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2008年4月21日 (月)

上代特殊仮名遣論争③

つまり、藤井游惟氏は、上代特殊仮名遣いを書き分けたのは、条件異音を聞き分けた言語的外国人であり、当時の歴史的状況からすれば、それは白村江の戦いの後に帰化した百済人が中心だったに違いない、とする。
奈良時代の日本語も、現代の日本語と同じように5母音であり、あたかも8母音のように書き分けられているのは、条件異音を書き分けたからだということである。
この点において、毎日新聞の敏腕記者だった岡本健一京都学園大学教授が大きな衝撃を受けたという松本克己説(金沢大学文学部紀要に掲載された『古代日本語母音組織考--内的再建の試み--』(1975年)、後に『古代日本語母音論--上代特殊仮名遣の再解釈』ひつじ書房(9501)として刊行)と同じである。
しかし、藤井游惟氏は、松本説を一種の「トンデモ説」であるとして否定している。

藤井氏が松本説を否定するのは、松本氏が、「上代特殊仮名遣いで、条件異音の書き分けをしていたのは、日本人自身」としているとしか考えられないことに対してである。
条件異音とは母語話者には意識できない発音の差異のことである。
これは言ってみれば、「条件異音」の定義のようなものであり、母語話者が条件異音の書き分けをすることは、「絶対にあり得ない」。
この点において松本説は「トンデモ説」だいうのが、藤井氏の指摘である。
言い換えれば、藤井氏は、松本氏の業績全般を否定しているわけではないし、松本氏自身は、外国人記述の可能性を視野に入れていたのではないか、と推測をしている。

藤井氏は、松本氏の説の立て方に、意識的か無意識的かは別として、次のような戦略的な意図があったのではないか、としている。
松本氏の論文が出た頃には、『記紀万葉』を外国人が書いたなどと言い出せば、言語学次元の問題を越えて、歴史学者を巻き込んだ「外国人記述説」の議論が沸騰してしまうだろう。
だから、「音素体系と書記体系とのズレはしば起こる現象」とするにも拘わらず、例示を紀元前10世紀頃のギリシャ語の例を挙げるに留めている。
松本氏が「内的再建」として、「一つの言語の歴史を他言語との比較・類推で考えるのではなく、当該言語の内部から言語史を再構築していく」という方法論を標榜しているのは、「ある言語の表記の為に外来の文字を適用したのは、当該の外国人」という史実から読者の目をそらすためのトリックである。
「トリック」だとか「トンデモ説」などと過激に否定するのは、松本氏が「日本言語学会」の会長まで務めた学者であることを含め、条件異音の概念に対する学界の理解不足に対する啓蒙的な意図のようにも感じられる。

ともあれ、「上代特殊仮名遣い」現象は、国語史としての重要な問題であるのみならず、それが行なわれていた時代の歴史像と密接に係わる問題である。
論争史のなかで、松本氏とほぼ同時期に8母音説に異を唱えた論文がある。
松本克己の論文の発表は1975年3月であるが、同年9月、森重敏氏が、「上代特殊仮名遣とは何か」という論文を発表した。
その中で、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかったことなどを傍証として挙げている(WIKIPEDIA/08年1月31日最終更新)。
この結論は、藤井氏の結論と同様のものであるが、その推論の過程が異なっている。

森重説は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。
すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。
この辺りの解説は、この解説を読むだけでは正直に言ってよく分からない。
ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になったというのが要旨である、ということである。
藤井氏によれば、この加重説では、上代特殊仮名遣いの甲乙書き分けが説明できないので、言及されなくなった。

この時期を同じくして登場した8母音否定説に対しては多数の反論が展開され、論争が繰り広げられた。
WIKIPEDIAの解説では、「上代母音についての結論が出たわけではなく、上代にはいくつの母音が実際に存在したのか、その具体的な音価は何か、なぜイ段・エ段・オ段の一部のみに使い分けが見られるのかなどについて、今後も様々な分野からのアプローチが待たれている」状況である。
管見では、藤井氏の推論は、その有力なものではないかと思う。

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