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2008年4月24日 (木)

白村江帰化人

「帰化」とは、みずから、また同族・集団の意志や勧誘によって渡来したものに用いられる(平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館(9306))。
朝鮮半島から日本列島への帰化は、朝鮮三国の政治的情勢によって、波があった。
その時期は、以下の通りである。
1.4世紀末(応神紀)
2.5世紀末~6世紀初(雄略・欽明紀)
3.7世紀後半(天智・天武・持統紀)
いずれも、朝鮮三国間に戦争が起き、国家存亡に係わる政治的な緊張の時期で、集団的な渡来があった。
上記の7世紀後半の波が、白村江の戦いで百済が滅亡したことによるものである。

白村江帰化人(白村江の敗戦によって百済から渡来した帰化人)の中で、天皇家の姻族として大きな勢力をもたのが、百済王氏である。
百済王氏は、百済最後の王となった義慈王の子孫である。
義慈王の敗死により、臣下の鬼室福信は日本に亡命し、日本にいた豊璋王を立てて国の回復を図ろうとした。
しかし、その志は成らず、禅広王のみが日本に残って、持統天皇のとき、百済王の姓を賜ったという。
百済王氏の中で、敬福が陸奥守としいて東大寺大仏の塗金を計上したことが『続日本紀』に記されている(07年9月29日の項)。
その他、俊哲・邑孫・玄鏡など、陸奥鎮守府将軍などの武将として活躍した人が多かった。

帰化人について関晃氏は、次のように規定している(上掲書)。

帰化人(という場合は、はじめに渡来したその人だけではなく、その数代のちの子孫まで含める。それはやはり帰化人としての特殊性が、そのくらいの世代の間は失われないで残っており、その特殊性こそ歴史的な意味が認められるからである。

この特殊性こそが、「上代特殊仮名遣い」という現象をもたらした、というのが藤井游惟氏の説である。
白村江帰化人の多くは、はじめ近江に安置された。
『日本書紀』に以下の文章がある。

(天智八年)
佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百人余人を近江国蒲生郡に移住させた。

この「余」が百済王氏のことであり、「鬼室」とは高級官僚の氏である。
王族や高級官僚が、集団的に帰化し、天智天皇の宮室の置かれた近江大津宮の近くに安置されたことが推測できる。

彼らは、天智天皇に登用された。
『日本書紀』の天智紀に次の記載がある。

(天智十年一月)
この月、佐平余自信、沙宅紹明(法官大輔)に大錦下を授けられた。鬼室集斯(学頭職)に小錦下を授け、達率谷那晋首(兵法に詳しい)・木素貴子(兵法に詳しい)・憶礼福留(兵法)・答本春初(兵法)・鬼室集信(薬に通ず)に大山下を授けた。小山上を達率徳頂上(薬に通ず)・吉大尚(薬に通ず)・許率母(五経に通ず)・角福牟(陰陽に通ず)に授けた。小山下を他の達率たち五十余人に授けた。

達率は、百済の将軍を示す肩書きである。
天智天皇が、百済の将軍たちを軍事的な側面で登用していたことが窺える。
しかし、壬申の乱を経て天武天皇が権力を掌握すると、白村江帰化人が登用された形跡が見られなくなる。
彼らに活動の場が与えられるのは、平城遷都後の律令制下における実務官職においてである。

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