大化改新…⑨白雉期の位置づけ
美術史において「白鳳時代」という言葉は大きな比重を占めている。
しかし、その「白鳳の由来」については曖昧であると言わざるを得ない(08年1月6日の項、1月8日の項)。
白鳳は白雉の異称である、というのが坂本太郎以来の一般的な理解のようであるが、それにしては白雉年間の意義についての論議が少ないようである。
旧来の通説的には、めざましい改革が行われたのは、大化年間だけのことで、白雉期には改革の進展はなかったとする。
その論拠は、白雉という瑞祥が、それまでの5年間(大化年間)の政治が良かったから、出現したという解釈である。
『日本書紀』には次のようにある。
(白雉元年)
二月九日、長門国司草壁連醜経が白雉をたてまつって、「国造首の一族の贄が、一月九日に麻山で手に入れました」といった。これを百済君豊璋に尋ねられた。百済君は「後漢の明帝の永平十一年に、白雉があちころにみられたと申します」云々といった。また法師たちに問われた。法師たちは答えて、「まだ耳にせぬことで、目にも見えません。天下に罪をゆるして民の心を喜ばせられたらよいでしょう」といった。道登法師が言うのに、「昔高麗の国で伽藍を造ろうとして、たてるべき地をくまなく探しましたところ、白鹿がゆっくり歩いているところがあって、そこに伽藍を造って、白鹿薗寺と名づけ仏法を守ったといいます。また白雀が、ある寺の寺領で見つかり、国人はみな『休祥(大きな吉祥)だなあ』といいました。また大唐に遣わされた使者が、死んだ三本足の烏を持ち帰った時も、国人はまた『めでたいしるしだ』と申しました。これらはささいなものですが、それでも祥瑞といわれました。まして白雉とあればおめでたいことです、と。僧旻も、「これは休祥といって珍しいものです。私の聞きますところ、王者の徳が四方に行き渡るときに、白雉が現れるということです。また王者の祭祀が正しく行なわれ、宴会、衣服等に節度のあるときに現れる、と。また王者の行いが清素なときは、山に白雉が出て、また王者が仁政を行なっておられるときに現れる、と申します。周の成王の時に越裳氏が来て、白雉を奉って、『国の老人の言うのを聞くと、長らく大風淫雨もなく、海の波も荒れず三年になります。これは思うに聖人が国の中におられるからでしょう。何故、行って拝朝しないのだ、とのことでした。それで三ヵ国の通訳を重ねて、はるばるやってきました』と言ったということです。また晋の武帝の咸寧元年に、松滋県でも見られたとのことです。正しく吉祥でありますので、天下に罪をゆるされるがよいでしょう」といった。
大化年間に改革を限定するという説に対して、白村江の敗戦(663年)の後、天智3(664)年の「甲子の宣」から改革が始まるとするのが、原秀三郎氏らの見解である。
それは、大化改新詔の第一条の部曲をやめて公地公民の原則を行い、その代わりに食封を賜うということが言えるのが、天武4(675)年に部曲が廃止されてからでなければならないからである。
他の租税等の改革は、公地公民の原則をもとに行われるものであるから、大化年間に一挙に行われるのは無理だ、ということになる。
原氏は、孝徳朝の実体は白雉以降であり、その記録が大化年間に集中的に集められたのではないか、とする。
それは、『日本書紀』の立場が、藤原鎌足の事績を顕彰するところにあり、乙巳のクーデターの後に、中大兄(天智)の右腕の鎌足が重要な役割を果たしたと位置づけたいからである。
ところで、「九州年号」(08年1月7日の項)は表(斎藤忠『失われた日本古代皇帝の謎 』学研M文庫(0803))のようなものがあり、白雉元年は652年とされる。
『日本書紀』では、白雉元年は650年だから、2年のズレがあることになる。
原氏は、孝徳は、蘇我氏滅亡の5年後の白雉元年に即位したとし、そこから新政が行われたのであり、それを「白雉惟新」と名づけている(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。
明治維新の「維」新と区別するために、「惟」新の文字を使ったとする。
その具体的内容として、第一に「評制」が施行された。
第二に、白雉改元をした。
第三に、白雉2年に難波遷都を行った。これに伴い、畿内制を施いた。
第四は、653年と654年に遣唐使を派遣した。
これらの孝徳の新政は、儒教に基づく理想主的な政治であったため、現実面の経済政策や土地政策でぬかりがあり、中大兄と対立関係になった、というのが原氏の「改新」の捉え方である。
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