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2008年4月 3日 (木)

大化改新…⑦否定論(ⅳ)

原秀三郎氏は、改新否定説の対象としている大化改新を、次の5条件として要約する(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。
それは、坂本太郎が、『大化改新の研究』至文堂(1938)において示したもので、基本的な学説として位置づけられてきた。
①645年6月14日、孝徳天皇が蘇我氏滅亡の直後に即位した。
②6月19日に年号を大化に改めた。
③12月9日に難波長柄豊碕に移した。
④大化2年正月元旦、甲子の日、改新の詔四条が出され、第一条で公地公民の原則が示された。
⑤大化の5年間で主要な改革がほぼ完了した。
そして、坂本氏は、改革の終わった白雉年間はほとんど何もなく、663年の白村江の敗戦の後は、改新以前の古い政治に立ち戻った、とする。

このような見解に対し、原氏らの否定論の論拠は以下のようなものである。
①部民制の廃止
宇治谷孟現代語訳『(日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫)』では、改新詔は、以下の通りである。

その第一、昔の天皇たちの立てられた子代の民・各地の屯倉と臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民・豪族の経営する各所の土地を廃止する。そして食封を大夫より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛を官人・百姓にそれぞれ賜わることにする。そもそも大夫は人民を直接治めるものである。よくその政治に力を尽くせば人民は信頼する。故に大夫の封禄を重くすることは、人民のためにすることなのである。

原氏は、上掲文の「そして食封を……」の部分の文脈を問題にする。
「廃止する」というのは、ここで「廃止する」という命令形で、「そして……」は、その代わりに賜うと読むのが自然であろう。
ところが、肯定論者は、「廃止する」を「廃止せよ」とこれから廃止するというニュアンスで捉え、「そして……」は、「そうしたらあたえるであろう」とする。
原氏は、そもそもこのような解釈は自説に都合のいいように無理して読んだものだ、と批判する。

そして、この詔によって、私地私民制が廃止されたというのが、改新論の根本である。
原氏は、これに対し、部民制の廃止は、白村江の敗戦の翌年の664年の「甲子の宣」から始まるとする。
それは、天智3年2月条の以下の記述(上掲書)に基づく。

三年春二月九日、皇太子(中大兄)は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。

この段階で、民部(公民)と家部(私有できる民)との区別が明確になったのであり、それが公民制の前提である。
これに基づいて庚午年籍が作られ、国家社会主義的な軍国日本が作られていく、という理解である。
そして、天武4年(壬申の乱の4年後)2月条の次の文章に着目する(坂本太郎他校注『日本書紀日本書紀 (5) (ワイド版岩波文庫) 』(0311))。

己丑に、詔して曰はく「甲子の年に諸氏に給へりし部曲は、今より以後、皆除めよ。

この部分の部曲の解釈が問題で、宇治谷孟現代語訳では以下のように訳されている。

十五日、詔して「天智三年に諸氏に賜わった民部・家部は以後中止する。

つまり、部曲=民部・家部というのが、宇治谷訳である。
しかし、原氏は、浜口重国『唐王朝の賎人制度』(東京大学出版会)に、部曲とは賎民の一種で、とくに売買できないものをいう、と明記されていることを引き、部曲は、家部の特定部分を指し、その他の部分が、家人・奴婢として私有されるものである、とした。
つまり、大化改新の内容を構成する「④大化2年正月元旦、甲子の日、改新の詔四条が出され、第一条で公地公民の原則が示された。」という論拠は否定された、というのが原氏の主張である。

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