点で、この2つの歌が流布していたことを示すものである。『万葉集』の表記との比較などから、さまざまに推測されている『万葉集』の成立事情や「上代特殊仮名遣」(08年2月9日の項2月10日の項4月19日の項4月20日の項4月21日の項4月22日の項)など、論議の多い万葉仮名の使われ方に関して、貴重なデータを提供するものといえる。

ちなみに2つの歌は以下の通りである。(毎日新聞)
<難波津の歌>
難波津に咲くや木(コ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花
(訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています
<安積山の歌>
安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに(安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国)
(訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ)
(いずれも「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」で始まる表記は、万葉集の原文)

紫香楽宮と『万葉集』に関連する事象を年表的に整理すれば、以下の通りである。(読売新聞) 
740年     藤原広嗣の乱。聖武天皇が平城京を離れる
742年     紫香楽宮の造営始まる
744~745年 万葉歌木簡が捨てられる
745年     紫香楽宮で放火などが相次ぎ、都を平城京に戻す
         このころ『万葉集』巻16まで成立か
759年     大伴家持が『万葉集』最後の歌を詠む
782~783年  『万葉集』が巻20まで成立か
905年     『古今和歌集』成立

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2008年5月25日 (日)

都江堰と信玄堤

甲府盆地は、果樹が豊富で、特に春の桃の花は見事である。遠くから見ると、地域全体が桃色に染まって美しい。戦国時代のヒーローの1人である武田信玄が勢力を張っていた地域である。
甲府盆地から流れ出る水は、最終的には富士川として駿河湾に注いでいるが、富士川の上流部は釜無川と呼ばれ、有名な暴れ川だった。「水を治める者は天下を治める」と言われるように、水を治めることは、地域にとって最重要課題であった。この暴れ川をうまく制御したのが武田信玄であった。

釜無川の「竜王の鼻」と呼ばれる地点が、治水上のポイントである。
甲府盆地の主要部は釜無川の扇状地であるが、その扇頂部に位置している。規模は別として、四川盆地における都江堰と似たような立地ということができる。
御勅使川が右側から、塩川が左側から合流し、大規模な氾濫が繰り返し起きてきた。
扇状地では、自然の状態では河川は扇頂部から扇状地面を無秩序に流れやすく、扇頂部は、水害防御のための要諦ということになる。

国土交通省甲府河川国道事務所のHPに、信玄の治水方策が解説されている。
その概要を以下に紹介する。(http://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/kai/kai_kawa/shingen/shingen_05.htm
2_2御勅使川の河道を安定させるために、A地点(白根町築山)に巨大な「石積出し」を作って扇頂部における乱流を抑止する。
B地点(白根町有野)とC地点(韮崎市竜岡)に「将棋頭」という分流構を設けると共に、D地点(堀切橋付近)を開削して新たに河道を作り、流れを二分させて水勢を弱める。
E地点(韮崎市御座田)に16の巨石を置いて、釜無川との合流を調整し、さらに釜無川の主流がF地点「高岩」に突き当たる流向とする。
その下流の左岸には、竜王の鼻に山付けしたいわゆる信玄堤を築造する。堤防を直接洪水が襲わないように、「出し」を前面に置き、二重の備えとする(G地点)。
万一にも堤防が決壊して洪水が氾濫した場合には、H地点「飯喰」と「臼井」に霞堤の開口部を作っておき、氾濫水を川に戻すことが図られた。
霞堤というのは、連続した堤防ではなく、「八」の字を逆さにして何段も重ねたような形状をした堤防である。
信玄の治水方策は、急流河川に対する優れた治水策であり、甲州流と呼ばれて江戸時代には各地で適用された。
力で自然を制するのではなく、自然の力を利用しながら治めようとするところに特徴があり、今日的にいえば、「自然との共生のシステム」ということになろう。

こうして完成させた治水施設を永久に護り維持するために、信玄は、竜王河原宿の人々に対し、堤防をはじめとする管理を命じ、一方で税を免除して人心を掌握する措置をとった。
また、甲府盆地を横断して一宮町の浅間神社から信玄堤のある三社神社まで、神輿が練る「御幸さん」の水防祭りを盛大に挙行して、領民に治水の重要性を周知させた。現在でもこの伝統は引き継がれ、毎年出水期の前の4月15日に、日本一の水防祭り「御幸さん」が行われている。
信玄は、中国の史書『史記』を参照したといわれる。『史記』には、成都の治水と利水において重要な役割を担う都江堰のことが記されているという。和田一範『信玄堤』山梨日日新聞社(0212)から、『史記』の関連部分を引用する。

蜀では太守冰が、乱流する離確(現在の都江堰地域)の岸を削って広げ、洪水の被害を避けるようにさせた。さらに二江を成都の中に開削した。これらの水路は船が行き来でき、余裕があれば田畑を潤し、農民たちはその利益を享受した。ことにこの溝の通過する地方では、あちこちでその水を引き、さらに田畑の小水路にまでそそぎ入れたので、その利は万億を以って計るほど多くなって、数え切れないのであった

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2008年5月24日 (土)

四川大地震と都江堰

Photo5月12日に発生した四川省の巨大地震の被害の全貌は未だ明確になっていない。
日が経過するに連れ、報道される被害規模が大きくなっており、この地震が原因で亡くなられた方は10万人近くになることになるのではないだろうか。
もし、首都圏等でこの規模の地震が発生したら、どんなことになるのだろうか?
地震が発生した四川省は、中国南西部に位置する四川盆地と、周囲に広がる山岳地域とから成る。山岳地域は、標高5000m級のチベットにつらなる嶮しい山々であり、四川盆地は標高500m程度であるから、急激に地形が変化している。
それは、この地域が、古くから地質活動が活発なためであり、インドプレートがユーラシアプレートを圧迫していることによるもので、ヒマラヤ山脈が形成されたのも、このプレート活動の結Photo_2果である。(図はWIKIPEDIA)

急峻な山から流れ出た川は、扇状地を経て盆地を形成している。長江の上流部とその支川である。
岷江など4つの大きな支川が、「四川」の名前のもPhotoとになっている。支川といっても、広大な中国大陸であるから、もちろん大河川と呼ぶに相応しい規模である。
気候的には内陸部の亜熱帯性気候で、一年中湿潤で曇った日が多いとされている。

この地域は、三国志でお馴染みの蜀の国で、劉備玄徳が蜀漢を興した地である。
今回の地震の震央部付近に都江堰市がある。都江堰市の名前は、治水・利水施設として、2300年前に築造されたという都江堰に由来している。都江堰は、四川の1つである岷江に設置されているが、世界文化遺産にも登録されており、水関係の技術者にとっては聖地というべき場所である。
その都江堰市でも大きな被害が発生していることが報じられている。
岷江の流路延長は約700kmであり、都江堰はちょうど真ん中辺りのところに位置していて、水源から340kmの地点にある。
岷江は、岷山南麓の標高4000m地点から、一気に成都平原に流れ出るが、都江堰は、成都平原に流 れ出る扇状地の扇頂部にあたる場所にある。
都江堰市は、以前は灌県と呼ばれ、四川省の首都である成都市の北西に約60km離れたところに位置した地方都市である。(図は、折敷秀雄『岷江を訪ねて(下)』(日本河川開発調査会「にほんのかわ」No.116(0707)所収)より引用)

都江堰は、秦の始皇帝が中国を統一する以前の、紀元前256年に着工されたといわれている。万里の長城とほぼ同時期である。
岷江は、増水期になると氾濫して災害をもたらす一方で、成都平原の潅漑用水の供給源であったが、水量が不安定だったことが、農業発展の制約条件になっていた。都江堰は、李冰・二郎の親子が、水を成都平原に導入しようとして始めた事業である。
Photo_4親子の偉業を讃えた二王廟という施設が建造されている。(図は、折敷秀雄『中国・古代水利の若返り』日本河川開発調査会「にほんのかわ」No.113(0608)所収より引用)

李冰は、都江堰の根幹施設である「魚嘴(ギョシ)」「宝瓶口(ホウビンコウ)」「飛沙堰(ヒサゼキ)」を築いて、岷江から分水する水路の最初の工程を建設したとされている。
運河を成都まで掘り、宝瓶口から引き入れられた水は、水運用水として活用され、成都平原は、堀が縦横に走る肥沃な土地となった。
紀元前に作られたという巨大な李冰の石像が、30数年前に河床から掘り出され、都江堰に祀られているという。(和田一範『信玄堤』山梨日日新聞社(0212)。
(写真は、上掲和田氏著書より引用)

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2008年5月23日 (金)

修史事業の骨格

鸕野称制女王と藤原不比等は、天武の殯の3年数ヶ月の期間に、百官を呼び入れて忠誠を誓わせ、天皇の神格化を推進した。
神格化した天皇を国家のしくみの中でどう位置づけるか?
そこに修史事業の眼目があった。
「日本建国」の基本方針は、非革命国家組織を固定化することであった。つまり、「天皇」自体が、「天命」の体現者であるとすることが必要であった。
そのために、天神の子孫が、天から降臨したことにするアイデアが出された。
林青梧氏は、それを百済系渡来人の太安万呂だとしている。
安万呂は、金官加羅国の首露王伝説を持ち出す。

金官加羅国では、首露王は、天から雲間を降臨したと信じられているのであります。その先導をつとめたのが、三韓のカラス(鵲:カササギのこと)であります。カラスが先導したという話になっておりますが、事実は、カラスの南下する路を、北から下ってきたということでしょう。首露王の軍勢は、途中で休止いたしました。その時、金色のトビが天から舞い降りてきて、首露王の弓の先にとまり、金色の強い光を、四海に放ちました。

天孫降臨から神武東征に発展する神話の骨子が定まった。
次の課題は、紀元の問題をどう定めるか、である。
天孫降臨に相応しい由緒ある年であることが条件であった。
中国では、「辛酉甲子」説が言われていた。「辛酉の年に革命となし、甲子を革令とす=辛酉には革命がおこりやすく、甲子の年には政治的大変革がおこる」という考え方である。
干支が一巡する60年が一元、21元が一蔀(ホウ)である。
日本に暦法の入ったあと最古の辛酉は、推古9(601)年であり、それより一蔀前の辛酉が日本紀元とされ、渡来大王をそこにはめ込むことにした。
しかし、5世紀頃にはじまる倭国の大王を、この紀元にあてはめたことにより、神武以下仁徳までの16人中の13人が100歳をこえる高齢者になってしまうことになった。

推古朝を基準にして紀元が定められたことにより、国内向けの史書は推古までとされた。
鸕野女王に繋がる大王家を天皇家と呼ぶことにし、その周囲に、渡来系各氏族を配置することにした。そのために、天皇家とその係累を皇別とし、天帝に発する万世一系の血脈とすることにして、天孫と共に天から下ってきた従者たち、つまり神別の子孫として、飛鳥地方とその近辺に本貫をもつ諸豪族が存在することにした。

対外向けの史書は、推古朝以降に重点が置かれることになった。
第一のポイントは、大化の政変で、蘇我氏の否定と鎌足の顕彰が図られた。そして、そこに至るまでの仏教伝来や唐の干渉などを正史の中に取り込むことが必要条件であった。
仏教の受容を史実に溶け込ませるために、厩戸皇子が使われた。悉達(シツタル)太子(シャカ)にあやかって、聖徳太子の名が付けられた。
計画中の律令制定へつながる気運醸成のために、太子によって憲法の原型のようなものが制定されたことにした。

第二の正史で最も重点が置かれたのは天武紀であった。というのは、天武朝は実質的には唐の傀儡政権で、最も弱いものであったが、大王家の絶対化のためには天武朝を強調することが必要だったわけである。
そのため、天武紀には2巻があてられ、「天皇親政」という観念がつくり出された。
「天皇親政」という言葉を、文字通り天皇が直接手を下すと考えれば、そんなことが実際にできるはずがない。
昭和期には、「天皇親政」の言葉の下に、「統帥権」が独走して、国家存亡の危機を招いた。
不比等の意図は、「天皇親政」の名で、天武弱体政権を粉飾して、国民の団結を促し、対外抵抗力を強めることにあった。
対外的に認めてはならないことは隠蔽された。垂仁朝の天日槍による日本侵略や応神朝の淡路から兵庫一帯にかけての新羅による占領や吉備6国の割譲などが隠されるべき史実であった。

律令制定事業が完成したのは、大宝元(701)年であった。
翌年、律令制定の主要メンバーで、不比等の腹心の粟田朝臣真人を正使とする遣唐使が組織された。大宝律令の唐による承認を求めるためであった。粟田真人らの一行は、3年間も唐に滞在した。
大宝律令として出発した律令が養老律令として発効する間の事情について、大宝律令に唐側でさまざまな検討が加えられ、17年後の718年に日本に返還されて養老律令になったのではないか、と林氏は推測する。
真人たちは、大唐による平城遷都の要求を持ち帰った。日本が、韓半島やその他の周辺国に出兵する余力を持ち得ないようにするための経済的制裁の一面を持っていた。
和銅3(710)年3月に、平城京に遷都した。

あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり(万葉集 3-328)

とその仏教文化が華咲く様が謳われたが、実態は、平城京築造のために全国から徴用された多くの壮丁が、官給米が不足するなどして行路使者を出すなど、はなはだ悲惨な状況であった。

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2008年5月22日 (木)

安万呂の暗号

『日本書紀』の大津皇子処刑記事に次のような謎の一文がある。

この年、蛇と犬とが相交(ツル)んだのがあったが、しばらくして両方とも死んだ。

この一句は何を意味しているのだろうか?
これを、林青梧氏は、『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)で次のように謎解きをしている。

『書紀』筆法の反対論でいくと、《しばらくして両方とも死んだ》は、やがて両方とも、明確な形を失った。つまり、現実の中に消えたという意味だ。《相交んだ》は密議したであろう。となると、蛇は持統、犬は臣下の不比等ということになるかも知れない。しかもその一行は、大津の処刑と、粛清の嵐殯三年半の間にはさまれている。これは何を意味するのか。「そうだ……」とわたしの胸に、落ちてくるものがあった。
「これは、安万呂が後世、『日本書紀』という闇の中に、しゃにむに分け入ってくるものに示した暗号に違いない。この年の事件のすべては、持統と不比等の密議から出たものであり、その密謀どおりに、その後のすべては進展した」
 と、大安万呂は、『書紀』の中に書き残したのだ。この暗号が、いつの日か解読されることを念じながら……。
……
 鸕野皇后と藤原不比等との密議談合が頻繁に行われたのは、大津皇子謀殺の渦中か、あるいはその直後、そして、恐怖の天武殯の始まる直前であったことが、安万呂のこの一句で立証されたのだった。そして、その合議の結論はきびしく実行され、その後の日本国の形成の中に、発展的に解消し、実現していった、と断定することが可能なのである。

林氏は、鸕野皇后の提議とそれに対する不比等の応答を、以下のように推測する。
1.「日本国」に在住する三韓系、新来の高句麗、新羅、さらには亡命百済系(鸕野の一族を含む)など、すべての日本国在住者を統合し、新しく「日本人」を形成する方法やいかに?
→各国人が統合された「日本人」となるためには、統合全住民が唯一の権力、絶対化された主権を持つことが必要である。
王権の従属関係を否定するためには、主権の質的優位を確立しなくてはならない。
中国では、高宗が病床にあり、皇后の武則天が実際の政務を担当し、帝王権を誇示するために、高宗を「天皇」と称し、自分を「天后」と自称している。それは、鸕野皇后と全く同じ立場ではないか。
そして、王権を強化するために、天武殯の期間中に、皇太子以下百官を天武の遺骸の前にぬかずかせ、忠誠を誓わせた。
そして、唐では天命を失った皇帝が放伐されるのに対し、放伐されないようにするために、天皇は天命そのものである、というアイデアを案出した。つまり、現人神として、代々その血脈を伝え、不可侵の神とする。何十代も継続すれば、大唐以上の国柄となり得る。

2.日本律令の実現方法やいかに?
→「天皇号」の採用を前提とすると、律令制の構成の中に、主権の問題を取り入れざるを得ない。
それは、これまで中臣家が主宰してきた神事を、天皇主権に結びつけて、律令制の中に組み込むことによって実現できる。
不比等は、藤原氏の本流である中臣氏の、意美麻呂によって代表される「神官」職を、正式に、国法による神事担当者として、律令の内か外に位置づけることにした。
天皇を現人神とする以上、天皇神事は他の一般神事と同列に扱うべきではなく、「神祇伯」として、「神祇令」によって行うことにすればいいだろう。

3.天武によって提唱され、中断中の修史事業の実現方法やいかに?
→林によれば、天武は、大化改新と称する新羅の内政干渉を督励するために、金春秋の命令で倭にやってきて王位に押し上げられた金多遂であるから、彼が編纂できる歴史書などはあり得ない。
そこで、蘇我氏等の在来勢力からの予想される反応に対応するため、『帝紀』とか『本辞』など諸氏の持っているものは、一族中心的な間違いが多いから、いまその誤りを正そうということにしたらどうか。
問題は、天皇号の割り込ませ方であったが、それを文辞修飾の大家・太安万呂に任せることにした。

これらの諸事業に共通する真の目的が、日本主権の独立と唐勢力の排除にあることが、薬師寺にいる唐人や、対唐従属的な倭人に気取られると、唐の強力な干渉を招き、鸕野と不比等の失脚を招く可能性がある。
唐の同意を得られるように編纂すれば国内豪族を反発させ、国内豪族の喜ぶようなものでは唐が承知しないだろう。
問題の突き当たる壁が二面あるのならば、二冊つくればいいのではないか。
こうして、『古事記』と『日本書紀』の芽は生まれた。

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2008年5月21日 (水)

大津皇子処刑の背景…③林青梧説

大津皇子の謀反事件については、梅原猛氏の見かた(07年8月31日の項)、上山春平氏の見かた(07年9月1日の項)について検討したが、林青梧氏はどう見ているか?
『日本書紀』の天武13年春1月の条に、次のような記述がある。

二十八日、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂および判官・録事・陰陽師・工匠らを畿内に遣わして、都を造るに適当な所を視察し占わせた。この日、三野王・小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして、地形を視察させられた。この地に都を造ろうとされるのであろうか。

そして、4月の条には次のように書かれている。

十一日、美濃王らが信濃国の図面をたてまつった。

つまり、信濃遷都計画があったことになる。
それを、林青梧氏は、薬師寺まで唐に詰め寄られた天武の乾坤一擲の反抗策ではなかったかとみる。
唐の圧力に、国都を信濃に移して対決しようとしたが、それは失敗した。
その結果、外国勢力を懐柔することが必要になった。

冬十月一日、詔して、「諸氏の族姓を改めて、八種(クサ)の姓をつくり、天下のすべての姓を一本化する。
第一に真人。第二に朝臣。第三に宿禰。第四に忌寸。第五に道師。第六に臣。第七に連。第八に稲置である」といわれた。この日、守山公・路公………の十三氏に、姓を賜って真人といった。
……
十一月一日、大三輪君・太春日臣………の五十二氏に、姓を賜って朝臣といった。
……
十二月二日、大伴連・佐伯連……の五十氏に、姓を賜って宿禰といった。
……
十四年春一月二日、百寮は賀正の礼を行なった。二十一日、さらに爵位の名を改め階級を増加した。
二月四日、大唐の人・百済の人・高麗の人合わせて百四十七人に爵位を賜った。

つまり、これらの措置は、唐羅勢力との調停であり、結果的に混合国家が成立したことになる。
その過程で天武は疲れ果てたのか、14年9月24日に病に倒れる。
翌年の秋7月には、次のような状況になる。

十五日、勅して、「天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ」といわれた。

つまり、天武はもはや唐羅の内政干渉をはね返すことができなくなっていた。
その頃、鸕野は県犬養三千代を使者として不比等を訪問させ、「天下を恢興する策や如何?」と下問したのではないか、と林氏は推測する。
天武12(683)年2月1日に、「大津皇子がはじめて朝政をお執りになった」とあり、唐羅への反抗は、大津の性格を反映したものとも考えられる。
不比等は、唐羅への反発による失政の責を大津に負わせる案を示す。

朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた。

林氏は、これは持統による一種のクーデターではないか、とする。
そして、ひと月も経たない10月2日、皇子大津の謀反が発覚し、長期の天武の殯に入る。
大津皇子の事件について、林氏は次のように推測する。
天武が病に倒れたとき、大津が継続して朝政を執れば、国内の諸豪族は支持するであろうが、唐羅は喜ばないから、採用できない。とすれば、表面親唐内面反唐の自主路線で行くしかない。
外交を優先させて、内政をそれに調和させる道である。つまり反対者を黙らせることが必要である。
持統と不比等は、大津に一撃を加えることによって国内に恐怖を与え、女帝を立てることによって外圧を緩めさせて、日本国自立の道をさぐった。
4年に及ぶ長期の天武の殯は、天武の柩を守る持統への忠誠の誓いの儀式であった。
国内を統一する心理的な基盤を確立するために、大津皇子の死が必要だった。

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2008年5月20日 (火)

薬師寺と唐勢力

美術史家の鈴木治氏は、薬師寺論争(白鳳か天平か? 08年2月22日の項)を次のように解いている(08年3月8日の項)。
白村江敗戦後の体制の中で、東院堂聖観音像が唐から運び込まれ、それをモデルに金堂三尊が制作され、本薬師寺に設置された。
そのため、白鳳期であるにも拘わらず、天平像の特徴を備えている。
平城薬師寺への移転に伴い、本薬師寺の金堂三尊を模倣した仏像が作られたが、拙劣だったため埋蔵され、本薬師寺の本尊が移坐された。
つまり、遣唐使断絶時期であるにも拘わらず、唐の影響が強くあったのは、事実上唐の占領下にあったとするものである。
平城薬師寺が本薬師寺を移建することなく新しく建てられたのは、倭の国力消耗を図る唐の意向による。

林氏は、鈴木氏の説を継承し、本薬師寺は、大宰府にいた唐の郭務悰の倭京への進出要求に屈して造営されたものであるとする。
郭務悰は、表面は寺院をよそおいながら、裏面では天武王を監視督励する屯所を倭京に置きたいと考えていた。
孝徳王が難波京の鴻臚館に認めざるを得なかった「大唐司令所」を強化して、日本支配を厳しくしようとするものであった。

壬申の乱の際に、近江朝が筑紫の栗隈王と吉備の当摩公広嶋を味方に引き入れようと使者を派遣して説得に当たらせた。筑紫に行ったのは佐伯男だったが、栗隈王の2人の息子、三野王と武家王の抵抗にあって、逃げ帰らざるを得なかった。
この三野王とはどのような人物なのか?

大海人が決起し、吉野の宮滝から津振川を通って宇陀郡の吾城から甘羅村に来たとき、大伴朴本大国の一団と出会い一行に加えた。それに続いて次のような記述がある。

また美濃国の王(豪族)を召された。するとやってきてお供に加わった。湯沐の米を運ぶ伊勢国駄馬と、菟田郡の屯倉のあたりで遭った。そこでみな、米を捨てさせ、徒歩の者を乗らせた。

美濃王とは誰か?
美濃から米を運んできた一行の宰領であろうか? 美濃の国には国司はいても王と呼ばれる人物はいない。
林氏は、『日本書紀』に登場する類似の人物を抽出する。
美濃王:天武2年12月17日/4年4月10日
三野王:11年3月1日/13年2月28日/4月11日/持統8年9月22日
弥努王:14年9月11日
鈴木治氏は、これらはすべて同一人物で、大阪府中河内郡三野を本貫とする三野王であるとし、林氏もそれに賛成している。

鈴木(林)氏は、美濃王(三野王)は、唐の工作員として、畿内と九州を往復していたとする。この美濃王の妻が、県犬養三千代である。三千代の夫は、『日本書紀』では美努王となっているが、これも同一人物である。
県犬養氏は、河内郡古市郡に本貫を持つ「屯倉(トミクラ)の税」を握る家柄で、不比等の預けられていた田辺氏の本貫に近接していた。
つまり、不比等と三千代が出会っていた可能性は十分にある。

『日本書紀』の天武9年7月に以下の文章がある。

五日、天皇は犬養連大伴の家においでになり、病を見舞われた。恵み深いお言葉を賜って云々といわれた。

犬養連大伴は、壬申の乱の功臣であるが、三千代の父の同族である。このとき、筑紫から美努王の妻の三千代も上京していたのではないか?
筑紫から久しぶりに上京し、唐色濃厚な倭京のはなやかさの中で、若き不比等の颯爽とした姿が、三千代の目に入ったのではないか、と林氏は推測する。
三千代は、後に美努王と別れて不比等の妻となり、光明子(光明皇后)を生む。軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めて後宮で勢力を振るったとされる。

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2008年5月19日 (月)

持統天皇…林青梧説

持統天皇(鸕野讃良皇女)は、天智天皇と遠智媛の間の子供である(08年1月29日の項)。
大化元(645)年の生まれで、姉の大田皇女に次いで大海人の第二夫人となったが、姉が早く亡くなったため天武王の后となり、天武の後に称制期間を経て天皇に即位した。
大宝元(701)年に薨去しており、乙巳のクーデターから大宝律令発布までを生きたこの時代を象徴する人物ということになる。

鸕野讃良皇女はどこで出生したか?
河内国更荒郡(サラチゴオリ)鸕<偏・茲+旁・鳥>野邑(ウノノムラ)という地名があり、鸕野に因むのではないかと思われる。渡来人韓半島からの渡来人が多く居住していた。
林青梧氏は、中大兄の一人である余豊璋は、叔母の宝(皇極・斉明女王)を頼って倭京にやってきたあと、更荒地方を本貫としたのではないかと推測している。林説では、宝は、百済義慈王の妹であるが、倭国で舒明妃となった。
林氏は、中大兄のもう一方の葛城皇子は、葛木郡の出生と考えられるから、名前からしても、鸕野は余豊璋の娘ではないか、とする。

中大兄が、2人の人物の合成像であるとするならば、兄が弟に4人もの娘を差し出すという不自然さもある程度解消される。
葛城と豊璋の両者が大海人となる金多遂に2人ずつ娘を差し出して折り合いをつけようとした、ということではないか?
持統が豊璋の娘だとすれば、大王家の血脈の中に、横から割り込んだ形であり、外的には唐の郭務悰などから、内的には旧豪族たちから、たえず排斥除外されるかも知れないという恐れを抱いていたであろう。
その恐怖感は、持統に強い権力を志向させ、新しい国をつくろうとさせる原動力になった。
そこに、不比等と同一のベクトルがあった、と林氏はみるのである。

不比等が記録の上で登場した持統3(689)年2月26日の直ぐ後の4月13日に、持統の最愛の息子の草壁皇太子が病死した。
その直前に、「黒作懸佩太刀」が草壁から不比等に依託されている。
大津皇子の粛清に不比等が係わっていたのではないか、とする上山春平説について紹介したことがある(07年9月1日の項)。
上山氏は、この「黒作懸佩太刀」について、東大寺献物帳から由緒を引き出している。

右の刀は、草壁皇子が常に身につけていた刀であり、皇子はこれを不比等に与えた。不比等は、文武天皇即位のときに、これを天皇に献じ、天皇の崩御のとき、天皇はこれを不比等に与えた。そして不比等の薨去の日に、不比等はこれを、聖武天皇に献じた。

つまり、元明、元正の女帝の時には、太刀は不比等の手にあり、文武、聖武が立つと不比等から天皇の手に戻されていることになる。太刀は、男帝皇位の象徴である。
見かたを変えれば、男帝皇位が不安定であり、男帝の即位を嫌う外圧があったのではないか、とも考えられる。
そのような重大な太刀を、判事に任命されて間もない不比等が係わっていたとすれば、不比等は判事任命までに深く大王家に係わりを持っていたのではないか、と考えられる。

上山説のように、不比等が史書に登場する3年前の686年の大津皇子の謀殺事件に係わっていたとすれば、不比等と大王家との関係の深さが窺われるが、とすれば、その係わりの始まりはさらに以前に遡ることになる。
林氏は、それを天武9(680)年の頃だろうと推測している。不比等は21歳で、長男武智麻呂の生まれた頃である。
その頃、藤原京の薬師寺が、鸕野の病気平癒を祈願して発願された(薬師寺略年表は、08年2月24日の項)。
しかし、その頃鸕野が重病だったという記録はなく、名目上のことではなかったか?

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2008年5月18日 (日)

鎌足と不比等

藤原不比等は、斉明5(659)年生まれだとされる。百済から出兵要請のある前年である。
白村江の敗戦のあと、倭・百済連合軍が九州に撤退し、近江大津を占拠したときには4歳であった。
不比等の父鎌足は、百済軍と在郷諸豪族との調停であった。その象徴的なシーンが、『藤氏家伝』に記されている「近江浜楼事件」である(08年1月20日の項)。

帝(天智)、群臣を召して、浜楼に置酒したまふ。酒酣(タケナワ)にして歓を極む。是に、大皇弟長き槍を以て、敷板を刺し貫きたまふ。帝、驚き大きに怒りて、執害(ソコナ)はむとしたまふ。大臣固く諌め、帝即ち止めたまふ。大皇弟、初め大臣の所遇の高きことを忌みたるを、茲(コ)れより後、殊に親ぶることを重みしたまふ。

林青梧氏は、この事件を、天智こと余豊璋と大海人こと金多遂の対決と、鎌足の調停とみる。
倭京の巨勢氏や大伴氏など、白村江出兵に反対した豪族たちは、大海人を担いだ。大海人は、豊璋と雌雄を決する覚悟で浜楼に臨んだが、豊璋も大海人を追い詰めて殺害してしまうつもりでいた。
その情報を得た鎌足は、自分の手兵に百済の軍装をさせて待機させた。
果たして会談で、豊璋は大海人に無理難題を浴びせて挑発した。
大海人が槍の穂先の鞘を払った瞬間、鎌足の手兵が大海人を包囲した。
余豊璋も、鎌足を責めることはできなかった。

鎌足は、天智8(669)年10月16日に死んだ。
その前日、天智(豊璋)は、鎌足に大織冠と藤原の姓を与えた。
鎌足は、新羅系による大化改新を主導した一人だった。律令制度導入において、新羅の方が百済よりも先進的であったからだが、孝徳王や大海人などの新羅系のリーダーは、実績を上げることができなかった。
皇極廃王一派の反撃を招き、白村江出兵の敗北まで招くことになってしまった。亡国百済軍ですら、倭の古京の諸豪族族の連合勢力を凌駕するものがあった。

不比等の名前が登場するのは、『日本書紀』の持統称制3(689)年2月26日の判事任命記事である(07年9月1日の項)。
その時31歳で位階は直広肆だった。その後右大臣にまで進むが、その事績は殆んど残されていない。それを林氏は、「あえて残すまいとした」のではないか、とする。
その隠されている不比等の事績と、「日本建国」の歴史が抱き合わせになっているのではないか。
不比等が出仕した時期も不明であるが、長男武智麻呂の生まれた天武9(680)年の直前の頃ではないかと推測される。とすれば20歳頃ということになる。

統一に向おうとしてしていた倭国は、中国に端を発した韓半島の動乱に連動して、滅亡した百済を背負い込み、国号を変更せざるを得ない結果となった。
そして、唐の介入によって、列島自身が動乱の渦を引き起こす場となってしまった。
林氏は、三韓を中心とする多種多様の渡来人とそれらのもたらした雑多混合の文化を、肥沃な日本列島の中で安定的に自立した国として統一するためには、これらの要素と条件を切り回し、配置し、新しい意識とイメージを誕生させる演出者が必要だった、とする。
それこそが藤原不比等に求められた役割であった。
そして、その重大な役割を不比等は見事にこなし、自らは歴史の地表から消えた。

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2008年5月17日 (土)

壬申の乱…林青梧説

大海人皇子が、天智天皇の遺児の大友皇子の統括する近江朝廷への叛乱軍を組織し、実力によってこれを打倒し、皇位を獲得した「壬申の乱」は、日本古代史の中でも解釈が多様に分かれる事件といえるだろう。
既に、そのいくつかの側面について紹介しているが((ⅰ)研究史-08年1月21日の項(ⅱ)原因論争-22日の項(ⅲ)砂川史学-23日の項(ⅳ)国体論-24日の項)、林青梧氏の見解(『「日本書紀」の暗号』講談社(9009))を見てみよう。

林氏は、星野良作『研究史 壬申の乱・増補版』吉川弘文館(7801)に、「壬申の乱に戦い勝って、天皇となった天武は、古代貴族によって神と称され、現実的権力に、さらに超越的権威を付加して、律令体制の頂点に、確固とした地歩を築いたかに見える」としているのを、否定する。
・在位14年の間、大和から一歩も外へ足を踏み出すことのできなかった天武が、古代貴族たちから神と仰がれたというのは史実か?
・天武は、太政大臣も左右大臣もおかない「親政」を敷いたとされているが、それは律令体制の頂点に確固とした地歩を築いたこととどういう関係にあるか?
・『日本書紀』の編纂されていない時代に、「天皇制」などあったのか?

実力による皇位簒奪としての「壬申の乱」は、もちろん皇国史観においてはやっかいなシロモノであったが、すっかりタブーが取り払われたように思われる今日でも、明快な像が示されているとは言えないようである。
『日本書紀』の全30巻の中で、28巻は「壬申紀」といわれるように、ほとんどすべてが「壬申の乱」の記述で占められている。
それをどう解釈するかが、古代史の実像解明のカギであることは間違いない。
しかし、林氏は、例えば『日本書紀』の天武紀上の冒頭に、

天智天皇元年に、立って東宮(皇太子)となられた

という記述があるにもかかわらず、天智紀には、その記録がいっさいないのはどういうことか? と問う。
林氏の見方では、中大兄は、葛城皇子と余豊璋が合わさったものとされているが、のちの天智王となるのは、豊璋の方であるとする。
豊璋は、国情騒然とした中で、7年間も称制のまま施政に当たっている。
一般的には、皇太子のままの方が政治をしやすかった、などと解釈されているが、林氏は、国内情勢が危なくておいそれと王位につけなかったのが実状ではなかったか、と見る。
国内が騒然とした状況にあったことは、『日本書紀』が、近江遷都の後、出火が多かったことを記していることからも窺える。
有名な「法隆寺が一屋も残さず焼失した」とするのも、天智9(670)年4月30日の条の一文である。
これらの出火は、白村江敗戦後の、唐・新羅双方の間諜たちの攪乱工作と見られる。もう一人の中大兄である葛城皇子を暗殺したのも、大海人皇子と唐の合作ではないか、とする。白村江の敗戦後の日本は、唐の占領状態下にあったという鈴木治氏の見解(08年3月7日の項8日の項)に、林氏も賛意を表している。

新羅が唐に対して反抗的になると、唐は、日本に新羅系王朝を立てて、新羅を牽制しようとしていた。
天智が死んで大友が即位し、傀儡政権を樹立するチャンスがやってきた。
重篤な病床にある天智は大海人を呼んで、後事を託そうとする。そこに謀を感じ取った大海人は、出家して吉野に入る。
ある人が「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言った。
しかし、出家して吉野に入ることが、どうして「虎に翼をつけて野に放つようなもの」なのか?

大海人が決起する契機として、『日本書紀』は、次のように書く。

「朕が位を譲り世を逃れたわけは、独り病を養い、身を全くして長く百年を終えんとしたためである。然るにいま避けられない禍を受けようとしている。黙して身を滅ぼすことはできぬ」と言われた。

林氏は、次のように問う。
「朕が位を譲った」というのは、どういう意味か?
王位継承を辞退したという意味なのか? あるいは、近江京の日本国王余豊璋とは別に、大和京で即位したのを、日本国王に譲った(日本国は倭国を併合す)のか?
その前段に、「近江京から大和京に至るまでに、処々に監視人を置いている」という記述からすれば、近江京と大和京の2つの都があったのか?

この時、近江朝では、大皇弟(大海人)が東国に赴かれたことを聞いて、群臣は悉く恐れをなし、京の内は騒がしかった。ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れようとした。

この動揺ぶりには、攪乱工作の臭いがする。
瀬田川を挟んだ戦いの中で、近江軍の指揮をとったのは将軍智尊とされているが、智尊なる人物についての説明がない。林氏は、唐人か大海人側から送り込まれた工作員ではないか、としている。
また、近江側の将軍羽田矢国が突然に大海人側に寝返ったとされている。矢国は、山部王の率いる近江主力軍の将軍であったが、副将の蘇我果安と巨勢比等が山部王を殺したため、果安らを処分して大海人軍に投じた。それは、あらかじめ大海人側と打ち合わせていたのは間違いないのではないか。

林説は、中大兄は2人いたからこそ、暗殺と病死が両立するのであり、天智と天武は、百済人余豊璋と新羅人金多遂だったからこそ、容易に対立抗争に走ったとみる。そして、大友は、豊璋の子であったからこそ、大和の豪族や左右大臣から簡単に見捨てられたとする。
唐が日本に内政干渉したのは、韓半島で新羅が離反の動きを見せたため、それを牽制するために唐の実質的な支配下にある新羅系日本政府を作りだしておきたかったからで、そう考えれば、多くの疑問が解けやすい。

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2008年5月16日 (金)

「日本国」誕生

白村江で破れた余豊璋は、高句麗に逃げたとされているが、その後の足取りは不明である。
倭軍はほうほうの態で撤退し、博多にひき返した。逃げ場を失った百済軍も倭軍を追って博多に押し寄せた。
白村江敗戦直後、倭と百済敗残軍は、2つの課題に当面した。
1つは、唐軍の追撃上陸であり、もう1つは、倭京の情勢である。

『日本書紀』は、中大兄の身分を、「素服称制」(白い服喪の服装で、即位せずに朝政を聴く)としている。
林青梧氏は、この状況を、九州の一角で、朝政を聴いたということであるが、北九州にいただけなのか、倭京の政治のことなのかはっきりしないが、明快に記述できないような混乱状態にあったことを示しているのではないか、としている。
葛城は倭京に戻り、大海人皇子に詔して、増位増官を行なう。
九州から飛鳥になだれ込もうとしてる百済の流亡貴族たちを迎え入れるための措置であった。
しかし、廷臣扱いされた大海人の怒りを誘い、大海人と葛城の対立の要因となる。

「天智暗殺説」については既に触れた(08年1月27日の項)。
井沢元彦氏が「天智暗殺説」を小説化した『隠された帝―天智天皇暗殺事件』祥伝社(9702)は、『扶桑略紀』という平安時代に書かれた史料の、以下のような記述をベースにしている。
山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。それで、その沓が落ちていたところを陵にした。その後も、天智の遺体は発見されていない。

林氏は、中大兄は、葛城皇子と余豊璋の2人が合成された人物像で、暗殺されたのは葛城皇子の方だったのではないか、としている。
『日本書紀』では、山科の里で、太皇弟(大海人)、藤原内大臣(鎌足)、群臣らがお供をして薬狩りをした、とされている。
天智は、鎌足と盟約を結んだのも脱げた履沓がきっかけであり、暗殺されたときも履沓を残している。
『日本書紀』編纂時に、中大兄を必要としたのは、この時暗殺された人物を、その後も生きていて即位するというストーリーとするためであったのではないか。
つまり、葛城と余豊璋の2人を合わせて中大兄としたのであり、葛城暗殺後の中大兄は豊璋のことである、ということになる。

豊璋は、博多に残留していたが、葛城行方不明(暗殺)を聞くと、飛鳥を金多遂(大海人)らの新羅系に押さえられているのを奪回すべく、ただちに飛鳥に入ることを周辺に諮る。
そして、飛鳥では補給線も確保できないことから、琵琶湖畔の南岸がいいという周辺の意見を聞き、近江に遷る。
葛城が処分されたのとほぼ同じ頃、九州に唐軍が進駐する。

(天智4年)
九月に二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わしてきた。--等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰をいう。全部で二百五十四人。七月二十八日に対馬着。九月二十日、筑紫につき、二十二日に表函をたてまつった。
冬十月十一日、盛大に菟道で閲兵をした。

天智8年のこの年条に、「大唐が郭務悰ら二千余人を遣わしてきた」とあり、天智10年11月10日条に、「唐の使人郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七艘に乗って比知島に着いた」というような記述があって、『日本書紀』の記述も整理しきれていないような印象を受ける。
それはともかくとして、林氏は次のように解説する。

退却する倭・百済連合軍を追撃して郭務悰軍が博多に上陸したとき、余豊璋の百済軍は、すでに九州を離れて畿内に乱入して、一気に琵琶湖畔大津地方を占領し、畿内に群居する百済人たちへ大津への移住を命じた。それを嫌う百済人は東国に逃げた。
郭軍は、菟道で閲兵した後、ひとまず筑紫に退き、九州の一角から倭ににらみを利かす。
近江に成立した政治体は、周辺豪族の制圧と併合にとりかかる。

三月十九日、都を近江に移した。
……
八月、皇太子(天智)が倭の京(飛鳥)におでましになった。

林氏が指摘した闇に包まれた古代史の謎の1つの「京が2つあったのか?」という疑問である。
余豊璋は、倭の古京の飛鳥に赴き、大海人と調停を結んで、新朝廷を樹立し、国号を「日本」とする。
『旧唐書』の記す「日本はもと小国にして、倭国を併合す」である。

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2008年5月15日 (木)

白雉の政変

大化改新否定論者の原秀三郎氏が「白雉惟新」を唱えていることは既に紹介した(08年4月5日の項)。
それは、孝徳朝の実体は白雉以降であり、その記録が大化年間に集中的に集められたのではないか、とするものである。
原氏は、「白雉惟新」論の具体的内容を以下のように想定している。
第一に「評制」が施行された。
第二に、白雉改元をした。
第三に、白雉2年に難波遷都を行った。これに伴い、畿内制を施いた。
第四に、653年と654年に遣唐使を派遣した。
これらの孝徳の新政は、儒教に基づく理想主的な政治であったため、現実面の経済政策や土地政策でぬかりがあり、中大兄と対立関係になった。

林青梧氏は、白雉改元は、日本列島における新羅系と百済系の主導権争いの1コマだとする。
新羅の武列王から、倭の孝徳王への肩入れを命じられて、大化5年に、金多遂が倭を訪れた。しかし孝徳朝は崩壊寸前で、金多遂も手の打ちようがなかった。
『日本書紀』では、翌年(大化6年)の1月1日から、突然に「白雉」に年号が変わっている。その理由は説明されていない。
2月9日の条で、白雉が現れたことを瑞祥とみる、という説明がある。
白雉出現の意義を問われて答えているのは、百済君豊璋である。
つまり、孝徳王に代わって、豊璋が百済系の斉明(皇極・宝)女王の復活を図った政変だった。
冬12月の晦日の条に、この年、新羅の朝貢使知万沙飡が、(唐の服を着て筑紫に来たため)追い返され、巨勢大臣が、「今新羅を討つべし」と上奏した、というような記述がある。

文定昌『日本上古史』(1970)は、この時期、倭朝は、新羅系孝徳王の大和国と、百済系白雉朝の併立王朝だった、としている。
白雉朝の遣唐使派遣は、新羅系を一掃した百済系王朝が、唐の反応を確かめるためのものであった。
新羅系の高向玄理は、翌年の遣唐使に加えられ、唐に追放されて唐で死去する。僧旻は、病に倒れる。僧旻を病床に見舞った孝徳は、「もし法師が今日亡くなれば、自分はお前を追って明日にでも死ぬだろう」(宇治谷孟訳)と言った。
そして、皇太子の「倭京に遷りたい」という奏上を孝徳が拒否し、皇太子は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮に遷ってしまうことになる。
皇極上皇と記されているが、この時代に上皇という呼び名はない。

ここで林青梧氏は、大海人皇子の登場を重要なこととして指摘する。
乙巳のクーデター時にも、孝徳王の政権にも、全く影も形も現さなかった大海人皇子が、白雉王朝になって突然に姿を現した。
大化5年以前に倭にいなくて、それ以後倭にやってきた人物で、政治的に重要な人物は誰か?
林氏は、新羅王が倭に派遣した金多遂こそ大海人皇子であった、とする。

金多遂は、孝徳からの援軍要請に応えて来倭したのだったが、孝徳王をテコ入れできるような情勢ではなかった。
林氏は、大海人を、海の向こうから渡来し、新しく余氏に加わった大切な人物、というような意味ではないか、と解している。

この時期、韓半島では、高句麗、百済、新羅が、三つ巴の激闘を繰り返していた。
655(百済義慈王15、斉明元)年、百済、高句麗、靺鞨が同盟して新羅に総攻撃をかけ、三十余城を攻略した。
新羅の武列王(金春秋)は、「先滅百済、後討高句麗」を唐に提案し、唐の高宗はこれに同意した。
660年に、唐は蘇定方を帥として13万の大軍を発し、新羅軍5万が加わって、百済軍を一気に攻略して、百済は敗亡した。
斉明女王は、百済からの救援要請に応えて、豊璋を百済王に任じ、百済再興を図る。
ちなみに、林氏は、『日本書紀』において後に天智天皇となる中大兄皇子とは、葛城皇子と余豊璋の合体したものとしている。

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2008年5月14日 (水)

倭と新羅の政変の連動

『日本書紀』の大化3年の項に、以下のような記述がある(宇治谷孟現代語訳)。

新羅が上臣大阿飡金春秋(のちの武列王)らを遣わして、博士小徳高向黒麻呂、小山中中臣連押熊を送り、孔雀一羽・鸚鵡一羽を献上した。春秋は人質として留まった。春秋は容色美しく快活に談笑した。

林青梧氏は、『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)において、「孔雀一羽、鸚鵡一羽の手土産を持ち、容色美しく快活に談笑する『人質』とは、いかなる意味か?」と問う。
そして、文定昌『日本上古史』(1970)の以下のような解説を紹介する。

金春秋は、倭における大化政変の結果の検分に来たのだった。新羅からみると、在倭新羅系の孝徳王の親新羅政策は生ぬるく、金春秋は、難波京にのりこむと、孝徳王に倭国の国号の変更を求めた。当時、真徳王の新羅は、年号を「大和」といった。それをそのまま使わせてヤマトと読むことを命じたのだ。
翌年、金春秋は、自由意志で倭を去って本国に戻り、さらに唐に入る。そういう人物を「人質」と書かなければならなかった事情が倭国にあったと考えるべきだろう。
応神紀の「御友別」が侵入軍の意味であったことからすれば、「人質」についても同様のことが言えるのではないか?

当時、高句麗で唐の冊立した建武王を、淵蓋蘇文が殺害し、これに唐が制裁行動をとったことから、倭・韓に影響が及んだ。
その余波によって、新羅と倭で連動する政変が起きた。
〔新羅〕
上大等(新羅の家臣最高の身分)の<偏・田+旁・比>曇(ビダン)を首領とする門閥グループと、金春秋らの国王グループとの間に、反目対立の状況が生じた。
金春秋は、善徳女王をかついで、強い集中権力を作り上げようとした。
〔倭〕
蘇我王を中心とした畿内王族、大伴の連合政権で、「君」は女の宝大君だった。中臣鎌足が、中大兄とはかって、宝大君を強力に支持して強権を築き上げ、韓半島から分離して自立する道を探っていた。

唐の太宗は、新羅の状況をみて、善徳女王では弱いから、太宗の一族を送るからそれを王にしたらどうか、と新羅に申し送ってきた。
新羅は、それを真似て、宝大君では弱いから、新羅の派遣する王族を王にしたらどうか、と倭に言ってきた。その候補者が金春秋だった。
という背景を考えれば、大化政変は次のように考えられるだろう。

1.新羅では上大等の路線は多くの貴族の支持を得て、善徳女王廃位へと向かっていた。倭では、蘇我本宗家が豪族層の支持を受けて、宝女王(皇極)廃位に向かっていた。
2.大等層の意向に対して、善徳女王を支持したのが金春秋であり、金庾信だった。倭では、中大兄と鎌足の関係がこれに似ていた。
3.鎌足が、中大兄と共に蘇我氏を倒したあと、金春秋がやってきたのは、同時進行の新羅・倭両国の政変の進行状況を検分するためだった。
4.新羅では、646年に<偏・田+旁・比>曇(ビダン)が殺されて政変が終結し、倭ではその前年の645年に入鹿が殺されて政変が終結した。

「大和国」はこうして誕生した。『古事記』や『日本書紀』は、倭国や大和や日本をすべてヤマトと読むことによって、一本の歴史に作り変えようとしたのだ。
新羅の倭に対する内政干渉は、倭国内の百済系王家や百済本国、高句麗を激しく刺激した。
高句麗は、唐の太宗の攻勢を跳ね返し、百済も新羅に対して攻勢に出た。
その状況は倭に反映し、孝徳王朝内の百済勢力と皇極廃王の一派が政変を起こす気配を見せた。
大化5(649)年3月17日阿倍左大臣が薨去し、3月25日蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いをかけられて山田寺で自殺した。孝徳王の先制攻撃だったが、謀反の疑いがあったことも事実だと思われる。

倉山田石川麻呂を粛清した孝徳王は、新羅に特使を送る。それに対し、新羅王は、金多遂を倭に派遣した。『日本書紀』は、これを「人質」と書くが、同時に従者37人と書いており、「人質」の性格が窺われる。

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2008年5月13日 (火)

二冊の正史

日本古代史には、『古事記』と『日本書紀』の二冊の「正史」がある。
林青梧氏は、『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)において、「一国に正史が二冊あるのは変ではないか?」と疑問を呈する。
『日本書紀』にも『古事記』にも疑問点があるが、両書の疑問点に関連性はないのか?

『古事記』の冒頭には、天武天皇が、諸家が持っている『帝紀』と『本辞』が正実を失い、虚実のあることを憂慮し、それを正して後世に伝えるべく、稗田阿礼に勅語して『帝皇日継』(『帝紀』)と『先代旧辞』(『本辞』)とを誦習させた……、とあり、それを和銅4(711)年に太朝臣安万呂に勅して記録させた、とある。
これはどう理解すべきか?
諸家が『帝紀』や『本辞』を持っていたとすれば、すでに文字で記録されていた、ということである。それをなぜ、稗田阿礼に新しく暗誦させ、さらに文字に書き記したのか?
また、『日本書紀』によれば、蘇我氏は、多くの王室文書を保持していたが、乙巳の変の際に焼かれてしまった、とある。
稗田阿礼は、失われてしまっている古記録を自分の目で見て暗誦したわけではないとすれば、暗誦したということ自体が、潤色もしくは虚構ではないのか?

14世紀に著された北畠親房の『神皇正統記』などには、桓武天皇の統治年間に、朝鮮関係の諸記録が焼き捨てられた、という記述があるという。それは、それらの諸記録に、「皇室」の祖先が、新羅に討滅された百済人だとなっていたからだろうと言われる。
以来、新羅(朝鮮)に対する優位性を持とうとする強い志向が現れてきた。
『古事記』や『日本書紀』が木版で印刷されたのは16世紀末(1596年)であり、1699(寛文9)年の刊本が行き渡っていたのであり、『古事記』や『日本書紀』にも改変が加えられているのではないか?

林氏は、その糸口を以下の諸点に求める。
1.『古事記』上巻〔序文の第一段〕
人皇第一代の神武天皇は、「大和の国」にお出ましになった、とされている。
つまり、既に「大和の国」が存在したのであって、「倭」や「邪馬台国」というような記述はない。言い換えれば、『古事記』が対象としているのは、「大和」以降のことであって、「大和」をヤマトと読み、その音の中に、倭も邪馬台国も封じ込められてしまっているということになる。
とすれば、文字の「大和」は何に由来するのか?

2.〔序文の第二段〕
天武天皇は、壬申の乱で、赤い旗をたてて戦ったとあるが、なぜ中国風のことをしたのか?
天武天皇の有徳が、黄帝や周の文王にまさる、と書かれているのはどういうことか?

3.大己貴・少彦名神
『広辞苑』第2版の「からのかみ」の項に、「大己貴・少彦名二神の称。宮内省に祀られた」とあり、『古事記』冒頭では、「高御産巣日」の子として「少彦名」と妹二神が登場し、末娘の「三穂津媛」が「大己貴命」の妃となるとされている。
とすると、「天孫系」とされている「高御産巣日」は、朝鮮からの渡来人ということになるのだろうか?

4.大八島
「大八島」とは、淡路、二名島(四国)、隠岐、筑紫、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(本州)とされている。ここで登場する「倭」とは?

5.天岩戸事件
天岩戸事件において、「天照」を岩戸から連れ出す際の岩戸の前の諸神のお祭を仕切るのが「天児屋命」である。彼は、中臣氏(のちの藤原氏)の祖であり、「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の天孫降臨の際の最側近五神の筆頭者とされている。この五神は、いずれものちに「大王家」の重臣層を形成する人々の祖先とされている。
このことは、『古事記』編纂の目的が、当時の大王家と藤原氏の関係の絶対化であったことを示しているのであろう。
とすれば、『古事記』は国内向けの書であり、『日本書紀』は国外向けの書ということになるのではないか、というのが林氏の推測である。

林氏は、古代天皇の寿命について問題にしている。
〔第五章〕の木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の話の項に、「天の神の御子の御寿命は、木の花のようにもろく、おいでなさることでしょう」という記述がある。つまり、『古事記』編纂時まで、天皇の寿命は長くない、とされている。
しかし、『記紀』における古代天皇の寿命は、著しく長い。
通説では、神武紀元を紀元前660年に設定したため、古代天皇の寿命が引き伸ばされたということになっているが、『古事記』編纂の時点では実際に歴史を目撃した人びとがいたのであるから、実際に若くして死んだ「大王」たちがいた、と考えるべきだろう。
彼らは、韓から渡来したときの、金とか朴とかの名前を持っていたのではないか?

古代天皇家と韓人の関係を、『日本書紀』の記述に探ってみると、以下のような事項が目につく。
1.垂仁紀
天日槍(アマノヒホコ)来日記事がある。新羅の王族の一人が、王の身分を弟に譲って、日本に渡来定着した話であるが、天日槍は、但馬国(兵庫県)を居所と定めた。
天日槍はさまざまな物品を持参するが、その中に、熊の神籬(ヒモロギ)がある。
朝鮮では古来、熊は人間の天敵だったが、熊を征服することができず熊との協調・慰撫を考え、熊(コム)は神(カム)になった。
もし、日本神道の元が、この時新羅から伝来したとすれば、「神仏習合」の底流には、渡来韓国人の、新羅系と百済系の合流というような意味もあるのではないか、と林氏は推測している。

2.応神紀
応神紀には、三韓との交流が表面に出てくる。
14年春2月に、百済王が縫衣工女(キヌヌイオミナ)を奉っているし、弓月君が百済からやってきて、百済の人々が渡来するのを新羅が妨害して、加羅に留まっていると説明する。
日本の朝廷は、葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を加羅に遣わすが、3年経っても戻ってこない。
16年8月に、加羅に平群木莬宿禰(ヘグリノツクノスクネ)と的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)を加羅に遣わし、木莬宿禰らは弓月の民と襲津彦と共に還ってくる。
22年秋9月に、天皇が淡路島などに遊びに行っているときに、御友別が来て、その兄弟子孫をもって天皇の料理番として仕え、その仕え方が良かったので、吉備6県を料理番たちに与えたとある。
「御友別」とは何か? この文章は何を説明しているのか?

韓国ソウル大学出版部刊行の文定昌『日本上古史』(1970)に、以下のような記述がある。
第一編「日本上古史の概要」の第四章「倭の新羅侵寇と倭王応神の降伏」の第四節「応神王の明石浦降伏」の箇所である。

応神王が難波朝を創設したのが、二七○年である。難波朝と新羅との間に戦闘状態が継続し、新羅軍が攻勢を取って、遠く日本本州の腰部である瀬戸内海まで、攻め入った。たまりかねた倭王応神が降伏して、吉備国、すなわち今日の岡山県地方六県を新羅軍に割譲した。このような事実を、韓・日両国文献は、次のように記録した。

つまり、新羅軍を御友別、戦争を奉饗、敗戦を悦情と置き換えたということである。吉備の六県は、数世紀の間、難波や大和政権に協同したり反抗を継続したとされているが、『日本書紀』の仁徳紀における川島河派の大乱や雄略紀の吉備上道臣田狭父子の謀反、清寧紀の王子星川の事件などが相当するのではないか、と林氏は推測する。

天日槍渡来については、『日本上古史』は以下のように記述している。

垂仁王年代に、後日、日本上古史上、至大娜な影響を及ぼした事件が突発した。それは垂仁三年のつぎの記事だ。
春三月、新羅王子天日槍来帰焉。
新羅王子天日槍は(三韓)東海岸のどこかの地方を去り、北九州に入り、伊都県すなわち、今の博多地方を占領して、また瀬戸内海に入り、播磨、すなわち今の神戸地方を占領し、さらにその前の淡路島を占領し、また莬道川、すなわち今の淀川を遡上して、京都地方を占領し、また近江国=滋賀県をへて、若狭国と但馬=福井県を占領し、敦賀地方に進出し、その本国と交流した。

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2008年5月12日 (月)

韓神と紀元節と古代史の闇

韓半島と天皇家の関係について、林青梧『「日本書紀」の暗号』講談社(9009)は、驚くべき事実を指摘している。
それは、ある座談の席でのことである。林氏が、紀元節の起源について、次のような意見を述べた。
紀元節の始まりは、後醍醐天皇が、宮中に祀った「韓神」を自ら祭った儀式にある。建武2年2月11日のことで、それは上代における日韓関係の重要性を物語るものだと思われる。紀元節の復活論議は、それを説明した上で行なわれるべきだ。

紀元節といっても、私などは言葉として知っているだけで、体験しているわけではないが、それが現在の「建国記念の日」の祝日の前身であり、『日本書紀』が神武天皇が即位した日を元にして定められた、という程度の認識はある。
しかし、「韓神祭」などというものは、言葉としても知らない。
その座談に居合わせた人の大半もそうだったようだ。「本当か?」と問う人たちの前で、林氏は、その部屋にあった『広辞苑』で調べてみせる。

ところが、その『広辞苑』には、「韓神(カラカミ)」という項目は載っていない。昭和46年5月16日刊の第2版第1刷の『広辞苑』だった。
林氏の記憶では、確かに収録されているはずの「韓神」がない。林氏は、「からのかみ」が載っていること、さらに「からのかみのまつり」として、「〔韓神祭〕宮内省内に祀ってあった韓神の祭。古くは二月と十一月とに行なわれたが、中世以後衰え廃絶した」という説明があることを確認する。
しかし、2月11日という肝心な日付に関する記述は欠落している。

林氏の自宅の『広辞苑』では、「からかみ」の項目に、「〔韓神祭〕上代において二月十一日に行なわれた、宮内省の内にまつられてある韓神社の祭。中世以後衰え廃絶した」という説明があり、「からのかみのまつり」という項目はない。
第2版の『広辞苑』において、「からかみ」を消して「からのかみ」の項目を設け、2月11日を消す、という変更が加えられたことになる。
これが第3版では、「からかみ」が復活し、「からのかみ」に同じ、という説明があって、「からのかみ〔韓神〕」には、「朝鮮から渡来した神の意か」が追加され、「からのかみのまつり」の説明は、第2版と同じであった。

林氏は、上記の改変は、「2月11日と韓神の関連を断ち切る」ということだと推論する。
しかし、誰が、どういう判断によってなのか?
そのことに問題意識を持った林氏は、2月11日と朝鮮とのかかわりを追求すべく古代史探究の旅を始めることになる。

林氏は、古代史に関する疑問点(闇)として、以下のような項目を挙げる。
1.「倭」とは?
『魏志倭人伝』等に出てくる「倭」を、日本人の多くは、一個の独立国のように理解しているが、それは正しいか?
「倭」は、宗主国魏の冊封を受けた周辺従属国として位置づけられているのではないか? つまり「倭」は、「魏」の一部として認識されていたのではないか?

2.天智天皇と天武天皇の正体は?
「天智・天武非兄弟説」が注目を集めているが、それでは、天智や天武の正体は何か?
代々の天皇は可及的速やかに即位しているように見えるのに、天智はなぜ長期の「称制」をしたのか?
在位期間中に大和から一歩も出なかった天武の「天皇親政」とは、どんな政治だったのか?
つまり、「称制」とか「天皇親政」の実体・実像はどういうことだったのか?
さらには、天武の「殯」の異常な長さは何を意味するのか?

3.「大君」という呼称をどう考えるか?
一般的に、「大君」は「大いなる君」、つまり臣下の立場から天皇に捧げる尊称と考えられているが、それは只しか?
大臣(オオオミ)や大連(オオムラジ)という言葉があることを考えれば、「君」の筆頭が「大君」だったとは考えられないか?
つまり、もともとは、「君・臣・連」という氏姓制があって、君姓(キミカバネ)の中で最有力になった一家が「大君」となり、それが天皇と呼ばれるようになって氏姓制を離れ、氏名を消して神格化されたのではないか?

4.誰が入鹿を殺したか?
「乙巳のクーデター」に関して、『日本書紀』の記述に、古人大兄が「韓人鞍作を誅す」と言ったとある(08年3月19日の項08年3月24日の項)。
この韓人とは誰のことか?
「韓人が鞍作を誅した」のか「韓人の鞍作」が誅されたのか?
大兄が長男という意味とすれば、葛城皇子が中大兄という通称で呼ばれたのは、どういう意味か?

5.京(ミヤコ)は2つあったのか?
『日本書紀』の天智称制6年(即位の前年)8月の項に、《皇太子倭京に幸す》という記述がある。
皇太子とは誰か? 倭京とはどこか?
「××に幸す」というのは、行幸つまり都から地方に赴くことである。とすれば、どこの京から倭京(飛鳥?)に行幸したのか?
皇太子がのちの天智で、近江京から倭京に赴いたとすると、天智の即位は翌年なので、この時点では、天皇は不在で、近江と飛鳥の両方に京(ミヤコ)があったのか? 
つまり、二国が対立もしくは並立していたのか?

6.国号の変遷をどう考えるか?
『旧唐書』に「日本はもと小国にして、倭国を併合す」という記述がある。
倭国と日本は、別個のものなのか? とすれば「大和」はどう位置づけられるのか?
『日本書紀』では、「日本」「大和」「倭国」がヤマトと呼ばれている。
それは、ヤマトという音で呼ばれていた地域に対する諸勢力の呼び名の違いではないのか?
「日本」という国号や天皇制の発祥をどう捉えるべきか?

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2008年5月11日 (日)

伽耶・倭国連動論

2室伏志畔『万葉集の向こう側―もうひとつの伽耶』五月書房(0207)は、水野祐氏の「三王朝交替説」を下敷きにしつつ、王朝交替が、日本列島と朝鮮半島で連動していた、とする。
室伏氏は、水野説を左表のように要約する。
そして、井上秀雄氏の朝鮮三国の王朝系図の研究から、新羅史の王朝交替史を引用する。それは、朴氏-昔氏-金氏の三姓の交替であるとするものである。

さらに室伏氏は、朴炳植『日本原記―天皇家の秘密と新解『日本書紀』』情報センター出版局(8706)から、新羅史の内に伽耶史をみる視点を紹介し、そう捉えれば、伽耶史も朴-昔-金の三姓の変遷史として捉えられる、とする。
朴炳植氏は、日本語のルーツを、韓国の慶尚南道の方言であると論じた人であるが、その慶尚南道というのは、「任那日本府」が置かれていたといわれる伽耶(伽(加)羅)の地である。
その伽耶の歴史は良く分からないとされているが、室伏氏は、水野「三王朝交替説」と朴「三姓交替史論」を重ね合わせて、伽耶史を「幻視」してみる。
朴炳植氏は、新羅王朝史の2つの大きな節目について、朴-昔の交代時期を180年前後、昔-金の交替時期を360年前後に想定している。
この新羅史の節目と同時期に、日本列島では何が起きていたか?

『魏志倭人伝』の伝える倭国大乱は、霊帝光和年中(178~183)年とされており、新羅史の第一の節目と重なる。また、崇神王朝の最後の王・仲哀天皇が謎の死を遂げたのが362年で、新羅史の第二の節目に近接している。
つまり、朴炳植氏は、伽耶王朝の継ぎ目を邪馬台国の成立と仲哀天皇の死と対応させた。これに対し、室伏氏は、水野「三王朝交替説」に連動させる。
というのは、邪馬台国(卑弥呼)と仲哀天皇を、同じ範疇の王朝にくくれるとは思えず、大和朝廷との連動で考える方が適切だろう、というのが室伏氏の見解である。

2_2室伏氏は、新羅(伽耶)王朝の継ぎ目と、水野「三王朝交替説」を左図のように対応させる。
つまり、新羅(伽耶)王朝内部の争乱が、玄界灘を挟んで日本列島に連動しているとみるわけである。
朴炳植氏は、伽耶の第二王朝から第三王朝への転換は、日神信仰から熊信仰への転換であるとする。
これを受けて、室伏氏は、仲哀を倒した熊襲の「熊」、出雲一の宮の熊野大社の「熊」、神武東征における熊野迂回における「熊」の字に注意を向けている。

さらに、室伏氏は、1990年夏に、伽耶の大成洞古墳から、「槨あって棺のない」王墓が発掘されたことを指摘する。
それは騎馬民族に特有のものである。
また、その王墓から、日本にしか発掘されていなかった巴形銅器、筒型銅器が発掘され、これらの銅器が、朝鮮半島に起源について問題が提起された。
副葬品には、騎馬民族の風習を伝える馬具や甲冑などが多く、伽耶王朝が騎馬民族の地を引くことが立証された。

つまり、室伏氏は、「伽耶三王朝交替史」の背景に江上「騎馬民族征服王朝説」を置く。
九州王朝・倭国は「もうひとつの伽耶」であり、白村江の敗戦後、唐の管理下に置かれ、解体された。
九州を逃げ出した天智は、近江に立て籠もったが、天武によって滅ぼされた。それは、近畿における倭の再興であり、天皇制の開始であった。

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2008年5月10日 (土)

三王朝交替論

天皇家は、果たして神武以来万世一系として存在したのだろうか?
言い換えれば、日本には王朝交替はなかったのだろうか?
騎馬民族征服王朝説と並んで、戦後の古代史学に大きな反響を呼んだのが、1952年に提唱された水野祐氏の「三王朝交替説」だった。

別冊歴史読本『古代史論争歴史大事典』新人物往来社(0101)所収の小林敏男『王朝交替説』を見てみよう。
水野氏は、大化改新以前に血統を異にする三つの王朝が更迭されたとする。
崇神王朝たる「古王朝」(呪教王朝)、仁徳天皇の「中王朝」(征服王朝)、継体以後の「新王朝」(統一王朝)の三王朝の交替説である。
水野氏は、「『古事記』の崩年干支」「『記紀』の和風諡号」「『日本書紀』の空位の検討」に基づいて、王朝交替の結論を得た。

三王朝交替説を支持する論者は多く、議論が深められていった。
崇神王朝は、三輪山をシンボルとする「三輪王朝」であり、崇神・垂仁天皇とその皇子女に「イリ」の名辞が含まれるものが多いことから、「イリ王朝」とも呼ばれる。
仁徳王朝については、水野説は、南九州に在った狗奴国が河内に進出した、とするものであったが、河内に自生した勢力が三輪王朝を征服したとする「河内王朝」が盛行した。
水野説が、仁徳天皇を始祖としたのに対して、出自や系譜などから一代前の応神天皇を始祖とする「応神王朝」とする説や、「イリ王朝」との対比で「ワケ王朝」と称する説が登場した。
継体王朝は、その出自を越前とみる(『日本書紀』)越前王朝説と、近江とみる(『古事記』)近江王朝説に分かれる。

王朝交替説は、直木孝次郎、上田正昭、井上光貞などの堅実な実証主義的史家によって継承されたので、史学界でも受容者が多い。
しかし、「王朝」概念をどう捉えるかという点に関しては、異論も少なくない。
普通には、全国的な統一政権(王権)というような意味で使われるのであろうが、そういう意味での「王朝」という認識が成立したのは何時なのか?
例えば、奈良時代の天武系から、光仁・桓武の天智系に王統が交替したときではないか、というような議論がある。

また、三輪王朝とか河内王朝という場合の「王朝」という場合、支配体制との関係をどうみるのか?
つまり、政権と王朝はどう異なるのか?
支配体制には変化があったのか、なかったのか?
天皇を補佐する大臣や大連は、武列から宣化の間で一貫していて、武列と継体の間に断絶があることは覗えない、とする説もある。

焦点の1つが、継体天皇である。
日本書紀〈上〉』(宇治谷孟訳)は、継体天皇について、以下のように系譜を記す。

男大迹天皇(オオドノスメラミコト)--またの名は彦太尊(ヒコフトノミコト)--は、応神天皇の五世の孫で、彦主人王の子である。母を振媛という。振媛は垂仁天皇の七世の孫である。

笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)は、「傍系の皇族が畿外から迎えられることは異例のことであり、継体天皇の即位は、事実上新王朝の創始を意味していた」とする。
事実上の新王朝の創始とはどういう意味だろうか?
形式上は、前王統を継承しているが、実際は簒奪者としての性格を持っていたということだろうか?
「五世の孫」の中間の系譜が不明のため、議論が分かれるところである。

そもそも、「五世の孫」の血統をどう考えたらいいのだろうか?
血統性が、一世経るごとに1/2になるとすれば(実際は、他の要因もあるから最大で1/2ということだろうが)、(1/2)の5乗は1/32である。
それでも万世一系ということなのだとすれば、どの程度の血統性まで許容されるのか、という疑問が湧く。

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2008年5月 9日 (金)

逆転の発想としての騎馬民族征服王朝説

笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)でも、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」について触れている。

一九四八年に提唱された江上波夫の著名な騎馬民族征服説は、四世紀から五世紀にかけて東アジアに南下し、農耕社会に定着した北方系騎馬民族の一派が、朝鮮をへて日本にも渡来し、卓越した軍事力によて倭人を征服し、日本の支配者になったと主張するものである。江上によれば、四世紀前半に任那から渡来した騎馬民族は、まず九州北部に第一次の建国をし、ついで四世紀末から五世紀初にかけて東方に進み、河内を根拠地とする第二の建国を行い、やがて大和の政権を併合して日本の支配者になった。第一次の建国の祖が崇神天皇(ミマキイリヒコ)であり、第二次の建国の祖が応神天皇であるという。

と要領よく紹介した後で、次のように評価している。

江上の説は、考古学的にみて疑問とすべき点が多いが、日本における国家の形成を外的な要因から捉えようとした点で画期的なものであり、また日本古代の民俗・言語・神話における北方的・南方的要素の存在の解明にも、大きな示唆を与えるものである。応神天皇については、記紀の所伝においても新王朝の創始者としての性格が濃厚であり、四世紀末の朝鮮をめぐる激動のなかで、軍事的指導者による王位簒奪などのかたちで王権の交替が行なわれた可能性は認められるが、その場合でもそれは支配層の完全な交替ではなく、王権の基盤をなす体制は、前代以来の体制を継承発展させたものであったと考えるべきである。

王朝の交替という点に関しては、笹山氏は、同じ東大国史の先輩筋の井上光貞氏の見解を引用している。

記紀の伝承によると、応神天皇は九州北部で母神功皇后から誕生し、麛坂・忍熊の二王を破って畿内に入り、王位についたとされており、その出生が神話化されている。井上光貞は、応神天皇が帝紀の系譜では元来それまでの崇神王朝とは別系であり、入聟のかたちでつながるものであったと思われることと関連して、応神天皇が九州北部の軍事的指導者の一人で、大和政権の王位を奪ったか、あるいは天皇自身が騎馬民族系の渡来者で、九州から畿内を平定した可能性もあるとしている。

テキストとして公平な記述を心がけているためだとは思うが、笹山氏自身の評価はどうなのか、という辺りがスッキリしない。
まあ、物事は単純に割り切れるものではなく、常に左右・上下・裏表等から多面的に見ることが必要である。われわれは、生きている間にどうしても身に着けてしまう物の見方・考え方というものがある。
例えば、地図は北を上に南を下に書くのが普通だから、どうしてもそういう感覚が当たり前のようになってしまう。ところが、オーストラリア等で売っている、南を上にした世界地図を眺めていると、大げさにいえば世界観が変わってくる気がする。
同じことは、日本列島と朝鮮半島との関係についてもいえる。
朝鮮半島の側から日本列島を描いた地図を眺めていると、われわれの歴史認識が、地図のもたらす固定観念と不可分だったのではないか、と思う。

創造性開発の本では、固定観念を打破して、自由な視点から考えることの重要性が説かれている。
代表的な言葉として、「馴質異化」「異質馴化」というものがある。
異質馴化とは、自分には全く未知のもの(領域)のことをヒントに自分の問題解決を着想すること、馴質異化とは、既知のものを、新しい視点から見ることで新しい着想をえること、である。
http://www.h2.dion.ne.jp/~ppnet/prod0821.htm
もちろん、その趣旨は理解できる。そうできれば、従来とは異なる物の見方・考え方ができるであろう。
しかし、「言うは易く、行なうは難し」である。
自分には全く未知のものから、どうやってヒントを見つけ出すことができるのか?
既知のものを新しい視点から見ることができるのか?

織田正吉・松田道弘『遊び時間の発想』日本経済新聞社(8204)は、観念の固定化を防ぐための実践論に満ちた書である。
残念ながら、Amazonの古書でも品切れ状態らしい。こういう本こそ、再販されてしかるべきだと思う。
第一に「まえがき」の冒頭から、人を食った書き出しである。

日本在住の外国人があるアンケートで日本の印象について答え、
「日本人が多い」
といっているのに驚いたことがある。

われわれは、「日本に日本人が多い」のは当たり前だと思うが、それは実は世界では当たり前の現象とは言えないということだ。
同書の中に、「『騎馬民族説』--これはまさに逆転の発想」とする箇所がある。

従来の史学では、大和の王権が拡大し、強大になった軍事力が、四世紀後半、朝鮮に向けられ、出兵して任那に日本府が設けられたりしたというんでしょう。江上さんは一八○度反対に、日本の方が朝鮮経由で渡来した騎馬民族によって征服されたのと考える。

日常生活では、天動説を疑う必要性はまったくない。
しかし、より広い視野を求める場合には、地動説でなければならない要素が出てくるのと同じことだろう。

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2008年5月 8日 (木)

「任那日本府」と内なる皇国史観

「任那日本府」をどう捉えるかは、日本古代史に対する見方のポイントの1つのように思われる。
例えば、1919年に慶尚南道に生まれ、10歳のときに渡日し、日本大学を卒業して日本で敗戦を迎えた金達寿の『日本古代史と朝鮮文化』筑摩書房(7601)に、「わが内なる皇国史観/「任那日本府」をめぐって」という一文が収載されている。
そこで、金氏は、日本読書新聞に掲載された、在日朝鮮人に対する「第三国人」という言葉に関する「謝罪文」に触れつつ、日本人(および一部の指導的韓国人)の日本列島と朝鮮半島の関係史に関する「意識」を問う。

金氏によれば、在日朝鮮人のことを「第三国人」と書いたということなどは、実は余り大したことではなくて、もっとシリアスな問題がある、という。
例えば、平気で、豊臣秀吉による「朝鮮征伐」と書く文芸評論家がいる。
これに関して、「広辞苑」が「朝鮮征伐」という項目を外すというエピソードが紹介されているが、それについては、秀吉が朝鮮に侵攻したという歴史的事実はあったのだから、まだいい方だろうとする。

金氏が取り上げているのは、高校教科書『新日本史』の次の記述である。

紀元三世紀ごろ、朝鮮半島の南部には韓民族がそのころの日本と同様に小国家群を作り、馬韓・辰韓・弁韓の三つに分かれていたが日本の統一と相前後し、四世紀の前半ごろ、馬韓・辰韓はそれぞれ百済・新羅という二つの韓民族の国家に統一された。四世紀にはいると、大和政権の勢力は朝鮮半島に進出し、小国家群のままの状態にあった弁韓を領土として、ここに任那日本府を置き、三九一年には、さらに軍隊を送って百済・新羅を服属させた。半島南部を征服した大和政権は、半島の冨と文化を吸収して、その軍事力と経済力を強化し、国内統一はこれによって著しく促進された。

この三省堂版『新日本史』の著者は、教科書裁判で、政府・文部省と検定の是非を争った家永三郎(元東京教育大学教授)である。
教科書裁判については、最高裁において、「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分は退けられたが、個別の検定内容については、家永氏の主張が認められている。
この教科書裁判によって、家永三郎という名前は、進歩的・反権力といったイメージと結び付いている。

しかし、上記の教科書の記述はどうであろうか?
金氏は、そもそも「日本」という呼称ができたのは660年代末であるとしているが、それは別として、そもそも4世紀はじめに「大和政権」といえるものがあったのかどうか、それがあったとして、朝鮮半島にまで軍事的進出ができるほどのものであったのかどうか、と問う。
そして、上記の家永三郎氏の文中にすら、「半島の冨と文化を吸収して、その軍事力と経済力とを強化し、国内統一はこれによって著しく促進された」としているのであり、それは、当時の「大和政権」が軍事力も経済力もまだ弱く、冨も文化もたいしたことはなかったことを示しているのではないか、とする。

金氏は、家永三郎の上記のような「大和政権」が「半島南部を征服した」とする見かたを、侵略史観であり皇国史観であるとする。
家永の認識の根拠は『日本書紀』だから、それは『日本書紀』史観でもある。
日本の歴史学者が、『日本書紀』に基づく皇国史観に呪縛されている例として、井上光貞『飛鳥の朝廷』講談社学術文庫(0407)が上げられている。

金氏は、『飛鳥の朝廷』の元版の小学館版「日本の歴史」の「月報」の座談会で、井上光貞が、「(任那を、今まで考えられていたように、日本の領土とは考えないが)、任那と呼ばれる地域は、弁韓の諸国の連合というような形で存在していたが、日本人がそこにいろんな権益を持っていたので、日本の勢力が軍事的に及んでいた」という趣旨の発言をしているのを、「明治時代の外務卿の井上馨のいった言葉だとしたら不思議ではないが」と皮肉っている。
ちなみに、井上光貞は井上馨の孫にあたる。

この『飛鳥の朝廷』で、金氏は、『日本書紀』が「任那」といっている加羅諸国がさいごに滅びたのは、562年のことであった、としているにも拘わらず、推古30(622)年に、新羅征討の議がもちあがり、数万の兵が新羅に発向することになって、任那に集結して新羅をおそった、と書いている井上光貞の矛盾を指摘している。
それは、結局、『日本書紀』史観、皇国史観から抜け出ていないからではないか?

話題を呼んだ『新しい歴史教科書―市販本 』扶桑社(0106)では、「大和朝廷の外交政策」の「朝鮮半島の動きと日本」で以下のように記述されている。

古代の朝鮮半島や日本列島の動向は、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された。220年に漢がほろびてから、589年に隋が中国を統一するまでの約370年間、中国は小国が並び立つ状態で、朝鮮半島におよぼす政治的影響力がいくらか弱まった。
急速に強大になった高句麗は、313年に、このころ中国領土だった楽浪郡を攻め滅ぼした。中国を中心とした東アジア諸民族の秩序にはゆるみが生じ、大和朝廷もこれに対応して、半島への活発な動きを示した。
高句麗は、半島南部の新羅や百済を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援をあおいだ。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流をもっていた。そこで、4世紀後半、大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵した。大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。

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2008年5月 7日 (水)

「任那日本府」不存在論②

朴天秀氏も、『加耶と倭/韓半島と日本列島の考古学 』講談社選書メティエ(0710)で、「『任那日本府』はなかった」とする章を設けている。
『日本書紀』では、4世紀から5世紀にかけて、百済と倭の親密な関係が記されている。
七支刀の伝来記事を裏付ける実物が、石上神宮に存在しており、両者間に交渉があったことは確かであるが、考古資料からみると、この時期の日本列島における百済の文物、百済地域における倭の文物は貧弱である。
つまり、5世紀代においても、日本列島との交流の主体は、地理的に近い加耶地域であった、と考えられる。

しかし、6世紀になると、日本列島における加耶系文物は少なくなり、百済系文物が増大してくる。
江田船山古墳の百済系副葬品や高野槙製の武寧王陵の木棺は、加耶地域と倭の日常的交易関係から、百済が対倭交易の主導権を握ったことを示している。
栄山江流域に前方後円墳が、突如出現することは、このような変化と相関していると考えられる。
百済と倭の交易が本格化するのは、6世紀初めからで、百済の文物は継体天皇と関連する地域に集中する。つまり、百済と倭の交易の本格化は、百済の復興と継体朝の成立によるものと想定される。
加耶勢力は、河内勢力と密接な関係にあったが、継体勢力は、加耶勢力を排して百済を交易の窓口とした。
それにより、河内勢力との差別化を図って、近畿の中での優位性を獲得していったのではないか、と推測される。

韓国南部の栄山江流域で発見された前方後円墳の被葬者は誰か?
各種の説があるが、以下のように分類できる。
1.在地首長説
2.倭人説
 1)倭からの移住者説
 2)倭系百済官僚説

2朴天秀氏は、栄山江流域の前方後円墳は、6世紀前半を中心にほぼ一世代に限定された時期に築造されており、かつそれらがまとまって中心勢力化したのではなく、基本的にひとつの盆地に一基ずつ分散して分布している。
1.「任那日本府」が成立し展開したという4世紀後半から5世紀代には、栄山江流域に前方後円墳は存在せず、撤退したと考えられている時期(512~532年)に突如出現している。
2.「任那日本府」という政治的な中心地の存在を示す古墳群を形成していない。
これらのことは、4世紀後半以降、韓半島の南部を支配したという「任那日本府」との係わりは想定できないことを示している。
朴氏は、「任那日本府」とは、6世紀前半、阿羅加耶に派遣された倭の外交使節団が一時的に滞在した「安羅倭臣館」を指すものではないか、としている。

朴氏は、栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、
1.周辺の在地首長系列とは無関係に突如出現する
2.墳形、埴輪形式、石室類型、副葬品など倭人固有の墓制を示す
ことから、在地首長ではなく、日本列島から渡来した倭人である、とする。
その出身地は、周防灘沿岸、佐賀平野、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域など、九州北部から有明海沿岸にかけた地域と想定される。

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2008年5月 6日 (火)

「任那日本府」不存在論

山中順雅さんという弁護士が、『法律家のみた日本古代千五百年史』国書刊行会(9605)という本を著されている。
弁護士というのは論証の専門家であるが、深い霧に包まれて実相が良く分からない日本古代史は、彼らの論証欲を刺激する好奇の対象になり、職業で培った思考技術を適用してみよう、という気持ちにさせるものらしい。
例えば、「邪馬台国論争」に関して、弁護士の久保泉氏が『邪馬台国の所在とゆくえ』丸の内出版(1970)を出版されているし、同じく久保田穣氏が『邪馬台国はどこにあったか』プレジデント社(9709)を出版されている。
共に、論理の問題として、邪馬台国の所在地問題にアプローチしており、偶然かも知れないが、二人とも「大分説」が結論になっているのが興味深い。

山中氏の著書は、邪馬台国の位置論というような個別の問題ではなく、紀元前7世紀から紀元8世紀末までの、約1500年間の日本古代史の史実をマクロに捉えようとするものである。
奥付によれば、山中氏は1920年生まれであって、戦前・戦中の教育を受けて育った世代である。
自らの姿勢を、弁護士は現代社会の歪を正すことをミッションとしているが、現代の歪は古代の歪の延長上にあるから、古代の歴史の真実を明らかにしたい、ということである。

その1つとして、「任那日本府の不存在性」という項目がある。
「任那日本府」が存在しなかったことは、河内王朝の倭の五王の権限からしても理解できる、としている。
『宋書・倭国伝』によれば、日本列島内の王国のうち、最大・最強だったと考えられる「倭国」の国王・済(山中氏は、河内王朝三代目とする)は、443年に宋の文帝から、安東将軍・倭国王に除せられ、451年には使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の爵号を追加除授されている。

次いで、倭国王・武(河内王朝五代目)は、宋の順帝から、478年に、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除せられている。
武は、順帝に対し、「開府儀同三司」の官位を求めたが許されなかった。

持節とは、天子から賜った節(ハタジルシ)を持つことであり、古代の使者が命じられて地方かよその国に行く時の身分証明であり、使持節、持節、假節、假持節等があって、使持節は総督の意であるとされる。
武に与えられた官位は、総督として、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国のもろもろの軍事(軍隊、戦争等に関する事柄)を統括させ、安東大将軍、倭王に除する、ということである。
加羅は、金官加羅のことで、任那は金官加羅を除いた加羅諸国のことだとされる。つまり、任那・加羅で、加羅諸国の全部ということである。
秦韓は辰韓、慕韓は馬韓で、部族国家であり、倭国は河内王朝のこと、というのが山中氏の理解である。

上記からすれば、倭王・武が、中国皇帝から与えられたものは、中国皇帝の軍事権行使の代行で、朝鮮支配を認めるとか、六国の宗主権を有していた、というものではない。
中国皇帝の臣下の総督として、南朝鮮の当該国の紛争解決、平和維持のために、皇帝に代わって軍事権を行使する権限を与えられていた、ということである。
その意味は、倭国王・武は、日本列島内では、王の中の王、つまり大王として他の王国より優位の権威と権勢を認められ、南朝鮮では、百済を除いて軍事的干渉権を有していた、ということである。
『日本書紀』の編纂者らは、使持節という言葉から、任那を植民地とする「偽史」を作り出したのだろう、と山中氏は結論付けている。

倭王・武は、「開府儀同三司」を認められなかった。
開府とは、役所を設けて属官を置くことであり、宋の孝武帝は、463年に高句麗王を車騎大将軍・開府儀同三司に除している。
高句麗と対抗するために、同様の官位を求めたものと思われる。
開府は、最高指導者の三公(太宰、太傳、太保)、その下の三司(司馬、司徒、司空)にのみ許されていたが、将軍にも開府が許されることになって、三司に儀同(準ずる)という意味の「開府儀同三司」という官位が生まれた。
倭王・武は、「開府儀同三司」に除せられなかったのであるから、府を開くことができなかったはずである。
つまり、「任那日本府」は、『日本書紀』編纂者の創作であった、ということになる。

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2008年5月 5日 (月)

古代韓日交渉史

朴天秀『加耶と倭/韓半島と日本列島の考古学 』講談社選書メティエ(0710)は、韓国と日本の考古学の最近の成果を踏まえ、古代における朝鮮(韓)半島と日本列島との係わりを展望している。
朴氏によれば、これまでの古代韓日関係史に関する研究は、文献史学によって多くの研究成果が蓄積されてきたが、それが今や限界に近づきつつある。
一方、韓半島および日本列島から出土した考古資料の質と量の増加は著しく、古代の韓日交流史研究に新たな地平が拓けつつある。

1980年代後半、陝川郡玉田古墳群の調査の結果、5世紀後半以後、日本列島全域に出現する金銅製の装身具、馬具などが、加耶内陸の大加耶で製作された事実が明らかになった。
これまで、金官加耶を中心とした沿岸地域に限られてきた研究を克服する契機になるものだった。
また、この時期に、大阪南部で、大庭寺遺跡が調査され、従来議論のあった初期須恵器の工人が、金官加耶とその周辺地域からの移住者であることが確認された。

1990年代前半には、金海市大成洞古墳群と良洞里古墳群で、倭人の特殊な呪術的文物と考えられてきた巴形銅器、紡錘車形石製品、鏃形石製品、玉杖と広形銅矛、鏡が出土し、日本列島産の威信財が、金官加耶の王墓の副葬品として移入されたことが明らかになった。
また、日本列島産と認識されていた筒型銅器が、金官加耶で日本列島より早い時期に多数製作されていたことが分かり、その起源について論議されている。

さらに、前方後円墳の発掘調査も開始され、咸平郡新徳古墳では、石室内部を赤色顔料で塗布した北部九州系の横穴式石室が確認され、光州市明花洞古墳と月桂洞古墳の調査で、日本列島にのみ分布するとされてきた埴輪が発見された。
韓半島南部で発見された前方後円墳は、栄山江流域を中心に、13基を数えるという。
その起源についても論議があったが、日本列島では3世紀中葉に出現すること、栄山江流域の前方後円墳が6世紀前葉に限定されることから、日本列島起源であることに疑念はない、と朴氏は結論している。

この前方後円墳が集中する栄山江流域は、日本の古代史研究者が、4世紀後半以降、韓半島南部を支配した拠点としてきた地域である。
この地域は、任那日本府の隷下にあった地域とされることから、日本の研究者の関心を集めてきた。
一方、韓国側の研究者には、逆の視点から、前方後円墳の存在を意図的に回避もしくは否定しようとする傾向があった。
しかし、栄山江流域の前方後円墳は明らかに倭人と関連する遺跡であって、正面から議論することが重要である。
この前方後円墳は、5~6世紀の韓日関係史や任那日本府の実体や性格を把握するための有力な端緒になるはずだ、というのが朴氏の意見である。

朴氏によれば、文献史学では、古代の韓日関係については百済を中心に把握されてきた。
しかし、実際には、3世紀から5世紀まで日本列島との交流の中心はあくまでも加耶であり、百済との交流が本格的に始まるのは6世紀からにすぎない。
また、文献史料に依拠して、敵対関係として把握されてきた新羅と倭の交渉が、考古資料では5世紀前半と6世紀後半に活発に行なわれていたことが明らかで、既存の文献史料に依拠した研究成果を、考古資料の面から再検討することが必要である。

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2008年5月 4日 (日)

任那史観

森本剛史さんというフリーライターの人が、[逆転の日本史]編集部編『日本誕生の謎を解く』洋泉社(9812)収載の『幻の国家・金官伽耶の正体/任那日本府ななかった!』という解説で、金官伽耶と倭との係わりを論じている。
森本氏は、中学・高校時代に、「大和朝廷が、4世紀中ごろまでに国内統一を終え、4世紀後半になると朝鮮半島南部に進出して『任那日本府』を置いた」というように教わった、と書いているが、私のおぼろげな記憶も同じようなものである。
しかし、森本氏の娘さんの高校教科書では、「4世紀後半に高句麗が南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するためにはやくから伽耶と密接な関係を持っていた倭国(大和政権)も高句麗と争うようになった」と記述され、欄外の注で、「なお、『日本書紀』では伽耶諸国のことを『任那』と呼んでいる」とある、という。
倭と高句麗との争いは、広開土王碑文からしても、歴史的な事実であると位置づけられているが、「任那」という呼称自体が、グローバル・スタンダードとして認められていない、ということであろう。

「任那日本府」が実在したという考えは、『日本書紀』の記述に由来する部分が大きい。
森本氏によれば、『日本書紀』には100ヵ所にも及ぶ任那記事があるという。
「任那日本府」への関心は、日本が朝鮮半島の植民地化政策を推し進めた明治以降に高まった。朝鮮総督府を設置したり、韓国を併合したり、というような韓国支配の根拠としようということである。
古代に、倭が朝鮮半島を支配していたことを立証しようとして、伽耶地方の発掘を精力的に行なったが、結果として、「任那日本府」を裏付ける成果は得られなかった。
つまり、日本の朝鮮半島進出を正当化しようとした任那史観は、蜃気楼のようなものであった可能性が高い。

中国吉林省に立っている広開土王碑の碑文には、高句麗が倭と戦って撃退した、というような内容のことが書かれている。
この文章の解釈を巡って論争がある。
例えば、かつて「倭が、辛卯の年に来て、海を渡って百済・新羅を破って臣民とした」と解釈されていた文章が、読み方によっては、「倭が、辛卯の年に来たので、高句麗が海を渡って百済・新羅を破って臣民とした」というようにも解釈できる。
2奈良県石上神社に保存されている七支刀の銘文の解釈にも同様の問題がある。
かつては、百済の王から倭の王に献上されたものと解釈され、つまり、倭は百済から献上品をもらうほどの力があった、と理解されていた。
しかし、読み方によっては、倭が諸侯として扱われていると解釈することもでき、そうすると、百済が上位で倭が下位ということになる。

つまり、「任那日本府」の存在を裏付けるとされていた金石文は、「任那日本府」が存在したことを前提とした読み方だった、ということになる。
証明すべき結論が前提になっているのでは、論理が逆転していることになる。

金官伽耶は、朝鮮半島南部に群雄割拠していた小国の中で、最大の勢力をもっていた。
金官伽耶が興った地は、主浦村というところとされ、この「主浦」が古代朝鮮語で、イムナと発音され、それが任那と表記され、ミマナと訛ったといわれる。
現在の慶尚南道の金海市付近とされ、倭と魏、帯方郡などを結ぶ交通の要衝だった。
豊富な鉄資源を持ち、大量の鉄製品を生産していて、鉄の武器を持つ強力な軍隊に支えられていた。
6世紀に新羅に滅ぼされてしまうが、それは弱小国家だったからと考えられてきたが、武力国家だったから滅ぼされたのではないか、とも考えられると森本氏は指摘している。
何やら、憲法第9条を巡る論議のようでもある。

大成洞古墳からは、大量の鉄鋋(鉄のインゴット)が出土している。
鉄鋋から、武器や農具が製造されるが、九州で発掘された鉄鋋と伽耶のものが同一であるという分析結果が出ている。
注目されるのは、高熱の登り窯で焼いた土器が出土していることで、倭国の須恵器の元になったものとされる。
伽耶との交易は、日本列島内の主導権を握るための有力な条件だった、ということになるだろう。
伽耶が滅びた後、支配者集団や技術者が、日本に移り住んだ可能性もあるとされる。
とすれば、白村江帰化人と同様に、日本の技術や文化に大きな影響を及ぼしたと考えられる。

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2008年5月 3日 (土)

伽耶とはどういう国だったのか

仁徳天皇陵のような巨大な古墳は、巨大な権力の存在を想像させるが、応神天皇や仁徳天皇が果たして実在していたのかどうか、そして現在伝えられている古墳の被葬者だったのかどうか、本当はよく分かっていないようである。
『記紀』の記述に疑わしい部分が多いことは否定できないし、中国の史書には日本列島の状況に関して、空白の時期がある。
4~5世紀の日本は、謎の時代と言われている。

1990年7月、韓国釜山市の北西近郊にある金海市大成洞古墳群で、金官伽耶国の王墓と思われる遺跡が発見された(『歴史誕生12』角川書店(9110))。
大陸と古代日本を結ぶ朝鮮半島の玄関口として栄え、当時の先進的な技術・文化を花咲かせていたと伝えられる金官伽耶国については、それまで実体がベールに包まれた謎の存在だった。
そのベールが、ようやく剥がされつつある。

大成洞古墳群は、金海市の中心部の標高20m余りの細長い丘陵地にあり、丘陵の頂上部から、長さ8m余りの大型の木槨墓が多数発見された。
二号墳と称される木槨墓は、主槨全面に支配集団が使うとされる朱が塗られており、副葬品として、巴形銅器、筒型銅器などの青銅器、150枚の鉄鋋、甲冑・鉄剣・鉄鏃などの武具・武器・馬具が大量に出土した。
副槨からは、丸底長頸壺などの土器も多数発見され、この墓が4世紀末から5世紀はじめのものであると推定された。
この木槨墓は、伽耶で発見された古墳の中で最大規模であり、首長墓として時期が古く、金官伽耶国の王墓に間違いないとされる。

伽耶は、朝鮮半島では珍しく、豊かな森林があり、洛東江という大河が肥沃な土地を育んだ。
伽耶は、小国家の連合体だったと推定されているが、それぞれが独立的に他の朝鮮半島の国々や中国と外交を行い、それぞれの小国家が国力を保持しうる独自の力を持っていたとされる。
つまり、当時の伽耶は、新羅よりも先進的だったと想定されている。
しかし、統一されずにいたことから、結局は強大な隣国に圧迫され、6世紀に滅びた。

2_2日本では、この伽耶地域が、大和政権の支配下にあり、「任那日本府」が置かれたという見方がある。
一方で、韓国の教科書には、任那という言葉は一切登場しないし、日本府が置かれて倭がこの地域を支配したという記述は全くないという。
また、日本で任那とされている知己は、加耶とされ、その領域は狭い範囲とされている。

大成洞古墳群は、伽耶の建国説話の宿る北の亀旨峰と南の金海貝塚に挟まれ、すぐ東南に、建国の始祖とされる金首露王の王陵がある。
注目されるのは、出土品の鉄製品が、騎馬民族の習俗を受け継いだものであり、かつその豪華さからして、金官伽耶が、鉄の武器を持つ強力な軍隊に支えられていたのではないか、と推定されることである。
そして、従来、日本にしかないと思われていた巴形銅器が発見されたことである。
有名な吉野ヶ里遺跡から巴形銅器の鋳型が発見されているが、大成洞遺跡の発掘で、日本のものの2倍の大きさの巴形銅器が発見されたことで、その製作地についても再考を迫ることとなった。
また、筒型銅器も多数出土し、これまで日本製であるとされてきた朝鮮半島の筒型銅器も、伽耶製ではないかと見直されている。

上記の発掘成果は、鉄にしても土器にしても、青銅器にしても、伽耶が当時強大な力を持ち、高度な技術力を持った国であったことを窺わせるものである。
その伽耶と古代日本はどういう関係にあったのか?

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2008年5月 2日 (金)

仁徳天皇陵の工事試算

大阪府堺市にある大仙古墳、一般に仁徳天皇陵といわれている古墳は、前方後円墳の典型であるが、長さが400mを越える巨大な規模を誇る。
このような巨大古墳を築造するためには、それに相応した強い権力があっただろうと、素朴に思う。
もちろんそれが本当に仁徳天皇陵であるのかどうかは、現時点では確証があるわけではないが、以下通称として、仁徳天皇陵の名称を用いる。。

仁徳天皇陵という巨大な古墳について、加藤秀俊・川添登・小松左京監修、大林組編著『復元と構想』東京書籍(8603)が、面白い推計を行なっている。それは、このような巨大な構造物を築造するのに、どの程度の工数を要し、その工事費は現在の金額に換算すると、いくらぐらいになるかを試算してみたものである。
もちろん、推計にはいくつかの前提が置かれているし、古代工法そのものが完全に復元できるわけではないから、相当の誤差を含むものであることは容認することが必要である。
大林組の推計の大要は、以下の通りである。

1.立地
仁徳天皇陵は、現在は海岸線からかなり内部に入ったゆるやかな台地上に位置しているが、築造期には海岸線は、現在よりもずっと内陸側に入り込んでいた。
想定される海岸線からすると、仁徳天皇陵は、海に近い小高い台地に造営され、海を航行する船の視野に入ると共に、大阪湾を一望できる広大な視野を持っていたと考えられる。
土木工学的な視点でみると、140万㎥とされる土量を支えるためには相当な地耐力が必要で、この陵は、礫層を主体とした洪積段丘上に位置していて、土層は砂礫層と固結した粘性土との互層で、現在の土木工学からみて、十分な地耐力をもつ地盤であるとされる。

2.土取り場
140万㎥と推定される土は、どこから採取されたものか?
先ず第一に想定されるのは、墳丘をめぐる濠の掘削土である。現在一番外側にある三重目の濠は、後世に掘削されたもので、本来は二重濠だったとされる。
二重濠を前提に、140万㎥の土量を計算すると、濠の深さは10m以上必要となるが、掘削法面の安定性や湧水等を考慮すると、当時の技術水準では5mを限度とみると、掘削土量は必要量の半分程度である。
当時の運搬手段は人力主体なので、土取り場は陵の近くに限定される。陵の西側に不自然に窪んだ土地があるので、そこから運搬されたものと考えられる。

3.葺石採取場所
仁徳天皇陵は現在は樹木に覆われているが、築造当時は、表面は葺石で覆われていたと想定される。
やや大型の川石を利用していたとされ、陵の南側にある石津川(運搬距離約5.8km)が有力な採取場所と考えられる。

4.設計数量
a 敷地面積…478,000㎡(現在の仁徳天皇陵敷地)
b 伐採除根の範囲…368,600㎡(二重濠外縁部の外側10mの範囲)
c 陵の主要部の面積
  -外濠面積…44,580㎡
  -内濠面積…131,690㎡
  -中堤面積…65,800㎡
  -墳丘面積…103,410㎡
d 墳丘の規模
  -前後の主軸の長さ…475m
  -前方端の幅…300m
  -前方丘の高さ…約27m
  -後円丘の径…245m
  -後円丘の高さ…約30m
  -墳丘の土量…1,405,866㎥
e 濠の掘削土量
  -内濠…599,000㎥
  -外濠…139,000㎥
     計…738,000㎥
f 客土量…742,000㎥
g 運搬土量…1,998,000㎥
h 葺石数量…5,365,000個
i 埴輪数量…約15,000個

5.工期と工費
・工期
  -現代工法…2年6ヵ月
  -古代工法…15年8ヵ月
・工数
  -現代工法…延べ29,000人(1日当たりピーク時60人)
  -古代工法…延べ6,807,000人(1日当たりピーク時2,000人)
・工費(試算当時)
  -現代工法…20億円
  -古代工法…796億円

この試算が発表されたのは、「季刊大林」No.20(8504)である。当時と現在のデフレーターを勘案すれば、古代工法の現在価値は、約2,000億円を越えるものと思われる。
といってもピンと来ないが、必要性について大きな論議を呼び、湛水が始まった徳山ダムの建設費が、当初の約2,500億円から3,500億円に膨らんだとされている。
仁徳天皇陵試算の有効数字はせいぜい1桁程度だろうから、巨大ダムと同程度の工費というイメージだと考えていいのではないだろうか。
ちなみに、同ダムの堤体積は13,700,000 ㎥というから、仁徳天皇陵の墳丘は約10の1程度ということになる。

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2008年5月 1日 (木)

任那日本府

藤井游惟氏や室伏志畔氏などが、日本の王権のルーツだとする「伽耶」は、朝鮮半島南部にあった小国家群のことである(『歴史誕生12』角川書店(9110))。
かつては、任那と呼ばれるこの地は、倭が「任那日本府」を置いて統治していた、と考えられていた。

『日本書紀』の欽明紀2年に次のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』(8808))。

夏四月、安羅(任那の一国で慶尚南道咸安の地、日本府のあった所)の次旱岐(官職名か)夷呑奚・大不孫・久取柔利・加羅(任那の一国で慶尚北道高霊の地)の上首位古殿奚。率麻の旱岐、散半奚の旱岐の子、多羅の下旱岐夷他、斯ニ岐の旱岐の子、子他の旱岐らと任那の日本府の吉備臣とが百済に行って、共に詔書をうけたまわった。

つまり、任那の役人と日本府の人間が、百済に集められて、日本の天皇の詔が伝えられた、ということである。言い換えれば、この日本府は、朝鮮半島における日本の出先機関であったと解釈できる記述である。
任那は、『日本書紀』の崇神紀が初出で、以下のように説明されている(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈上〉』(8806))。

六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。

また、『日本書紀』における任那の最終記事は、大化二年条の次の記載である。

九月、小徳高向黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差出させるとともに、新羅から任那の調をたてまつらせることを取止めさせた。--黒麻呂の別名玄理。

つまり、『日本書紀』は、神話的存在の崇神天皇の時代から、七世紀に至るまで、任那と呼ばれる国に強い権力を振るっていた、と記述しているわけである。
『日本書紀』以外にも、朝鮮半島北部にある高句麗の都の集安にある巨大な石碑-広開土王碑に、4世紀末に、倭が百済や新羅を破って高句麗と激しく戦った、と解釈できる文章がある。
朝鮮半島における倭の勢力がそれだけ強大なものであれば、それを支える出先機関があって然るべきだろう、というように理解されてきた。
また、奈良県石上神宮に伝わる七支刀の銘文を、百済が倭王のために献上品として贈ったものと解釈されていた。

これらから帰納できる倭国のイメージは、朝鮮半島に大きな影響力を持った強大な国である。
その出先機関として、「任那日本府」があったというわけである。
『日本書紀』の記す「任那日本府」という言葉からは、整った官僚機構が存在したかのような印象を受ける。
とすれば、何らかの遺構が存在するに違いない。

日露戦争後に東アジアに勢力を伸ばした日本は、1910年に朝鮮総督府を設置し、朝鮮半島の植民地化を進めた。
その過程で、伽耶地方の発掘調査を行い、「任那日本府」の物的証拠を探索した。
それは、帝国主義的侵略を、歴史的事実を踏まえたものとして合理化しようとするものだった、といえる。
しかし、結局は「任那日本府」と呼べるような遺構は見つからなかった。

「任那日本府」が存在しなかったとしたら、『日本書紀』にはなぜ、大量の任那関連記事を載せているのか。
果たして、南部朝鮮支配のための「任那日本府」は存在したのか、しなかったのか?
それは日本国家の起源に関するイメージにどう影響するのか?
伽耶は、6世紀に新羅に滅ぼされ、歴史から消えた。
「任那日本府」の実像の理解は、わが国古代史理解の1つの鍵のようである。

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